はてなキーワード: ディアナ・アグロンとは
目が小さい女性も美しいという世の中にしたいという安藤サクラの発言が一部フェミニストから叩かれているようだけど。
まあ個人的にはそもそも娘のルックスに言及安藤サクラがよくないと思うけれど
でも「女は目が大きいのが可愛くて価値がある」とされる世の中なのは現実じゃん?それで苦しんでる女が沢山いるのは事実じゃん?
安藤サクラはそんな社会を変えようとしているんだから、それはフェミニズム的にはなりとも評価していいと思うんだけど?
今度は目の大きな女性が差別される世の中になったら~とか言うけれど、
絶対に来ねえよ、そんな世の中。日本社会の女の顔に対するデカ目童顔至上主義の要求は異常だから、安藤サクラの言動くらいで変わる訳がない。
何こいつら自分自身が目が大きくて得してるからって、その既得権益を失いたくないの?
そもそも容姿でジャッジされない社会にすべきだとか綺麗事を言ってるけれど、
でもこいつらが、安藤サクラが言い出す以前に、女性が(女性だけが)目の大きさで判断される社会に対して物申してるのって一度も見た記憶ないからな?
何と言っても、以前に「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞がメチャクチャ叩かれた時も、女の子はバカでいいって部分だけに集中して叩いていて
若い女性にルッキズムを押し付ける「目の大きさが気になる」の部分には完全にノータッチだったから。
つい先日女子高生に二重整形を促す美容広告にキレてた時も、そもそも女にだけ二重が求められる社会を批判すべきなのに、あくまで広告だけを叩いて済ませてた
まずは女にだけ適用される厳しいルッキズム社会が前提としてあるのにそこは批判せず
それに対して適応しようと努力する行為ばかりをあげつらうって一体何なの?
脱コル運動とかもそうだけどさー、あの人達ってルッキズム社会は放置して、盛んに鎧を脱ぐように求めてくるよね…
まあ時々言われるようにフェミニストの殆どは既婚や彼氏持ちらしいからね…(ブスや喪女は自虐して、どちらかというとアンチフェミになる)
いやいや、「男は性欲の狼」が事実だとしてもさ。
まずNHK教育の放送なんだから内容が教育以外の何物でもないのは、議論の余地はないだろ。
そのNHK教育が子どもに向かって「男は狼」と教えちゃうのはどうなんだ、って話よ。
ボクって狼なんだ… とセルフネグレクト的な自己認識をインストールされたとしてもおかしくない。
女子の視聴者にしても、男だって理由だけで危険因子として予防的に排斥する振る舞いをするように育つかもしれない。
SNSもない昔の時代だから炎上もしないで許されてただけでしょ。
ブログとか沢山文章を書ける場所を持っていないので持て余した感情を解き放ってすっきりしたい。
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25日クリスマスの土曜日にM-Line Special Make a Wishというコンサートに行ってきた。
M-Lineはアップフロントに所属する主にハロープロジェクトのOGメンバーを中心とした歌手活動を行うアーティストたちの総称というかファンクラブ名称。
私の参加した25日には元モーニング娘。の道重さゆみ、元Berryz工房の夏焼雅、元Juice=juiceの宮本佳林、元つばきファクトリーの小片リサが出演。
上記以外にも元℃-uteの鈴木愛理や元モーニング娘。の高橋愛や田中れいなが出演したり現役ハロプロメンバーがゲスト出演することもある。
ハロプロ同様ほぼ毎週末全国のどこかでコンサートをしていてセットリストも出演者も結構毎回変わるらしい(下調べせずに行ったのでこの辺は曖昧です)
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もともとハロプロ好きではあるがそこまで熱心にOGは追ってなかったものの、昨年juice=juiceを卒業した宮本佳林のソロデビュー曲として収録されている「氷点下」がとても素晴らしくてどうしても生で聞いてみたくて参加した。
https://www.youtube.com/watch?v=ejeKV4zq0EI
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しかしクリスマスということでハロプロソングの中からクリスマスソングをチョイスしていたり、今日だけの特別なセットリストを聞けたのは嬉しかった。
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道重さゆみのパフォーマンスを生で見るのは何年ぶりというくらい久しぶりだったのだが相変わらず彼女の放つ「かわいい」は強い。
道重さゆみが思う道重さゆみの最上級な「かわいい」を声、歌、ダンス、表情、ポージングすべてから感じて、ブレのなさ、セルフプロデュース力に改めて感服した。
卒業して何年も経つのに今でも道重Tシャツを着てコンサートに足を運ぶ彼女のファンの皆さんの気持ちに共感する。
