我々は、すでに自己満足では生きていけない時代に直面している。
日本におけるデザインという単語の意義は幅広いものの、根本的には「良くするための工夫」である。どういう問題が有り、それに対する解決法を思索する。デザインという概念は、歴史とともに変遷している。具体的には、作る側が使う側に一方的に押し付ける時代から、使う側を観察し作る側がそれに合わせる時代に変遷した。これにより、喜ぶのは現在の人たちだ。未来の人たちではない。
今の世界において、使う側に合わせることは最早当然の作法となりつつ有る。デザイナーという職業は決して良いグラッフィックを作るだけの役職ではなく、改善のためのありとあらゆるアイデアを検証しながら最善策を見出す役職となった。
しかし、これはある意味危険なものである。人にとって良いものを考えるデザインという活動は、同時に人の堕落を促進するものに他ならない。これをいち早く危険視したアーティストは、デザイナーにそれを認知させるために「スペキュラティブデザイン」という言葉を生み出し、発信した。
世界は、様々な若者により変革がもたらされてきた。スティーブ・ジョブズは、当時マニアの遊び道具でしかなかったコンピュータが一般的な人々の仕事道具として、あるいは遊び道具として機能するという主張を持ち、パーソナル・コンピュータという概念を具現化した。ビル・ゲイツは、当時無料で共有することが当然だったソフトウェアに対して金銭的価値を主張し、ソフトウェア産業を確立させた。
なぜ、この2つの事例を取り上げたかといえば、この二人は当時の人々の活動そのものを支援したのではなく、未来のための投資として冒険したからだ。すなわち、彼らは単なる自己満足ではない、未来の人を良くするための努力を行った功労者なのである。
我々は、常に思索することを求められている。すなわち、「今の人達を良くするためのアイデア」は、今の人達を堕落させるだけにとどまっていないか。未来の人たちにとって、良いものを生み出せているか。今の人達を満足させるだけなら、そこに人を留めることができたとしても、増やすことは難しい。集めることは難しい。なぜなら、いち早くこういった問題に気づいた人たちは、もう未来の人達に向けたモノを生み出し続けているからだ。我々は、すでに自己満足ではいきていけない時代に直面している。
ここまでの主張は、すなわち今あるもの、今見えるもののみで満足してはいけないという主張だ。言い換えれば、それは安定の否定と進化への主張である。これには非常にエネルギーが求められる。だからこそ、一度何かに成功したら、それにすがったまま安定したいと考える。
今の日本は、今までの日本は、まさにこの歴史の組み合わせである。日本がフィーチャー・フォンのUIについて議論していた時代に、Appleが生み出したiPod touchとiPhoneはそれらの歴史をすべて塗り替えた。日本がクレジットカードや電子マネーを受け入れ始めた時代に、中国ではQRコードによる支払いが一般化しつつあった。すなわち、日本は成功こそするものの、その後堕落し世界に取り残されがちなのである。
日本のすべての人がそうであるとは、決して主張しない。ただ、すべての人はたとえ自らが理解出来ないものであったとしても、未来の人たちへの投資を主張する人を支援してほしい。でなければ、人がいない場所からは更に人がいなくなり、人がいる場所は更に場所が不足する。単純な見かけだけでなく、その先、あるいはその後ろにある根本的原因に目を向けてほしい。
いつからゲームは「遊ぶ」のでなく「観る」ものになったか(id:arcadia11)
http://arcadia11.hatenablog.com/entry/2017/12/29/210000
色々言いたいことがあるけど一つだけ反論する
プレイヤーよりも動画の視聴者に向けて、もっとキャッチーで、奇抜で、女性や子供も喜ぶデザインに修正しよう、という流れになっても不思議ではない。
女性や子供も喜ぶデザインに修正されることが問題のように書かれているが、なにが問題なのだろうか。
ゲーム業界を見る限り、人気のあるソフトはポケモン・妖怪ウォッチを筆頭に
マリオ、ロックマン、ソニック、クラッシュと子供受けする(かつ人外の)キャラばかりだ。
洋ゲーに出てくるような海外規準でセクシーなオッサンが誰か一人でも彼らと並ぶほどの人気を得ただろうか?
