はてなキーワード: バリアとは
中の下くらいのスクールカーストで、よくアニソンをカラオケで歌っていた。
勉強があまり好きでないのか、進学はせず、ライブの遠征費がもったいないとの事で東京に行った。
ちょっとだけ人よりサボリ癖があった。
今まで抑制してた欲が急に爆発したのか、ライブに行き、カードでグッズを買い漁っていた。
15万入った財布をある日、落としていた。そこから何かのタガがはずれたようだった。
毎日東京の友人と飲み歩き、家には帰らず、そのまま値段も確認せずパセラやバリアンに泊まったり、ネカフェで1日を過ごしていた。
キャバクラで働くようになった。よく「出る時間を引き延ばしてたらいつの間にかどうやっても間に合わない時間になったから当欠する」と言っていた。
先日、AVに出た、と語っていた。タイトルを確認し、ダウンロードした。肌が化粧で荒れ、にきび跡がボロボロの彼女がそこにいた。
サマータイムはタイムゾーンの一種と考えることもできるので(該当時期だけタイムゾーンがずれると解釈できる)、複数タイムゾーンにすでに対応しているシステムだと導入は楽だ。
アメリカの場合はタイムゾーンが西部、中部、東部と3つあるので国内向けのシステムでもほとんどがタイムゾーンを意識して作られているし、そもそもタイムゾーンが導入されてから長い。
ところが、日本はどうだろうか?
日本は結構東西に長いのだが、タイムゾーンは一つしかない。日本標準時 JST だ。 UTC より9時間すすんでいるので (UTC+9)と表記される。
複数タイムゾーンに対応したプログラムを作る場合は、内部では UTC に変換して処理や保存を行い、表示と入力部分だけ現地時間に対応するのが一般的だ。
サマータイムになろうが、別タイムゾーンに飛行機で移動中であろうがUTCは常に進み続ける。(正確にはうるう秒があるので1秒間足踏みしたりするのだが)
ローカルタイムはサマータイムになった日とか場所を移動した日には前後に飛んでしまうので時刻順にデータを並べ替えたりするのには使えないのだ。
ちなみにアメリカ軍の戦闘機F-22が日付変更線を超えて沖縄に初めて来たときソフトウェアがバグって修理のためにアメリカに帰って行ったことがあった。笑いごとではない。
さて、日本中にある既存のシステムはどうだろうか?君の作ったシステム、関わったシステムはどうだろう?
MySQLのシステムタイムゾーンをJSTにしていたりしないか?
「JSTで保存して、JSTで出力すればタイムゾーンの変換なんかしなくていいじゃん?だって日本人しか使わないんだぜ?言語のバリアがあるからね(はぁと」
なんてシステムはざらだ。下手すら時刻を文字列型としてJST前提で保存してたりして。
他のシステムと相互通信するソフトウェアはどうだろうか?相手のタイムゾーンがJSTであると仮定していないか?アメリカ西海岸から接続があった時も大丈夫か?
てか、そもそもロジックと表示部分がちゃんと分離されているか?モデルとビューの分離。教科書でならっただろ?
おいおい、ビューで計算したものをモデル側で未チェックで保存したりしてないよな?
テストは書いてあるか?タイムゾーンが変わって時間が飛んだり戻ったりしたデータが送られてきてもこけないようになっているか?
そもそもテストは書いたことあるのか?てかソースはそもそもあるのか?
