はてなキーワード: 札幌とは
2010だけトップにない。あと知らんの多すぎ。
アメリカだとMSもamazonもスターバックスもワシントン州にあるけど、
なぜワシントンDCになり、ニューヨークなりに本社を移さないの?
国内市場でそれほど発展を見込めないのに、今さら持ってった理由は何?
大阪に数あった大企業が東京に本社を移す理由は全部同じって知ってる?
結局、現在の日本で商売をやるには官公庁がある東京に行くしかなからだよね?
東京に一極集中したいがために、制度をそれに合わせてるんだよ。
日本国歌としての繁栄を考えて、そろそろ東京の一極集中化を止めるべきじゃないか?
人を動かせば、モノも動くよ。
経済発展のためにこそ、地方に人材とカネを返すべきじゃないか?
昭和の「国土の均衡ある発展」じゃなく、緊急時に備えて東京以外に2ヵ所だけでいいから、
その後、新潟地震、十勝沖地震、日本海中部地震等の局地地震しか発生しなかった。
なので、戦後生まれの世代で「物心ついてから、震災に遭遇した」という人の比率は、
1994年までは
・新潟市民
等々、「日本の人口全体から見れば、せいぜい数%程度」でしかなかった。
1994年までは、札幌圏、首都圏、中京圏、関西圏、福岡圏の5大都市圏は、
戦後生まれは「震災を知らない子供、もとい、大人たち」ばかりになった。
状況がちょっと変わったのは1995年の阪神大震災。
更に福岡県西方沖地震により、福岡圏居住者も「震災体験者」になった。
そして今回、人口シェアが多い首都圏住民が「震災体験者」になったことにより、
阪神大震災体験者も含めると、実に日本の人口の半分近くが「震災体験者」となったことになる。
東北地方太平洋沖地震で被災された方に、謹んでお見舞い申し上げます。
被害の少なかった東京でも震災前の日常は未だ戻らず、話題の中心は地震に関することです。
政府が本当のことを発表しているとは思えない」と。
しかし、気持ち的に逃げたくなるということはよくわかる。
原発だけではない。生活の緊張、停電やダイヤの乱れによる疲労、
なんでか買い占められた米、
そして、いつか来るであろう「関東大震災」への恐れ。
こんなことでまいっていては被災された方に申し訳ないし、そのストレスは
比べるに値しないくらいだ、と頭でも、心でもわかっていながら。
私たちの勤務している東京23区は、東京電力による計画停電のエリアから
ほとんど外されている。
働ける、環境がある。いってみれば恵まれている。
だから私たちができることは、
「いつも通りに働いて経済を回してお金を得て、復興のための資金を稼ぐこと」だ。
東北の、関東の一部の被災された方はどうか心身の傷を癒してほしい。
私たちが応援するから、支えるから大丈夫だよと、声を大にして伝えたい。
いつも通りに働くと書いたけれど、むしろいつもよりも熱を持って働きたい。
余震が来るたび怖いけど、私は東京にとどまって働く!
エコノミックアニマル?上等だ!!
東京だけじゃない。札幌、名古屋、大阪、福岡・・・書ききれないけど
今回、被災されていない全国のみなさん。
働いているみなさん。
心は被災者と共に、でも復興のために今目の前の仕事を頑張ろうよ!!
それが今できることなんじゃないだろうか。
あと、募金!
