はてなキーワード: NIMBYとは
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66631
娘さんは「更生した人」と紹介したかったところを「根はいい人」と言ってしまったのではないだろうか。
「根はいい人」だと今現在も基本的には悪い人っぽい印象になってしまう。
一方、「更生した人」なら今はもう悪いことはしてないことになる。
事実まともに働いてるとのこと。
で、
一度道を踏み外した者は二度と戻れないのかと。
などと考えているとこの筆者はいろいろ言っているが結局「私の差別は仕方ない差別」としか言ってないのでは。
ちょっと意味は違うかもだがNIMBYみたいな感じで、社会的な許容は必要だが私と私の家族には関わるな、というダブスタというか。
NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。
これは言える。こういう文を書く人は、自分はやらない前提であることが多い。新聞記事書いてる人なんか、いつもそうだろう。新聞記者という職業をすでに持っている。安全地帯から耳障りの良いことなど、人格関係なく誰でも書ける。
> 不安定だったAさんが安定するために、当時どういうフォローをなし得たのか。じっくり考えることが、今後に活きると思います。
「孤立させないよう皆で考えよう」
集まってボランティア団体作って青葉みたいな奴らと接してやればいいじゃん
なんで文章を偉そうに書くだけなのよ?
私たち平成世代の側の人間は、学校にロマンスを求めてしまうが、偏差値の上下を問わずに、本来は教育のための施設でしかなく、細やかな教育の手法に対応できるものではない。
それでいて、学校の教育支援よりもよほど便利なシステムは予備校などすでにいくらでもあるので、細やかなアップデートを図られることなく、用途の短縮ばかりが進み本来の設計思想と相容れない運用がなされ、益々何のための施設なのかさっぱりわからなくなり、自滅しているのである。
こういうと私たちには耳の痛い話だが、学校はNIMBYでもあった。ゆえに、住宅地の片隅にしか学校が作られなかったし、学校数も少なく抑えられた。戦前の時代、あの施設で軍隊的な指導をしまくっていたのだから、近隣住民からすればたまったもんじゃない。しかもボール飛び出し防止ネットはあまり完備が進んでいなかったので、野球のたびにボールがあちこちに飛びまくっていた。文化的なイメージは後から追加されたものに過ぎず、もし我々が戦前や戦時中の時代の人間だったなら、たぶんあんな施設嫌いになるんじゃないかと思う。
クリスマスの3連休が迫った花金の夜、増田諸氏におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
私は帰宅してから増田を開き、昨晩にそれぞれ2,3割の本音と好奇心と後ろめたさにいくぶんかノリと煽りを混ぜた投稿がまさかの大量の反響をいただいていることに大変びっくりしているところです。すげえ。
蛇足ではありますがあのまま投げっぱなしで終わってもなんなので、少し追記することにします。
まずはじめに、口汚い言葉で特定の業種や福祉施設、並びに善意を以て眩い生き方をしている皆さんのことを乏したことを深くお詫びします。
ブコメならびに反応でも多くの意見がありましたが、2つを並列にしたり暗部と表現したのは全くの悪手でした。大いに反省しています。
普段はどちらかというと私はおおらかな社会を好み、従業員の満足度を上げることを第一目標とするなど多様性や皆の幸福を尊重するような振る舞いをしているのですが、
なかなか心の中の蛇は隠せず、こういうところで吐き出させてもらいました。
ざっと反応を見て驚いたのは、ほとんどの反応した方が「別に構わないんじゃない?」と放言していることです。
なるほどこれは自由を求めるような生き方が世間のトレンドになるのも頷けるところで、私が住んでいる片田舎からは想像もつかないような意識の変革はここまで広がっていたのかとびっくりしました。勉強になりました。