プレイ動画が無い時代から、老若男女問わずキャッチーなデザインが好まれるのだ。
売上のためならデフォルメされた動物っぽいものがたくさんでるゲームを作ればいい。と誰もが思うはず。
でもゲーム史上は二匹目のドジョウを狙ったもので溢れかえったりはしなかった。
クリエイターが安易な目先の売上だけに流されず、様々な年代性別に向けて、それぞれ面白いと思うものを提供してくれているおかげだ。
でも3期も9割減だったら1000枚しか売れないことになるし採算取れないよね
いや現実的にそこまでは落ちないだろうけど、関係者が3期に二の足を踏む理由にはなるんじゃないの
そもそも1期の時点で最終巻では半減してるんだから、2期も最終巻で5000枚とかになったらもう「そこそこ人気のあるアニメ」程度でしかないよな
私が断ると、その男はおもむろにズボンをおろしてイチモツをさらけ出した。そして、激しく動揺する私にもかまわず、あろうことか、そのままそれに右手を添え放尿を始めたのである。
びゅう、びゅうっ、びゅびゅうっ
どれだけ溜まっていたのだろう。勢いよく放たれる黄金(こがね)色の水はみるみる床に広がっていく。私はあまりのことに何が起こっているのか理解できなかった。店内に立ち込めるアンモニア臭には、ほのかに甘い果実のような香りが混ざっていて、この男は糖尿病なのだろうかなどと考えていた。
「なにやってんだ、こいつ。店の中でしょんべんしやがったぞ。」
マジレスするなら「あれだけ大ヒットした作品が2期で9割減」というアニメ史上例を見ないイベントに黙っていることなどできないし、発言を制限される筋合いもない
1期の頃にあちこちでプラス方向に話題になっていた時は別に止めなかったんだろ?
マイナス方向の時だけ止めたいというのは虫が良すぎる
一年の長さって、単純に考えれば1/年齢だから、年取れば分母が大きくなって値が小さくなるのは当たり前だけどな
10歳にとっての1年は1/10=0.1、20歳にとっては1/20=0.05、40歳だと1/40=0.0125だもんそりやあっという間だわ
みなさん良いお年を
漏らして、増田を書く。
最近の社会の議論とか、男女の同人文化の違いとか見てて思ったんだけど、
男性文化は快楽の可能性を最大化するのを望ましいとする一方で、女性文化は苦痛の可能性を最小化するのを望ましいとしがちじゃない?
気持ちよくなるためなら多少の不快や混沌や争いもよしとする男と、苦痛を避けるためなら快楽やわがままや気楽さを我慢してよしとする女。
前に柴田英里が「フェミニストは欲望の裁判官ではなく欲望応援団になった方がいい」って言ってたけど、
それはやりたいことをやろうぜ! 楽しむことが優先! っていう己の欲望実現を求めるマクシマックス戦略的な考え方で、
嫌な目にあいたくない! 傷つくのを防ぐのが優先! っていう他人の欲望からの被害を最小化したいミニマックス戦略とは考え方が違うよな。
大学3年の女です。
私も受験生の頃は似たような感じでした。親はなにを思って私のためにお金を出してくれているのか全然わからなかった。
でもわからないなりに大学に通ってみると、少なくとも高校時代より見える世界はずっと広がって、新しい考え方とか学問にたくさん触れられたからそれだけで行けてよかったと思えたよ。
きっと優秀な方だと思うから、私よりもっと世界の広がりを感じられるかもしれない。
親は私に「自分の可能性を広げてきなさい」ということで大学まで行かせてくれたんだと思うことにしています。
今は将来の確固たる答えも見つからないし、悩んで苦しい時期だと思う。
答えを探すために大学行っても悪くはないし、親御さんもそれを咎めたりはしないはず。それが許される時期こそが大学での4年間なんだと思います。
4年間たくさん悩んでたくさんいろんなことを知ってほしいな。
受験勉強を4月から頑張ってきたのは本当にすごい!年末はゆっくり身体を休めて、今まで頑張ってきた自分を労ってあげてください。
そして人生は長いからそこまで気負わなくても大丈夫!回り道しても充分間に合うくらいには長いです。焦らず、じっくり考えて頑張ってください。
高3の頃の私とちょっと似ているなと思って勝手に長々と書いてしまいました。ごめんなさい。また受験が終わったら書いてほしいな。目指しているところに合格できることを祈っています。
ツクールシリーズで「ラノゲツクール」なんて出ているらしいですね。
週刊ファミ通12/28 P106「アニメやゲーム世代向けのエンタメ系ストーリーをテキスト中心で体験するゲームジャンル、”ライトノベルゲーム”」
ここで気になるのだけど、ライトノベルゲーム(ラノゲ)というジャンルはいつから言われるようになったのだろうか。
ギャルゲーとも、サウンドノベル(こちらはスパイク・チュンソフトの登録商標)とも違うのですよね。ラノゲの代表作はFATEとかでしょうか?
そんな増田も同様に。