読んでくださった方、ありがとう。
2009-01-08 高1男子 電車 大分県中津市合馬のJR日豊本線の踏切内
2009-01-19 中1男子 飛降 福岡市西区小戸3の10階建てマンション
2009-01-21 午後00時50分ごろ 高3女子 電車 三重県津市久居新町の近鉄名古屋線の踏切
2009-01-23 午後09時 ごろ 中1女子 飛降 札幌聖心女子学院4階
2009-01-27 午前05時40分ごろ 女子(17) 電車 香川県丸亀市のJR予讃線讃岐塩屋駅
2009-01-30 午前05時30分ごろ 女子(16) 飛降 山口県防府市車塚町の路上
2009-02-01 午前02時 ごろ 高2男子 首吊 埼玉県鴻巣市赤見台の公園
2009-02-16 午後05時 ごろ 小4女子 首吊 川崎市川崎区 自宅
2009-02-18 午前10時40分ごろ 高1女子 電車 大阪府堺市堺区広陵中町の南海高野線三国ケ丘駅
2009-02-19 午後03時45分ごろ 男子(19) 硫化 熊本市本山のマンション1室
2009-02-25 午前08時45分ごろ 高1女子 電車 新潟市東区岡山のJR白新線大形駅
2009-02-26 午後03時10分ごろ 高1男子 電車 埼玉県春日部市一ノ割の東武伊勢崎線一ノ割駅
2009-03-03 正午ごろ 高1男子 首吊 三重県伊勢市 自宅
2009-03-09 午後01時55分ごろ 中2女子 電車 札幌市豊平区の市営地下鉄南北線南平岸-澄川間
2009-03-22 高2女子 電車 福岡県久留米市三潴町生岩の西鉄天神大牟田線の踏切 遺書あり
2009-04-05 高3男子 飛降 兵庫県川西市小花の15階建てマンション
2009-04-07 高1男子 飛降 岐阜市蕪城町の7階建てビル 入学式当日
2009-04-10 高2女子 電車 埼玉県加須市土手の東武伊勢崎線加須-南羽生の踏切
2009-04-13 高1男子 電車 埼玉県川越市砂の東武東上線新河岸駅で、線路上に立っていた
2009-04-15 高1女子 飛降 兵庫県三木市大塚2丁目の県営団地
2009-04-17 高2女子 飛降 兵庫県姫路市の私立高校(賢明女学院高)
2009-04-23 高1男子 首吊 神戸・灘区の公園トイレ
2009-05-04 大3男子 硫水 札幌の豊平公園の公衆トイレ
2009-05-14 高2男子 電車 静岡県新居町中之郷のJR東海道線 遺書あり
2009-05-16 中2女子 飛降 滋賀県守山市水保町の14階建てマンション 遺書あり
2009-05-29 高2男子 飛降 川越市内の私立高校(城北埼玉高校)
2009-06-10 高3男子 電車 近鉄南大阪線河内天美-矢田間の踏切 遮断機をくぐって線路内に立ち入る
無論、すすきのは外せないよね。
しかし、どこへ行くべきかはこれは結構に悩ましいところであって、
例えば安定感で言えば(やや値段相場高めの)メンズエステというのは非常に安心であって無難であるのだけれど、
しかしすすきのといえば激安ソープで地雷原をチンコおったてて全力疾走というのも捨てがたい。
無論、ヘルスの類もバッチリ揃っていて、ハレンチ女学園で母校の制服を使ったプレイというのも良いものであるが
しかし一方時期は正月と最も込み合うのではないかということも予想に難くなく
ならばいっそのこと、ナンナナ辺りのイリーガルなにおいのする店を攻めてみるか、と思うもなんか全滅したとか
そういううわさもチラホラと、やはりここは大手チェーンの安定感に身をゆだねるべきであろうか、
しかし高級ソープという選択肢もナシというわけではなくいや大いにアリなのだが当方予算はかなり限られており
あれのせいで、北海道に変なイメージを持っている人が未だに多すぎる。ネット越しに色々な地域の人と話すようになって、それが顕著に頻繁に感じられるようになってきた。
以下は極端でもなんでもなく、しょっちゅう言われる事だ。
北海道でそれほどの豪雪なのは、日本海側の一部だけ。だとしても、二階から出入りするという話は聞いたことない。殆ど雪が積もらない地域もある。札幌は比較的雪が多いけど、それでも本州の日本海側の豪雪地域程ではない。
基本的に、寒さと積雪というのは別の要素。
最近、ちゃんと理解してる人が増えてきたかも。
北海道の家は作りが違うので、冬でもあったかいし、部屋の一部分しか暖かくならないなんてこともない。例えば今の外気温は、13度だけど、暖房はつけてないよ。室温は22度くらいある。ちなみに今半袖だよ。
少なくとも市がつく所に住んでいれば、そんなことはない。札幌に住んでいると言っても、本気でこう聞いてくる人がいる。
スタバの話して、「え?北海道にスタバあるの」な反応されるようなケースも結構ある。もう慣れたが。北海道にしか住んだ事のない自分でも、札幌は本州の都市に比べれば田舎だと思うが、それでも過剰に田舎(店が無い、隣の家まで数百メートル等)と思ってる人がいまだにいるのには困惑する。
でねーから。
