思えば、この世に生を得てからずっと自分を突き動かしていたのはこれだったのだろう。
幼稚園の頃、横殴りに飛んでくる「死ね」から見を守るためにいい子を演じようとしていた。
そうすれば誰かが殺しに来ても他の誰かが守ってくれると信じられたから。
その感覚は小学校に入ってからも変わらず、いつどこからか飛んでくるかも分からない「死ね」を防ぐためのバリアとして「自分には価値がある」というアピールをしようと必死になっていた。
その感覚のまま大人になり、そして実際に自分のようにうまく社会に溶け込めていない人間が実際に会社の中でどう働いているのかを見ることで遂には「無能は死ね」が自分の中からも産まれてくるようになった。
無能であり死ぬべきはずである自分と、同じく無能であり死ぬべきはずである連中とが、お互いに死ぬべきだと思い合いながら生きている地獄の中で今日も生きている。
どうすればいいんだ。
それは上手く希釈されて、それ単体では「死ね」とは見なされないようにされているが間違いなく「死ね」なのだ。
100倍に薄めた毒が薬としてその存在を許されるように、「死ね」はその姿を助言や評価といった形に変えれば許される。
1万倍に薄めた毒がただの調味料として扱われるように、ただの軽口や愚痴の形であれば「死ね」はあまりにも容易に口から漏れる。
それが無数に漂い飛び交う中で今日も生きる。
「無能は死ぬべきだ」と「自分は死ぬべき無能である」を同時に感じながらものうのうと生きている自分こそが狂っているのか、「無能は死ぬべきだ」と「自分は無能かも知れないが死ぬべき無能とは別種の無能だ」を同時に口にするアイツラこそがイカれているのか。
もう何も分からん。
ただ一つ言えるのは、どんなに薄めた所で「死ね」ははっきりと相手に伝わっているということだ。
死んでくれ、他人の死を願うお前らがまず死んでくれ。