反対に、ありがたいことにいくつかのコメントでは「これはいわゆるNIMBY問題のひとつではないか。それにしても程度が低いが」と指摘とセットで理解も示していただきました。ですが、私の中ではこの感情はそんな理屈で割り切れるものではなく
もっと名状しがたいなにか、保守的な本音と自分が目指したい高潔な理想の矛盾を短い人生の中で学んだリスク管理と自分の世界の外に対する無関心で煮詰めたようなどす黒い産物です。どういう例えが良いでしょうか。
別に私は家の周辺に串カツ田中ができても家系ラーメンができてもデブなので喜んで愛用し、保育園ができても通報されないような距離感で子どもたちが楽しそうに過ごしているのを見守るでしょう。
でも、小学生の頃に初めてある同級生の家に遊びに行ったらお家のマイカーがゾロ目ナンバーでエンブレムが金色のシャコタン車だったので、その家とは関わりを避けようとしてきました。
エビデンスが明らかで問題ないのは理解していても、会社の商品の原料に福島県由来のものを使うことはあれ以来止めるようにしました。その代わり家では福島県産のお米を食べています。とても美味しいです。
なんと言えばいいのか、いわゆる自分や自分の周囲にとって「ケ」に属すると思われるものを避ける方が長いスパンで見てトラブルに巻き込まれる確率が低くなるという本能のようなものをその選択基準にしているのです。
児相というのは窓口ひとつポツンとあって別に仰々しいものでなくても、私にとってこの属性が強いように思えるのです。なぜならそこには家庭にトラブルを持つ人が多く訪れることになるだろうとイメージできるから。
職業に貴賎なし、ノブレスオブリージュを大切にしてどんどん門戸を開いていくと、いつか(どちらかというと悪い意味で)自分とか縁遠いと思っていた世界がぐっと近くになることが私にはとても怖く、だからこそ
自称青山住民の人たちが言葉の取捨選択はあれそういったものを避ける気持ちに一定の理解を示し、果たして増田はどういう考えが多いのだろうと興味を持ちあのような煽り投稿をした次第です。
近くのコンビニに実話ナックルズや実話BUNKAタブーが多く並ぶようになったり、その逆で物凄く意識高いヴィーガンカフェができたり、もっと言うと私の何代か先の子孫の子供が鬢髪を伸ばすようになることは避けて、
なるべく平穏無事に過ごせることが私の願いです。ありがたいことに現状その願いは概ね叶っていますが、最近世間で持て囃されている多様性を尊重するような生き方はいつか自分の関わる世界に大きなリスクを連れてくるような気がしてとても不安です。
とりあえず今晩のところは、皆さんから幸いにも多くの批判をいただいたことで「そうだよな、やっぱこんな閉じた考えじゃダメだよな」と自分自身のどす黒いものを説得するきっかけになりました。
そうやって価値観をアップデートしても変なリスクが生まれず皆にとって過ごしやすい社会になることを願い、まずは私にできることとして周囲の人に経済的社会的な満足を与えることができるよう、引き続き本業に邁進したいと思います。
ご意見ご指摘ご批判大変勉強になりました。ありがとうございます。どうぞ皆様良いクリスマス連休をお過ごしください。
…と言うと、サービス業を蔑ろにしているとか、キリスト教圏以外を考えていないとか言われるのかな。お後がよろしいようで。ちゃんちゃん。
世界的にドーノコーノってのは正直国というか会社や地域、場所による。
それはそれとして、実害がないのは分かるし、入れてるのが必ずしも反社というわけじゃないのも分かる。
じゃあ入れてる人を見て引かないかと言ったらそりゃあ引くし、銭湯とか因縁つけられやすい場所だったら即逃げると思う。
受け入れたところで、反社マークはやっぱり反社マークなわけだし。
だから、個人的にはNIMBYじゃないけど、「そういう人たちがいるのは分かるけど、健常者の生活圏には来ないでね」くらいが落とし所かなぁ。
そりゃ民族的なのは別で、それ以外のものは…当然来ないで入らないで、となる。
別に生まれつきの肌の色とか人種でこういうこと言うのは差別クソ野郎だけど、入れ墨は基本的に自分の意志で入れるものだし、自己責任でしょう?