山近くにいたら野生動物がでるのは、北海道じゃなくたって同じだろ。なんで北海道だけ街中に熊が出ると思ってるんだ。
積丹や島牧方面にいけばダイビングスポットになるほど綺麗な海もあるけど、観光客は何故かあまり興味を持たないようだ。灰色によどんだ海しかないと思ってる方が多い。"積丹ブルー"で検索してみるといい。
と、このように変に偏った見方をされる反面、肝心なところはさっぱりだったり。
旅行計画を立ててる人にありがちなんだけど、距離感が根本的に違ってる。
都市間が200~400km離れてたりするよ。地図を良く見ること。一般道でもかなり流れが速いから、一日に車で移動できる距離は首都圏に比べたら圧倒的に大きいけど、それでも無理な計画をする人が多すぎる。
新幹線がないし非電化区間が多いからJRは遅いと思われてるけど、スーパー北斗などの振り子特急はディーゼルとしてはキチガイじみた速度で走ってる。JRも意外と使えるよ。非電化区間の架線のないクリアな風景をお楽しみください。
悪い。
最低時給とかちゃんと見てね。多分本州のどこよりも低いよ。首都圏とは話がかみ合わないくらい、賃金感覚が違うよ。そして実際に最低時給しかでない環境が多いという事実ももっと知られるべき。
一般住宅にクーラーはないよ。小さな会社だと無い事も多いよ。札幌は夏30度いくよ。それでもそっちの夏よりは過ごしやすいらしいけど、クーラー無いとダメって人は覚悟した方がいいかもね。
もちろん、夏でも涼しい土地もある。南ほど暑いわけではなくて、函館は札幌よりも夏涼しく冬暖かいし、旭川は夏暑く冬寒い。
何故か最近、北海道でもゴキブリが出ると思ってる人が多い。潜まれる恐怖だろうか。24時間営業の暖かいお店に小さいのがいるくらいらしい。自分は生まれてこのかた、ゴキブリを見たことがない。
避暑のイメージがあるのか夏に来る人が多いけど、北海道の7月中旬~8月は天気が悪い。7~8月に訪れて、雨天に泣いた人を何度も見てきた。一年で最も晴れているのは6月。花粉症と梅雨を避けて、花も芽も一斉に芽吹く快晴の6月に旅行がおすすめ。日が長いので日程を余裕もって取れるのもいい。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1780166.html
でも6月が良いと思うのは雪国の人の感覚で、普通はありがたくもなんともないと首都圏の方に言われたのだがそういうもんなのか。普通に快晴続きだし過ごしやすい天気で日が長いし旅行向けだと思うんだが。
忘れもしない今年の5月18日。武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。
一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。
少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。
生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。
私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。
しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。
自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。
両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。
最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。
そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。
さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
じゃ、お先に。
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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
無断転載しました。ごめんなさい。
元増田です。そのとおりだと思う。
ひどい未舗装路や石畳や坂道の多い街では徒歩の方が精神的に楽。
自分は現在札幌在住なので、北大周辺や新川通り等を自転車でよく飛ばしてる。
この時期のちょっとした遠出なら車でなく自転車で行く事もあるし。
自転車で数時間移動するけど、徒歩で数時間移動するよりもはるかに気分はいい。
本当にスピードが出て爽快で、体も冷えて疲れが溜まりにくく、辛いという意識が無かったので、カロリー消費が意外とあるというように感じたのです。
元記事に懐疑心を持ったり疑似科学だと思う人は、そもそも自転車が爽快で精神的負担が少ない運動だという感想を抱いていないのでは。
July 20,2010
■企画概要