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今回の道重さゆみ、夏焼雅、宮本佳林、小片リサという4人のメンバーの中で名も顔も一番知られているのは道重さゆみだろうが、
おそらくM-Lineの中心、エースというかセンター、顔とも言えるポジションになるのは今年ソロデビューしたばかりの宮本佳林(と、この日はいなかったが鈴木愛理)
歌もダンスも申し分ない実力のある夏焼雅といるだけで存在感抜群な道重さゆみはむしろ宮本佳林と小片リサを支えながらリードもする頼もしい先輩という立ち位置のような気がしていた。
(もちろん個人の感想ですし二人がこのコンサートの脇役という意味ではない。全員どう見たって主役だった)
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この4人の中で、小片リサはつばきファクトリーを諸事情で活動休止、脱退、そしてソロとして再デビューという少々後ろ暗い経歴があり、
なおかつM-Lineの中では活動歴が最も浅い後輩メンバーという微妙な立ち位置。
表向きはカバーアルバムを発表して、イベントではつばきファクトリーと和解する機会も設けられ新たなスタートを切っているものの、
自分がつばきファクトリーでは小片リサが好きだったこともあり、大丈夫かな、と不安で複雑な思いを抱えていた。
脱退の理由となっているものが他メンバーにも少なからず関わる内容でもあるため加護ちゃんの喫煙騒動のように個人の問題として自虐で昇華してしまうのも難しく(自虐にできるほど時間も経ってないし)
その経歴ごと小片リサが腫れ物扱いになってしまわないかと不安だった。
最初に復帰したM-Lineコンサートで暖かく迎え入れられていたというをレポを見聞きしていてもやっぱり不安なわけです。
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しかし行ってみればM-Lineではソロアーティストでjuice=juiceの元センターで売出し中の宮本佳林が自ら喜んでトナカイの被り物をしたり汚れ役と言うかピエロ?道化?を演じに行ってしまい、
その調子のまま小片リサや道重さゆみにも絡みにいき、道重さゆみには絡みにくいと困惑される状態。(とてもおもしろかった)
仮にこの被り物や道重さゆみという大先輩にグイグイいくような役回りを小片リサがしているとその経歴と元の彼女の真面目な性格から「罰ゲーム感」が出てしまうものの
M-Lineの輪の中心にいる宮本佳林が自ら引き受けてそこに小片リサを巻き込んでMCをしたり、SNSでも彼女との交流を重ねている様子をアピールしてくれているのは
小片リサが新たなスタートを切るにあたってとてつもなく温かい支援だと感じた。孤立させず、かと言って罰ゲームの空気も出さず、すごくうまいやり方でM-Lineに溶け込ませている。
宮本佳林の本心はわからないけどサポートのつもりでやっていると言うよりは恐らく心から楽しんで小片リサと交流を重ねているものと思う。
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そして今回目的であった宮本佳林の「氷点下」は聞けなかったものの小片リサのデビューカバーアルバムに収録されている「真夜中のドア〜stay with me」が本当に素晴らしかった。
https://www.youtube.com/watch?v=LpFTzsG23Pw
クリスマスに失恋ソングかいな、と思ったがとくに最近失恋したわけでもないのに胸に響いて涙が出そうになり気づけば前のめりになって聞いていた。
ステージで毎週末歌い続けることで既出の動画や音源よりも完成度を高めてきたのだと思う。本当にこの曲を聞くことができてよかったと思う。
来年もM-Lineのコンサートは続き、ゲストを迎えながらのソロライブもする予定らしいのでより多くの人の耳に小片リサの生歌での「真夜中のドア」が届いてほしい。
パフォーマンスに関しては先述の道重さゆみが「かわいい」に全振りしているわけだけど、小片リサの場合は本当に彼女の真面目さというのをとても感じる。
ものすごく可愛いとか大胆でダイナミックだとかそうした派手さやわかりやすい特徴はないかもしれないが曲に対して真摯で丁寧。
そうだ、つばきファクトリー時代から彼女のパフォーマンスのこうした真面目な部分が愛おしくて惹かれたんだったな、と思い出させてくれた。
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コンサートの最後に歌われたのは「HAPPY大作戦」(モーニング娘。)だった。
「今日ここに集まっている人たちはみな違う個性を持っていて、まったく生まれたところも住んでるところ全然違って…あ、一部同じ服(道重T)の人もいるけど(笑)、それでも今日この日はここでこのコンサートに来たいと思って集まってくれたそのことが、そしてここにいるみんなが愛おしい(意訳)」と言ってくれてジーンと染み渡った。
このMCはおそらく「HAPPY大作戦」の2番の歌詞『君も 私も あの子も違うんが個性なんだよ』というところに引っ掛けて話してくれたのだと思う。