生きるための許可を得られず、免責されるための条件も満たせなかった。
つまるところ、ただの未練がましい自分語りです。
「ウチ」と「ソト」という概念があるとおり、「ウチ」の中ではとりあえず生きてよいと免責されます。
残念な事に、「ソト」に属する人に対しては、この免責はなくなります。
NIMBY だと広すぎますが、人に関係する範囲に限定すれば正しいでしょう。
このために顔、人柄、来歴、性格、価値観といったもので、生きる資格を得ようとしているわけです。
建て前というのは、「あなたと私は共通した価値観を持っています」と表明する儀式です。
"同じである"という事を言外に言うための方便として建て前があります。
このルールを守り続けられれば、生きる資格がなくても免責されます。
先ほどの「ウチ」の間でも、入ってほしくない人が入ってしまう事があります。
こういうときに、その人にとっては既知じゃない建て前を使う事で
「ウチ」にふさわしくないと「ウチ」から追放されてしまいます。
このため、どこまで同じだと言えるか、というも非常に重要です。
あらゆる人に対して "同じだ" と言える材料すら持てませんでした。
「ウチ」に入れない人が生きる資格を得るにはどうするか?
同じでないために与える不快感、拒絶間を上回るメリットを出さなくてはなりません。
これが、いわゆるギブアンドテイクというものです。
どれだけギブすればテイクされるは、テイクする側が決めることです。
要するに、どれだけ「ウチ」に近いかでテイクするかが変わります。
自分はこれを果たすために、3年間弱くらい 4時間も寝ない生活をしていました。
ひたすらに続けた結果、自分の事が何一つ出来なくなりました。
やっぱり直接死んでほしいと言われないとダメなので立てました。
おう、夏も本番だが体調とか崩してねえか?
やっと築地と豊洲の話が書けるようになってきたんで、ガッツリポジショントークで整理しておくぜ。
オレが何かを主張してるわけじゃないっていうエクスキューズはいれとくな。
コレは単なる整理だ。
ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)って言うと、大袈裟だとか思うだろう?
GoogleMapで築地市場を御覧ください。
そう、マンション開発するなら超絶な好立地であり、
商業施設であっても、都心では恐らく二度と無い大変素敵な土地なワケだ。
タワマンだとか土地のお値段って言うのは、「その辺り一帯の価値」が反映されやすい。
つまり、大江戸線や日比谷線、有楽町線や浅草線の沿線も影響を受ける。
ごく判りやすい例で行けば、月島のマンションの価値が影響を受ける。
そして、ちっとわかりにくいかもしれんが、
GoogleMapをもっかい見てほしいんだが、中央卸売市場築地市場のまわり。
お店が沢山あるじゃろ?