あー・・頭痛くなってきた。やめよう。
「大臣、無理です!」
思えば、この世に生を得てからずっと自分を突き動かしていたのはこれだったのだろう。
幼稚園の頃、横殴りに飛んでくる「死ね」から見を守るためにいい子を演じようとしていた。
そうすれば誰かが殺しに来ても他の誰かが守ってくれると信じられたから。
その感覚は小学校に入ってからも変わらず、いつどこからか飛んでくるかも分からない「死ね」を防ぐためのバリアとして「自分には価値がある」というアピールをしようと必死になっていた。
その感覚のまま大人になり、そして実際に自分のようにうまく社会に溶け込めていない人間が実際に会社の中でどう働いているのかを見ることで遂には「無能は死ね」が自分の中からも産まれてくるようになった。
無能であり死ぬべきはずである自分と、同じく無能であり死ぬべきはずである連中とが、お互いに死ぬべきだと思い合いながら生きている地獄の中で今日も生きている。
どうすればいいんだ。
それは上手く希釈されて、それ単体では「死ね」とは見なされないようにされているが間違いなく「死ね」なのだ。
100倍に薄めた毒が薬としてその存在を許されるように、「死ね」はその姿を助言や評価といった形に変えれば許される。
1万倍に薄めた毒がただの調味料として扱われるように、ただの軽口や愚痴の形であれば「死ね」はあまりにも容易に口から漏れる。
それが無数に漂い飛び交う中で今日も生きる。
「無能は死ぬべきだ」と「自分は死ぬべき無能である」を同時に感じながらものうのうと生きている自分こそが狂っているのか、「無能は死ぬべきだ」と「自分は無能かも知れないが死ぬべき無能とは別種の無能だ」を同時に口にするアイツラこそがイカれているのか。
もう何も分からん。
ただ一つ言えるのは、どんなに薄めた所で「死ね」ははっきりと相手に伝わっているということだ。
死んでくれ、他人の死を願うお前らがまず死んでくれ。
そもそも既にこの世界には「役立たずはさっさと死ね」と直接・間接的に語る言葉がこれでもかという程溢れきっているじゃないか
この世界には自分の役にたたない人間の存在そのものを拒絶する奴らの声で溢れているんだ。
たとえば、大多数の人間はゴキブリを見たら咄嗟にゴキジェットを持ち出してぶっ殺すよな。
大多数のみんながそうするってことは人間は「自分が不快感を持っていて、自分にそれを排除する力がある存在がいたら、積極的に排除を行う」という行動原理を持ち合わせているということだ。
容赦ないぞ。
俺の役に立たないなら、俺にとって目障りなら、死んでしまえ、せめてここからいなくなれ。
それを容赦なく投げつけあっている。
そうして他で目障り扱いされながらでもどこかにそうならずに生きていける場所なんて、それこそ自分の部屋の中にしか無い。
セーフティーネットが実体化したような空間ですら、ぎゅうぎゅう詰めのシェルターみたいに「お前は俺よりまだ少しは健康だ。ここから出て裸足で少し遠くのシェルター(そんなもの実際にないとしても)まで行ってこい」という形態で排除の言葉が突きつけられる。
「いなくなれ」とはそれ単体では「死ね」にはならない。だからこそ恐ろしいことを知ってほしい。
「いなくなれ」はそれぞれが四方八方から集まることにより死ねとなる。
広い空間にバリアが一枚貼られただけならそこから離れればいい。
だが、四方八方をバリアに囲まれ、それが少しずつ迫ってくれば……いつかは押しつぶされて死ぬしかなくなる。
バリア一つ一つでは圧殺を行えないから、バリアによる圧殺を行った奴らに当事者意識はない。
そして、この世界には既に無数のバリアに囲まれて既に半分体を押しつぶされながら死を待っている状態の人間が大勢いる。
まだ体は押しつぶされてないが足の踏み場は既に失われた人間ならいくらでもいる。
排除され続け、居場所なんてどこにもない状態の人間が無限大にいる中で今日もどこかで「目障りだ」→(「いなくなれ」)→(「死ね」)が飛び交っている。
でもいちいち全ての人間を救っている余裕なんて今の人類や個々人にはないのはわかってる。
野良犬に対して「ごめんね。うちでは飼えないんだ」と語るのは仕方がないことだ。
でもそうしているうちにいつかはどっかのクソガキにモデルガンの的にされて苦しみながら死ぬことになる。
それと同じでいいじゃないか。