はてなキーワード: スィングとは
ソシャゲはデフォルトで放置ゲーにして、自分でマクロ的な感じで条件設定して自動操作をチューニングする機能を標準装備にしてくれればそのアルゴリズムを練ることがゲーム性になって非常にいい感じだと思いますし、面倒な人はテンプレの汎用マクロ用スクリプトなんかをユーザーフォーラムとかで拾ってきてゲーム内の設定欄に貼り付けて使ってもいいし、もっと面倒な人というかそういうのに蕁麻疹が出るタイプの人はスクリプトなしでもゲーム上で簡易な周回設定を画面上でポチポチチェックつけたりするだけで大雑把には問題なく進行できて、そうやって高度に放置可能にすることで誰もがゲームの存在を2,3日くらいは忘れていても致命的な取り逃しとかは発生しないようにしてくれたら理想的だと思うんですけれども、イメージとしてはマビノギってMMOのペットAIなんかがまさにそんな感じだったんですけどね、まあそれはゲーム自体がカスタマイザブルな放置ゲーなわけではなくあくまで随行するペット操作に関してそんな感じだったというだけですけれどもね、そういう設計思想をゲーム全体に広げるといいますか、ソシャゲの周回をそんな感じでオートメーション化すればそれ自体がゲームになるんじゃないかと言うことが言いたいだけなんですが、ただここで一点、懸念される最大の問題がありまして、オートメーションにしてゲームの存在を忘れてもいい設計にするとガチャが回らんでお亡くなりになってしまうことが確定的に明らかなわけで、そこんとこをいい塩梅にそれでもガチャを回すインセンティブが発生するようにしていかないといけないんですが、そもそも従来のガチャというのは、強くなる、とか楽になる、という体験を得るために回されていたわけですよね、もしくはキャラを愛でるため、というのもありますが、いずれにしろそれらはオートメーション化済のゲームを見なくてもいいゲームとなった場合には当然のように無意味となりガチャの魅力がスポイルされてしまうわけですよ、つまり根源的に「なぜガチャを回すのか?」というところから再設計しなけりゃならんわけですが、まあこの際ガチャでなくても、その人の懐具合と欲深さに応じてバリアブルな課金を引き出せさえすればいいんですが、そうですねこの形態の場合もうゲーム内での利益供与に囚われてたらいかんのじゃないかと思うわけで、というのもですね、いくらガチャで強いキャラやより便利なマクロパラメータの利用権なんかを付与したところでゲーム自体に触れる時間が短くて済むということは愛着が湧かないということですからそのゲームを生き急いでプレイする必要性がナッスィングなわけで、そうなるともうこのゲームをいついつまでにこのくらい進めている人には現実で何々が貰えますよとか、そういうゲーム外での、ともすればゲームとまったく関係ない報酬を与えることでしかインセンティブにならなくなってくる蓋然性が高いわけで、これはもうRMTというか投資と知恵比べによって資産を勝ち取るマネーゲームに他ならないわけで、ゲームというのは結局そこに行き着いてしまうことになるんですよ、言ってること分かりますかね、そんな感じで何か作って下さい、頼みましたよ、ではまた10年後にお会いしましょう。
という「個別論ではなく全体論」ということなので、身バレもないだろうしそのへんに絞ったレスをしてみたいと思います。
ああ、一個上のP付きっす。
その前に軽く触れると、自分は出版系のIP管理からアニメにもゲームにもアプリっぽいのの制作にもPで参加したことが有るという立場の増田です。なので、アニメにそこまで肩入れした擁護はないので、そのへんは差っ引いてくださいませ。
まず
という点なんだけど、それは概ね事実としてある。アニメは制作さえ決めれば空中爆発率は低いし、動く絵としてものは出来上がってくる。
それは「完成して出て来る」ってのを至上命題として業態/業務か出来上がってるからっていう部分がまず第一に大きいです。