そうした部分にも道重さゆみらしさを感じて、きっと道重さゆみファンはまた彼女の虜になるんだろうなあと感服。
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そしてこの「HAPPY大作戦」の歌詞は、目の前にある仕事も勉強もなんだって全力で頑張るんだ、手は抜かない、そんでみんなで最高の未来をつくろうよ、なんて綺麗事とも取れるが
日々仕事や色々な面倒事、聞くに堪えないニュースを見聞きしている生活の中でふとこういう曲を聞くと、「あぁそうだな頑張らなくちゃな」と思えてしまうもの。
そしてこの曲は少し前にも一部でツイッターに話題に上がっていた。
秋元康がHKT48というグループに書いた「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という曲が簡単に言うと「女の子はバカでいい」とでも言っているようで女性蔑視的だと批判されたのだが、
(見てみるとびっくりするほど薄っぺらな歌詞なのでさすがにプロデューサーとしてこれを自分とこのアイドルに歌わせようと思ってしまうのどうなんだろうと思ってしまう)
それに対して恵泉女学園大学ではそれならばどういった歌詞なら良かっただろうか?という授業を行い替え歌が作られたという。
https://www.keisen.ac.jp/blog/president/2016/05/post-4.html
そしてその替え歌の歌詞がモーニング娘。の「HAPPY大作戦」的な世界観だとして一部で話題になっていた。
HKTの曲が話題に上がった(炎上した?)のは2016年頃のようだが自分がこれについてのツイートを知ったのは先月かそこらのことだった。たまたまRTで見た。
改めて聞いて、そうだ頑張らなくちゃな、学生の頃なんかはこうした歌詞を見ても斜に構えて綺麗事言っちゃってさ、と思っていたけど結局歳を重ねていくと色んなことに真摯に立ち向かって頑張っていかなきゃいけないんだと思わざるを得ないことが多くてこうした曲に立ち戻って勇気づけられてしまうんだなと思う。
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そんな明日も頑張って上司とやりあって最高の2022年を迎えるんだって気持ちになった。
おやすみなさい。
私のTLには未だに批判の意見が流れてくる秋元康の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」
今更のような気もするが、未だに私の中でモヤモヤが消えないのでここに吐き出させてもらう。
その前に、簡素だが私のことを書く。
・アラサーの女
以上だ。
モヤモヤというのは「アインシュタインよりディアナ・アグロン」についての批判の意見が多すぎるということ。
批判したい気持ちはわかるし、批判の内容はごもっともなのだが、それに対して「この歌詞はかわいくていいじゃないか」という意見をあまり見かけない。というか、そう言えないこの現状。
(あ、ディアナ・アグロンは怒っていいと思うんですよ。なんかバカの代名詞みたいにされちゃって可哀想)
なぜだろうか。
アイドルに求めるものに近いというか…ただ愛でるだけの偶像を求めているのかな、と思う。これは男性依りの思考だと思う。
ただ可愛いを追求する女の子。そんな女の子を支えたい。なんというか…推したい。という感情に近い。むろん頭のいい子は推せない、と言うつもりはないが、正直私はバカな子のほうが愛しい。
(二次元アイドルを好きな理由はここにある。現実の女の子をあまりそういう目で見ているというのは公言しがたい)
女性的な願望…いや、個人的な願望としては、見てくれのいい女の中身はからっぽであってほしいという願望か。これは偶像云々ではなく、純粋に見た目で勝てないような相手に、せめて中身で勝ちたいから中身がなければいい、と願う卑しい感情である。
実際、見た目だけで得をして生きている(ように見える)女はいやというほど見てきた。(私が得をしたこともある)
これは土台となった現状が悪いと言われればそれまでだが、そんな現状で生きてきた私がそういう思考で生きていたからといって誰が私を責められるだろうか。
ようは、見た目がいいんだからバカであってほしいのだ。そこしか勝てないから。
後者の私の卑しい感情は置いておくにして、ただ可愛い<だけの>子を推したいと思うのはよろしくないことなのだろうか。
更に言えば、そんな子になりたかった。
アイドルは正直めちゃくちゃ努力してああなっている。でもその努力をおくびにも出さずにちょっとぬけた可愛いだけの偶像を演じてくれている。
だから私はその偶像を享受し、自分がなりたかったから可愛いだけの子をその偶像に見出して自己投影して愛でる。
うわぁ…めっちゃ気持ち悪い。皆様の声が聴こえる。でもそうなんだから仕方ない。
話がそれました。
ようは、この曲は「一部の層がアイドルに求めること」を的確に表しているように思うのだ。
少なくとも、私の推したい(なりたかった)女の子の理想像そのものだ。
内面はもっともっと考えていようが賢かろうがどうでもいい、表面はこうであってほしいもの、そのもの。
理想のアイドル像って実際の女からみたらそんなに非難したいもの?
