はてなキーワード: 西加奈子とは
なるほど、考えさせられる。
でも、「表現への批判」を批判するのであれば、「批評に対する批判」も批判してほしかった。表現の自由は批評の自由とセットで倫理的なバランスがとれる。例えば漫才で言えば、ボケが不謹慎なことを言っても、ツッコミがちゃんと「ダメな事です」と言えば成立する場合が多いわけで(もちろん「程度」がある)。でも「批評に対する批判」がはびこっている現状だとそれは機能しないわけです。ブコメを見るとそういうのがいっぱいあるわけです。そんな中で表現だけ自由にしろと言われても説得力はないんです。どうしたものやら。
で、「程度がある」って言ったけど、例の事件については正直かなり微妙ではないかと思う。
発生からまだ2年しか経ってないわけで、それってつまりものすごくセンシティブなわけで、それを当事者でもないのに、「そもそも、ルックバックの描写が『程度』を大きく逸して邪悪な描写をしていたかと言われたら、そんなことはないだろう。」と簡単に断じてしまえるのだろうか・・・。
しかも、藤本タツキ先生はあの『チェンソーマン』を書いた大作家なわけです。そんな作家が書いた作品は、大勢の人の目に止まるわけなんです。「大いなる力には大いなる責任が伴う」んです。スパイダーマンです。
『漁港の肉子ちゃん』を書いた西加奈子さんは、東日本大震災で舞台の石巻が甚大な被害を受けたあと、連載をやめようかと悩んだが、作家としての傲慢さが勝ち、書くことを続けたらしい。
「自分の作品で傷つく人が必ずいる」ことは作者がいちばん苦慮しているわけで、作者がいちばん苦慮しているのなら、読者の俺たちはその苦慮を思いやって、傷ついている人たちに脅迫めいた言葉を投げるのではなく、その要望を受けいれるかどうかはひとまず置いてもいいから、いったん寄り添う事が必要なんじゃないかと俺は思うよ。
2019年6月5日、元号が変わって1ヶ月経ったところで対した代わり映えのある日常に変わったわけでもなく、常にニュースではいつ歩いている道路に突っ込んでくる自動車に対してどう対処しなければならないとか、年金もらえないから2000万円貯めなければならないみたいよとか、沈みゆく日本を眺めるだけ、みたいな話題で持ちきりのなか滅入っている毎日で、今日も眠れず丑三つ時、という状況に飛び込んできたTwitterでの新聞記事のキャプチャ画像。
少し睡魔が近寄ってきてさあ眠ろうか、といった寝ぼけ回路には刺激の強すぎる文字列と、ワンショット×2の何ともミスマッチなコラージュ画像。いや、ミスマッチどころか接点を探すほうが難しいくらい予想の外に飛び出した男女の組み合わせ。そこには「山ちゃん 蒼井優 結婚」と、強い単語が3つ、並んでいた。
「夢なんじゃないだろうか」。とっさにそう思い、眠気もあったことでその場はすぐ床についた。だけど混乱する頭はそうさせてくれなかったのだろう、午前4時半、再び目が覚めてしまった。そしてTwitterを開くと、更に新聞記事を詳しくキャプチャーした画像が多数出回っていて、「あ、やっぱりウソじゃなかったんだ」、そう理解することができた。「しずちゃんが恋のキューピッドなんだ」「そういや山ちゃんアンジュルムに軽ハマりしてたな」「っていうか交際2ヶ月って」みたいな浮ついた感想しか出てこなかったけど、両者のファンである自分には嬉しかった。特に、山ちゃんがこういうふうに幸せを掴むなんて。予想もしなかったし、考えうる未来の中で最上級の結婚相手を見つけたんじゃないだろうか。そんな失礼すぎる思いが頭の中を一杯にしてしまった。山ちゃんが掴んだ現実の話なのに。
そこからは普通の日常、仕事へ向かい、昼食を済ませ、お茶を濁して、帰路へつく。