だって予告して、放送枠取ってそこにV(=動画)が到着しなかったら放映できないでしょう? 良くも悪くも「タイトな締切に間に合わせてでっち上げる」ことが常態化しているし、そのためにいろんな仕組みが整備されている。深夜まで作業するのも常識になってたりもする……。ゲームやサービスみたいに「クオリティのために延期」というのが「ない」って言う前提で動いているんですね(総集編っていうのは、だからこそ本来例外だし、やばいわけっす)。
でもそれは前提であって「完成する理由」にはなっても「そこそこまともになる理由」ではないですよね。「そこそこまともになる理由」は、個人的には以下の2点があると考えています。
ゲームとかマンガとかWebサービスなんかに比べて、アニメは制作スケジュールとかチームの規模感みたいなものの前例が豊富で強いです。12話1クールを作る人数はこれくらい、必要な役職はこう、時間はこれくらいかかる、そのためのお金はこれくらい。
そういう規模感がはっきりしてる。
だって1シーズン数十本も作ってるんだから、そりゃ数字もつみ重なる。
プロジェクトハンドリングはたしかに属人性が高いけれど、こういう数字まで共有されていないわけではないです。むしろ、一般常識化しすぎてて話題にすらならないほど強固に存在します。そこから外れた作品が皆無というはなしじゃなくて、その規模感から外れるにしろ「規模感という地図を持っている」ことに大きな意味が有るって話です。
(特に工夫をしようと思わなければ)アニメ制作のバジェットは、穴埋め式のテンプレートみたいなもので、記入欄にスタジオ名とかスタッフ名を入れていけばチン!と出てくるようなものです。「スケジュール遅延による予算の倍増!?」みたいなトラブルは少ないです(劇場版では聞きます)。
製作工程自体も(何か変わったことをしようとしなければ)概ね予定通りに進みます。アニメ制作において制作の遅れは作画スタッフの不調とか、確保してたスタッフがうまく稼働できてないとかであって「技術的困難があって見込みが外れた」みたいな事例は少数です。そういう意味では製作期間も読みやすい部類に入ります。
アニメに比べれば、ゲームやWebサービスや新製品開発は、闇の中を手探りで地図もなしにうろついているようなものに見えます。逆にそちらからアニメを見れば、一度作ったもののテクスチャ張替えをして類似商品を量産しているようなものです。
この構造はクオリティコントロールの意味では強いです。要するに初期予算を部門ごとに配分して、それを話数で割って、出来ることはできるし、出来ないことは出来ないって話だからです。これがそのまま職人的な監督のこだわりに対する手綱にもなってます。だって、ここでそのお金つかっちゃうと、こっちが足りないですよね? 無理ですよね? と説得が出来るからですね。
個別の現場の話で言えば、それをやりくりとか、追加予算をひねり出すとかもPの仕事だけど、前提として上記みたいな構図が有るのはハンドリング面では楽ができる要素です。
という指摘に対する返答が今回の中心なんだけど、「まとも率」ってなんだろう? って言う問が答えのヒントです。
すごく大雑把な話をすると、アニメには(というかコンテンツ制作には)2種類の方向性があって、それは「外れるかもしれないけれどバットを思い切り振り回していこう、当たればホームランだぞ!(はずれれば三振だが)」というのと、「とりあえず進塁打めざしましょ、コケそうになっても最低限くさいバントして大コケはしないように(でもその打法でホームランは出ない)」の2種です。
どっちがいいというものじゃないですが、とにかくそういうふたつの考え方があります。全てのPは例外なく今手がけている作品をどちらにするか考えます。
もちろん現実にはもうちょっと細かいです。たとえば、ある作品は全体的には手堅くバント狙いなんだけど、音楽だけは超ゴリゴリのインディーズ起用でギャンブル、とかもあります。声優だけ豪華! とかも。無名だけど実力があって伸びそうなスタッフを中心部に据える冒険というのもあります。とにかくあらゆる判断において「大当たりを狙って強振」か「手堅く固める」の判断があります。
ここからが非常に夢のない話になるのですけれど、アニメは(とくに地上波の週刊アニメでは)どちらかというと「手堅く小ヒット狙い」なメディアなんです。だから「最低ラインでもまとも率が高い」という結果になっています。
なぜか?