あなた達がこうならなきゃいいじゃない。
私はこうなりたかったしこういう女の子が(推し的な意味で)大好きだ。
今の私の心境は、とってもかわいいカバンを見つけて大喜びしているのに「機能的じゃない」「ポッケないじゃん」「使えない」とめちゃくちゃdisられた気分なんだ。
「アインシュタインよりディアナ・アグロン」で炎上してるHKTですが
なにしろHKTのメンやヲタは「ブスだけど有能」が売りで一癖も二癖もあるHKT支配人指原が秋元に最も寵愛されているメンなのはわかりきっているし
AKBセンターのHKT宮脇がそのルックス以上に頭の良さと強い意志で今の地位にいるのがわかりすぎるほどわかっている。宮脇と同程度のルックスや可愛さだったらわざわざ博多から持ってこなくてもAKB本体に何人もいるのだ
炎上してから批判している連中も分析している連中も大半はHKTのセンターをめぐる複雑な物語構成や個々のメンの特徴を知らんわけで
博多ヲタならこの歌詞から表層的な意味と裏腹の意味を見出すのだからこのような批判は出ようはずもないのだ
ディアナアグロンの名前をだしたのも反語的な意味があると深読みしてもおかしくない
田島は初代HKTセンターで速読が得意な読書家。秋元が最もアイドルとしての才能を認める一人。
朝長もかつてのHKTセンター。この歌詞に表面的には一番しっくりくるがセンターを外されたときにひどく悔し涙を流すなど熱く秘めた情熱を持っているメンバー。
矢吹は元子役でなんでもこなせるスーパーキッズ。未来のAKBセンター候補
田中美はファンを引き付ける能力が高く、戦略的にファンを増やしている
確かにこの4人はみな無邪気で女の子らしい一面を指原や宮脇以上に持っているとは思うが
この歌詞に出てくるような何も考えない女の子じゃセンター候補に選ばれることはないのだ
HKTにはこの4人と同年代で先輩の田中菜津美という15歳のメンバーがいる。身長171センチ、口が達者でファッションセンスは最悪、ただし言葉のチョイスと、4万人の観客の前でも臆せず一人でMCができる度胸とスキル、高校生になったばかりではありえない天才的なメンがいる。この歌詞とは真逆といってもいい存在。秋元はこの田中の話芸を「鶴瓶をみるようだ」として最も高く買っていて、前曲では秋元が選抜に強硬に推したにもかかわらず他のスタッフにスルーされてしまった(秋元の意見が必ずしも通らないのだ)秋元が推すのはこういうメンバーなのだ
この「アインシュ・・・」を歌唱しているHKT4人はこのAKBGトップ二人そして秋元が推す同世代の田中菜と同じグループの、センター候補の後輩たちなのだからこの歌詞が反語的な意味合いだというのは私のようなただのファンの百倍はわかっているのだ
あのMVを見ただけで「あんなの歌わされるなんてかわいそうだ」と言ってる連中は実はあの四人の可愛らしい見た目で実は中身までないと思っているのだ
『アインシュタインよりディアナ・アグロン』の歌詞が批判されている。
http://matome.naver.jp/odai/2146033391996228201
http://mess-y.com/archives/29624
大変もっともな批判だと思うが、せっかくなので匿名で別の見方を書いてみたい。
秋元康は性格悪いかもしれないし、心が歪んでいるかもしれないが、海外ドラマは好きらしいし、ドラマを見てメッセージを誤読するようなバカじゃないはず。たぶん元のドラマを見ていて、ドラマのメッセージもよく分かっている(この前提に同意できない人はこの後読んでも無駄かもしれない)。