沢山のお店の人達は、別に豊洲に引っ越せとは言われてないワケだが(察しろ)
小池都知事まだ1年経ってないのよ。
石原慎太郎さんが2012年まで、猪瀬さんが2013年まで、舛添さんが2016年まで。
さて、「観光資源」である「千客万来施設」から、すしざんまいが撤退したのは2015年で、
「お台場の大江戸温泉物語が終わるってんで温泉施設込みで計画立ててたのに、何勝手に定期借地権契約更新してんだよ」
と、フツーに考えたら市場隣接の商業観光施設で他所が潰れる前提で計画立てるのはムシが良くね?ってのが理由になってた。
ただまあ、この手のは忖度だの融通だの記録に残らないアレコレで、
筋を通したり泣いてもらったりの寝技が跳梁跋扈する世界でもある。
みんなスコーンと忘れてると思うが、2016年11月に新市場を開場するって決めたのは舛添さんで、
理由は「五輪の交通網整備の時間がねえから良いから移れよ」だったんだよね。
築地に比べりゃアクセスは悪いし、「築地」って名前のブランドも無いし、ひとくるの?と。
んでまあ、築地市場って今回移転するしないで揉めてるところの周りにも沢山築地の名前で商売してる人はいる。
NIMBY(必要は認めるが近所には来るな施設)である卸売市場は、マンションの近所にゃ来て欲しくないし、
超絶好立地な都心の一等地の開発にはイッチョカミしたい。地価が上がればマンションも高値になるし。
こういう本音を隠したまま、建前で「安全が安心が」とか「五輪がスケジュールが」とか揉めてると、
建前「だけ」回避・解決された上に、本音の儲けどころは丸抱えで持っていかれるという……
政治家の成果は有権者の投票に出るから、そういう意味で成功失敗は判りやすいよね。
ポジショントークだって最初に言ったけど、まあ、焦ってマンション買ったりするなってことで。
無駄遣いしないようにしようぜって掛け声の東京オリンピックで、
全部別の話なのに、全部同じ話をしてるという、地面から見たお話でした。
白紙のはずの再開発が、マンション建設で進んでたのに観光市場残されたらたまらん!みたいなのって
ぶっちゃければぶっちゃけるほど、密約とか口利きとかコネと根回しの生臭い話になるんだけど、
そういうアングルでスクラム組んでも、別に現都知事を攻撃できるわけじゃないからなあ。
鉄火場は誰にも予想できないんで、変に吹き込まれて素人が手ぇ出さないようにな。
約束だぞ!
東京に住む妹はそれを聞いて「マジありえない。バイオハザードが起こったらどうするんだ。市長暗殺したい。」とブチ切れている。
だが実家に住んでいる父はその施設に関連している所で働いているので、施設ができる事により研究が捗るみたい。
母親もそれなりに心配しているが、市長を暗殺したいとブチギレるほどではない。
弟はそういうことに関心がないのか何も言わない。
家族が心配だからそんな施設を作るなと言うのはよく分かる話だ。
でも、「地震がテロが、あったらどうするんだ!?」と言ってしまえば、原発も何も、普通の発電所すら作るのは難しくなる
この言葉は正直悪魔の証明に近いというか、反論できないんだよね、日本に住んでいる時点で。
でもBSL4の設備を作ることによって感染症のワクチン研究が進むということは良いことなので、どこかには作って欲しい。
じゃあどこに作ろうか?実家のある街には作って欲しくないし、言ってしまえば日本に作って欲しくない。
もしテロとか地震でウイルスが飛散したらと考えると、どこに作ればいいんだろう。
作らないで研究をすすめるというのは難しいと思うから、人の少ない田舎に作ればいい。
でもその田舎に研究者を呼び寄せるためには、その田舎も生活できるように整備しなきゃいけない。
するとお店なんかが必要になるわけなんだけど、誰がそんな所で働くの?となる。
もしかして「研究者はみんなのために不便を被るべきだ」ということなのだろうか。
そうしたらちょっと給料を多めにあげたほうがいいかなって思うけど、今の御時世給料をたくさんあげるのは難しい。
公共のために必要な事業であることは理解しているが、自分の居住地域内で行なわれることは反対という住民の姿勢を揶揄していわれる概念。
一見、住民エゴ・地域エゴにも見えるが、施設の受益者と被害者との乖離という問題が存在する場合に、エゴという単純な構図に帰着させて語ることには問題が多い。
NIMBYによって忌避されるような施設は、忌避されるとはいえ社会的には必要なためどこかに作らざるを得ず、結局のところ、社会的弱者の居を構える地域に建設されるのが常である。
NIMBYでは結局エゴの押し付けあいになって根本的な問題解決にはならないことが多いため、問題となる施設の建設自体を減らすNIABY:Not In Anybody's Backyard(誰の裏庭にも作らずに済ませよう)というアプローチもある。