理由は様々にあるんですが、本質的には生存戦略としてそれが(一応の全体認識としては)有利だからです。
あらゆる面で革新的で挑戦を行ってフルスィングをしていくと、三振討ち死に率が高い。ホームラン率3%で三振60%で残りがポテンヒットみたいな印象です。しかもこのフルスィングは、そもそも予算を大きく要求しておいてこういう結果になることが多い。
そこへいくと、小ヒット狙いのコンパクトスィングは、35%三振(=赤字)40%バント34%ヒットで、実はホームランも1%くらいは出るかなー? みたいな構造です。
もちろん、安全性と飛距離の両立ができる企画があればいいですが、それはとても難しいことがもうわかっているので、企画の全体も、細部もジャッジしてどちらかに振っていかなければならないです。
アニメの場合は、しかもその判断を製作委員会(もしくはそれに準ずる意思決定機関)で合意しなければならない。多人数での合意なので、どうしても「安全策」が採用されがちです。
(余談だけれど、監督業の一番尊敬できる部分は、そういう安全への堕落に対して『いいや、今回はこういうチャレンジをする。僕等にはその力があるはずだ!』という果敢なジャッジをして、それに向かって猛進してみんなを引っ張れる部分だと思います)
夢も希望もないけれどこの「集団判断による安全策への流れ」がアニメにおいて「どれもそれなりに見れる作品になる理由」です。
もちろんそういう安全策ばかりでは1作品の勝った負けたに終止してしまうために、どこかでは冒険もしなければならないです。また、円盤の売上という一面的な勝敗判断以外にも判断基準はあります。
それはたとえば、社内への技術蓄積(この作品を作ったので3Dエフェクトの技術が社内に蓄積された)とか、スタッフの成長の舞台としての作品とかいう視点です。ファンの人が思っているよりもアニメスタジオはずっとそういうお金以外のことを気にして運営されてます(お金を信用してないとも言える)。
まあ、冷めた話をすれば、巨大な予算と巨大な人数をかけた企画において、夢物語なホームラン狙いが抑制されるのは当たり前の話です。バブル期のゲーム業界とか、アメリカンドリーム次代のハリウッドが異常だっただけで、億超えの規模動かしてれば慎重な方が当然です。
ライトノベルとアニメの相性が良いのはそこで、ライトノベルは個人制作でそれはつまりかかった予算が非常に小さいジャンルです。予算が非常に小さいということそのものが直接関係するわけではなくて、そういう個人制作小規模ジャンルであれば、(ある意味非常に無謀な)挑戦ができるということだからです。
他にも色々触れるべき点は有るかもしれないけれど、暇なので書いてみた「アニメの制作フローにQCのヒントが有るのでは?」に対してのお返事でした。思いつくままに適当に書いたので誤字脱字とか、文章の乱れとかあったらごめんなさい。
元増田だけど孫増田含めて唯一ピンとくる意見だったので反応すると確かに日本は豊かだと思う。
なぜ日本が豊かだという意見がこうも少ないんだろうな。現状に関して悲観的すぎる。ちなみに未来に関しては大いに日本は憂慮すべき状況にあるが。それはそれ。
目的の喪失も裏を返せば豊かだから切迫して何かをしなくても良いという寒天もありうる。
高等遊民の遊びというのは結局言葉の上ではなんとでも言えるけどその中身が問題視されてるわけだよな。
最近の若者の状況をご存じだろうか?A対Bという対立争いがあった時に、卑近な例だと政策の賛成派と反対派とか、芸能人の信者とアンチとか、
そういう争いがあった時に中立的な意見とか対立の外側から岡目八目している部外者の意見とか斜め上の発想の意見とか全部ひっくるめてAかBのどちらかの二項対立にふるい分けられるわけだよな?
ここが英国式のディベートのまずいところ。賛成か反対か、オールオアナスィングで見てしまうのがいけないってことだ。
人生の最初の段階に狭い視野で凝り固まって論理を構築して事業を打ち上げようとして手ひどい目に遭わされると痛感するのだろうが今はよくもわるくも平和だからな。
この人の映画観て感じるすがすがしさ、心地よさってなんなんだろうって考えてたら、共通項があることに気づいた。矢口史靖の映画って「オレもやってみよう」「わたしもやりたい」って思わせるチカラがあるんだ。
ウォーターボーイズの真似してシンクロやってみた高校生って全国にたくさんいそうな希ガスるし、スィングガールズ観て楽器を始めた人も1人や2人じゃないだろう。ひょっとしたらそのままプロになった人だっているかもしれない。
ハッピーフライト観ててオレが感じたのは、ディスパッチャーってゆう仕事のかっこよさ。自分がもっと若ければ、目指そうと思ったかもしれない。もちろん、この映画をきっかけにCAや管制や整備士や操縦士を目指し、実現する人だっているだろう。
無理をしなかったことかなぁ。いきなりフルタイムの仕事に復活したら、身体的にも精神的にも飽和状態でかえって悪化するかもしれない。そう思って、身体も心も徐々に慣らしていって、自分の「クリア条件」を「ちょっとだけしか頑張らないライン」に設定した。それをクリアしたら、しばらく様子をみて、またその位置から「ちょっとだけ上のライン」をクリア位置として挑戦する。クリアできなさそうだ!と思ったら、すぐ元の位置に戻る。で、また時期を観て挑戦する。
なんだかそんな、じりじりとした攻防戦(?)でした。あとは、いぜんは考え方がわりと「オール オア ナッスィング」だったので、自分を赦すことを学習したりとか。一番底辺にいた時期もつらかったけど、治りかけも実はつらい。目に見えるほど早くよくならないからね。「悪くなってないなら、とりあえずおk」っていうのをどう納得すればよいのやら・・・。