歌詞カードのクレジットを見ると上記の通り。要するにHKT48というグループ内から選抜されたユニットの曲。そしてシングルのカップリング。こういうの扱いの曲にはちょっとしたお遊びが入るのがアイドルソングの恒例。たとえばグループを卒業する主要メンバーがカップリングにソロ曲をもらって、歌詞も歌っている本人の体験を元にして本人のイメージに近づけて書くとか。つまり、この歌詞はなこさんかみくさんかめるさんかみおさんの実体験である。
最初に私が引っ掛かったのは『glee』というドラマを見た女の子の歌なのに、歌詞が役名のクイン・ファブレイじゃなくて俳優名のディアナ・アグロンなことだった。この時点で既に歌詞の主人公の女の子は俳優さん本人と演じるキャラがごっちゃになるタイプのバカという設定なんよ。ハリウッド映画を観に行って「外人てみんな同じ顔してるから話が分かんなくなっちゃった」言うのと同じタイプのバカという設定なんよ。「おバカでいい」と思っている人じゃなくて、客観的にバカなんよ。
余談だが、大昔ご飯屋さんで隣のOL3人組みたいなのが「ほら、『ER』にイタリア系のモテる小児科医がいるじゃん…」ていう会話してて、横から「ダグラス・ロスでもジョージ・クルーニーでも、名前のどこにイタリア系の要素があるんだよ!顔が濃かったらみんなイタリア系かよ!」ってツッコミたくなった経験がある。TVの海外ドラマなんて雑に見ている奴いっぱいいるから。みんながみんなメッセージとか気にしてないから。ぼけっとしながら見て誤読する奴いっぱいいるから。
おそらく秋元康とユニットの4人の誰かが舞台裏かどこかで世間話をしていたんよ。そしたらその子が「最近『グリー』っていうドラマにハマってんれすよ。その中でも特にディアナ・アグロンていう女の子がすごくきれいで、目なんかもキラキラしてて、男の子にもモテて、すごく憧れなんれすよ」みたいな話をしてきて、秋元は心の中で「うわー、こいつ、ドラマと現実の区別も曖昧だぞ。ドラマの内容も全然読み取れてないぞ。…うーん、でも、こいつ、TVで見た人に憧れて、その人に近づこうといろいろチャレンジして、これはこれで本人はなんか幸せそうだなあ。よし、こいつを主人公にした曲を1つ作ってみるか」みたいなことがあったんだろう。
「この歌詞は秋元康の理想の女の子を描いているに違いない!ロールモデルにしようと企んでいるに違いない!」と考えるか、実在のモデルがいる実在のエピソードを元にした歌詞と考えるか。歌っている本人は案外「うわー、私が話した事を元に歌にしてくれてる。私だけの歌だ。大切にしよう」と思っているかもしれない。
難しいことは何も考えない
頭空っぽでいい
二足歩行が楽だし ふわり軽く
風船みたいに生きたいんだ
女の子は可愛くなきゃね
今一番大切なことはそう
キャピキャピと音が聞こえることでしょ
テストの点以上 目の大きさが気になる
どんなに勉強できても
愛されなきゃ意味がない
グリーのように
実際、バカは必死こいて勉強して一般入試受けるより、コミュ力磨いてAO入試受けたほうがいい大学入れる可能性高いじゃん。
入学後もコミュ力ある奴は過去問回してもらってコミュ障のガリ勉よりいい成績取れるし、就活なんか外見とコミュ力がある奴が圧倒的に有利だろ。
「どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない」って男女問わず普通に生きてたら当たり前。
gleeの世界ではクイーン・ビーだったことを過去の栄光にして田舎に生きるしかないのかもしれないが、
現代日本ではクイーン・ビーはクイーン・ビーのまま女子アナになって、野球選手やIT起業家と結婚したり、自民党から出馬して政治家になれるんだぞ。