・目標:夏休みの約60 日間を利用してロサンゼルスからニューヨークまで自転車のみを利用して横断する
・現地の人とのコミュニケーションを大切にする
・自転車という乗り物の持つ可能性を見直す
・意思の強さを計ってみる、一種の自分試し
■アメリカ横断の理由
・夏休みの60 日という期間のもとで、最大限の距離を稼げ、大陸を横断したという達成感が得られるのが北米であったこと
・日本の様々な風景をみた上でのアメリカがどのように自分の目に映るか気になった
・日本にないもの、日本にしかないものの見識をより一層明確にしたい
■60 日間走行ルート(予定)
・Los Angeles → Las Vegas → Grand Canyon → Albuquerque →Springfield→ Nashville → Greenville →Washington D.C. → Philadelphia →New York (※時間の余裕しだいで変更の可能性あり)
・およその距離を5600km と見積もると、60 日間では一日平均93km という計算(十分可能な範囲)
・出発日は8 月10 日の予定。大学の夏期休暇である8 月、9 月をすべてこの旅のために投じる覚悟でいる
_________________
【用途概算】
航空券 160,000 円
食費 90,000 円(一日1500 円で計算)
宿泊費 180,000 円(一日3000 円で計算)
その他 +α
合計 430,000 円
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【Table 1: 予算用】
■道中の費用(Table 1参照)
・野宿することを考えると、Table 1より安く収まるかもしれない
・事前準備にかかる費用は含まれていない
・物の紛失、破損等で物を買いなおしたりする場合がある
・スポンサーの協賛が得られなかった場合:親からの借金、学生ロン、貯金を崩すなどして賄う
・アウトドア活動の要用品として世に広まるチャンス
・現地の人々からの波及効果
・自分が撮影した写真を御社様の製品の広告としてカタログ等に掲載することができる(肖像権の許可)
・道中配布する自分の名刺の裏側にスポンサー様のロゴを表示。(自分と関わった人達に出来る限り渡すようにする)
・国外での使用においても力が十分発揮できるという信頼性の構築
・こういった企画において、現地の新聞や報道に注目された前例があり、現地のメディアへの露出の可能性も考えられる
・京都→札幌、京都→屋久島と二回に分けて実質日本を陸路で縦断
・一回目は8 月の夏休み、二回目は3 月の春休みと、夏の暑さ、冬の厳しさを肌で感じつつ、日本の様々な憧憬の地を巡ることができた
・京都→名古屋→静岡→東京→松戸→筑波→仙台→盛岡→八戸→青森→函館→長万部→千歳→札幌(22 日間)経費:約18 万円
・京都→神戸→倉敷→広島→岩国→山口→下関→小倉→福岡→熊本→高千穂峡→延岡→宮崎→霧島→鹿児島→屋久島(21 日間)経費:約12万円
・パンクは合計十数回、ほとんどを手作業で修理
・道中の作業を通して自転車の基本的な修理方法、扱い方を習得
・無事故、怪我なし
・宿泊は、野宿、仮眠施設、テント生活、居候など。ホテルや宿には極力頼らず。
・他にも紀伊半島を一周(5 日間)経費:約3 万円
ヘイおじょーちゃん、あんた池袋とか行っちゃダメだよ。ウィーンとかそういう街に住んだ方がいいよ。
んで、飲食店の店内でスプレーなんか使えるかヴォケ!んなもん撒き散らすくらいならゴキブリ放置の方が100倍マシだ。
大体、場末のコ汚い(うまいまずいとは無関係な。名店もあるぞ)しかも地下の店にゴキブリが出るなんざ、
コーラを飲んだらゲップが出るくらい普通なわけですよ。挙句、池袋新宿なんかの歓楽街は
人多い+ゴミ多い+水場多い+高温で、ほぼゴキの養殖所ですよ。あなたが気づかないだけで、
多分人よりはるかはるかはるか多く、ゴキのいる町ですよ。日本最強のゴキタウンで「勘弁して欲しい」とか
もう人間が移住した方が早いレベル。歌舞伎町なんか「ゴキの街」と呼んでいいレベル。
まぁ、おそらく池袋でエンカウント率が高いのがゴキの巣窟になりがちな場末店が街全体に散ってるからでしょうね。
新宿でもオサレタウンは外見上でないように頑張ってるし。コ汚い飲み屋街に行けば死ぬほどイルヨー。
それでねー、おじょーちゃん店員さんはねー
特にそーいうお店の店員さんはねー、ゴキくらい素手余裕なんですよー。
まぁ、素手がダメっていう育ちのいい人はティッシュ一枚くらいで楽勝です。新聞でベシ、でもいいです。
その辺のものでスパっと片付けて「ごめんねー」ってビール一本サービスするんですよ。
ちなみに、俺が働いていた店は「名門」と言われるイタリアン。店内は極限まで清掃され、
ゴキが客の目に映らんように努力してましたが、それでも夜の調理場はゴキの運動会です。
あなたが食べたオシャレパスタもオシャレ子羊もオシャレラビオリも、多分全部ゴキに齧られてるとオモウヨー。