だけど頭の中は山里亮太&蒼井優カップルのことで一杯で、「スッキリの天の声はさほど多くは語らなかったらしい」「会見が夜にあるらしい」「そういや不毛な議論も今日だ」とか、わずかの情報も入ってくる中、どうにか一日かけて頭の中を整理していった。
そうして帰宅し、AbemaTVでの微笑ましい会見を観て、芸能人の反応をチェックし、ベロンベロンのしずちゃんとそんなつもりで来たわけじゃないaikoがゲストだった不毛な議論を聴き、激動の2019年6月5日が終わった。
そういた一日を終えて、お似合いなふたりに見えてきた夫婦の顔を思い浮かべてこの文章を書いている。
山ちゃんはその日の最後の仕事である自身のラジオ、山里亮太不毛な議論のラストで泣いた。嗚咽混じりでリスナーへの感謝と共に泣いた。
自分は山ちゃんとは同じ中年男性ではあるけれど根本的に異なる存在だ。圧倒的に山ちゃんのほうが出来る存在だし、本来ならばモテて当然の男でもあるし、女優が奥さんでも決して見劣りしない一流の芸能人であり、そもそも残念だと言われたのは顔面と卑屈な性格だけなのだ。
だけど一つだけわかることがある。それは「非モテ」という名の呪いのことだ。
「非モテ」という呪いは恐ろしい。その呪いは自身の幸せを否定してしまうものであり、ひとたび呪われてしまったら自身のアイデンティティとなり、こびりつき、恋愛というものが世界と無縁であるように自然と自分から遠ざけてしまう。
山ちゃんはラジオで言った。「実は僕、結婚はすごく悩んでて、というのもラジオでずっと逆の人生の話をして、妬んできてて、幸せになることがあんまり良くないかなと思って、結婚するのが、怖くて」。
この言葉を聞いて涙が止まらなかった。「非モテ」にとっては「幸せ」になることは自身を否定してしまうことだ。誰かを愛すること、愛されることは、同じ「非モテ」である同士を裏切ることだ。
冷静に考えればそんな事無いし、そんな事思っているのは自分だけなのだろう。だけど「非モテ」という呪いはそんなバカですら分かることすら分からなくさせてしまう呪いなのだ。
かつて山ちゃんは友人であるオードリー若林、西加奈子と出演したボクらの時代でこう話した。「俺の走っている燃料が、妬み嫉み恨み辛み怒りだったら、彼女なり結婚なりというのはそれを消し去るものなんじゃないか」。まさに呪いだ。だけどそんな山里(もしかして若林にも向けているのかも)に西加奈子は言う。「うちらは『いや、みんなで愛し合って慈しみ合ってハッピーで、でもいいものを書ける』ってのを証明しようと思う」「大丈夫、結婚しても幸せになんないから」。
つくづく山ちゃんは幸せな環境に恵まれた人間だと思う。彼の周りには彼を肯定してくれる友人が多く存在する。彼にかけられた呪いを無かったことにしようと動いてくれた人達が存在する。だけどその環境は決して用意されたものでも、偶然現れたものでもなく、彼自身が作り上げたもので、その環境含め「山里亮太」の一部になっている。
もし、コンビ仲が最悪な頃、相方のしずちゃんが出演したフラガールで蒼井優と共演することを阻止してたら、コンビ仲が最悪のまま、南海キャンディーズとして漫才を続けることを拒んでいたら、不毛な議論で自身の幸せを信じるリスナーとの信頼を結べていなかったら、未知の仕事であったテラスハウスの仕事を受けなかったら、きっとこの未来にたどり着かなかっただろう。
しかし、この文章を書いている自分には未だにこびりついている呪いであり、現状、それを打破できる環境は作り上げられていない。
けど、山ちゃんの結婚で「非モテ」なんていう呪いのせいにすることはやめようと思う。そして、そんなきっかけを作ってくれた山里亮太、蒼井優、そして山里亮太を構成する周りの方々に感謝します。
○ きりこについて 角川文庫 2011/10/25 ¥555
△ 漁港の肉子ちゃん幻冬舎文庫 2014/4/10 ¥648