はてなキーワード: スーパーヒーロータイムとは
たぶん様々なアカウントに特撮のキャプ画でリプライを送ってる姿が目撃されていると思うが
スーパーヒーロータイムユーザーの民度がかなりやばいことになってる
ありとあらゆることがスーパーヒーロータイムに関係していると思っているらしい
私は女だが、兄と弟がいる影響で幼い頃からスーパーヒーロータイムにとても馴染みがあり、戦隊ヒーローではレッドに、仮面ライダーでは主人公に感情移入し夢中になって見ていた。
ヒーローたちは、堪らなくかっこよかった。
自分たちに苦難が降りかかろうとも、困っている人がいれば助けずにはいられない。
そんな姿が眩しく、ただひたすらに憧れた。
自分が挫けそうでも、困っている人がいたら助けられる人になりたいと、幼いながらに思ったりもした。
それから年頃になり興味のあるものが増え、いつの間にか戦隊や仮面ライダーから遠ざかっていた。
嫌いになったわけではない。
社会人になり自分の生活を自分で賄えよるうになった頃、「仮面ライダージオウ」の存在を知った。
平成最後の仮面ライダーで過去のライダーたちも出演するアニバーサリー作品だと知り、興味本意で視聴してみることにした。
初めてみたのは、555回。
面白かった。
視聴を続けることにした。
見れば見るほど、面白かった。
平ジェネForeverはやばかった。
顔が痛くなるまで泣いた。
未視聴の戦隊や仮面ライダーを見続ける日々のなか、中学時代の代わり映えのない日常の夢を見た。
考えるもこれと言った答えが見つからなかったので、卒業文集など中学時代の自分に関わるものを一通り見ていくことにした。
卒業アルバムのなかに担任からひとりひとりに送られた手紙が入っていた。
読み返すと懐かしさが胸に広がる。
瞬を女性キャラ化した作り手のもう男だけで戦う時代じゃないという言葉に対して海外ファンがセーラームーンの画像をあげたって話を見てこの前の男の子プリキュアを思い出した
去年男の子のプリキュアという話題に"子供の価値観に影響するのに子供向け作品は多様性のなさが続いてきた""やっとプリキュアから変わる兆し""女児向けだけじゃなく男児向けもそうなっていけば"的な戦隊やライダーと比較しての内容が散見されてそれは普段偏見や思い込みやステレオタイプでものを判断することの恐さや知ることの大切さでジェンダーを語る勢界隈のみなさまのツイートでもありそこに人間の一種の業を見たようで軽くだけどもそこそこの衝撃を受けた
男の子がプリキュアになれるようになったそのことに対して挙げられていたのが戦隊のレッドがリーダーサポート役にされるピンク弱い女性を守る男性としてのライダーといった特撮ヒーロー像でまた加えて女は魔法で戦う魔法は女が使うもの的な偏った女性像を今に残す(としている)魔法少女作品への苦言のようなものでありさながらおっいつの時代の話してんだ?というような様相でそれらからそのみなさまが少なくともスーパーヒーロータイムにテレビの前にいないであろうことは想像に難くなくそしてその自覚もあられるはずでだけどもそんな自分の持つ子供作品像が像として客観的に語れるほどの経験に即したものではないという前提でもって"今に至るまでの子供作品"をよく知らないはずの世界のことを主観による感想や意見としてでなくその世界の"事実"として嘆き"偏見の影響や知るということへのきっかけの重要さ"で説くその姿の皮肉さに人間どうにもならねえことはどうにもならねえんだなあというある意味人間への絶望のようなものを垣間見たようなそんな気になったし単純に興味深くも思った
興味深かったのはそういえばと自分の一番古い戦隊の記憶でさえ既に"女性はピンク"じゃなかったことに思い至ったからでもあり確認したら最初にピンクじゃない女性戦士が生まれたのは紅一点がシリーズではなく作品毎の個性となったのと同じ1985年女性戦士にピンクがいない戦隊が1988年レッドじゃないはじめてのリーダー鶴姫が1994年シンケンジャーが2009年でそして"女の子っぽさ""かわいらしさ"は弱さではないと示した桃園ミキちゃんは1982年だった
ちなみにタックルちゃんは1975年女性ライダーが生まれた龍騎は2002年で15年以上前で当時映画館行ったけどそんな前でしたかね・・・というきもちに包まれた
彼女たちの存在はか弱い女性をヒーローが守るそれは"男性が強く""女性は弱い"なんて役割だけに駆られたものじゃなく"個"として大きな力を与えられたものの責任や矜持からであると証明し体言し続けるものでありというかむしろ大きな力に対して正しくあろうと考え悩み倒れ打ちのめされたとえその力が手から離れたとしても確かに力強く立ち上がりより強くあろうとするそんな全てのヒーローが尊いと思うんですよ私は(早口)
ただ好きなだけの自分の思い出とくわしくもない浅い記憶を照らしてもその程度は思い当たるところを考えると呆けたように口開けて見ていたブルースワットもシュシュトリアンも多様性という面では多くの歩みの中のひとつとして少しずつでも前に進んでいるその象徴でもあったのかなあだとか魔法少女たちにしても思い返せば今では女の子の定型として語られるそれらもその時代時代にして桃園ミキちゃんのように女の子という概念を強さとしてまたお転婆なんて気にしないわというような奔放な女の子像を投影して肯定的に強くキラキラと描くことで象徴としての姿を獲得して今に至るわけで家庭環境なんかの描き方や当然価値観も時勢において変化していて今回のプリキュアも劇的な快挙というより歩みを重ねての自然な結果だったのかもなあとかそんなことを考えていたのを聖闘士星矢の話で思い出したのだった
また性別においての役割に対する自分の意識の薄さは子供の頃から作品によってどちらの性別が戦う姿も守られる姿も目にしていてそれが影響しているからかもしれないなんてことも思ってもいてそれは恐らく多様性が語られる上でここ最近で名前あがりがちなブラックパンサーやクレイジーリッチやオーシャンズ8が一方の肌の色や性別のバランスだけから見るとむしろひと昔前の"白人""男性のそれと変わらないというようなそれとも関係していてそれは矛盾じゃなくそれこそが多様性におけるまさにカウンターパンチであり同時に今では偏っているとされる過去の作品群をもそのまま個性として肯定し内包し得る可能性を持ってもいて作品内をただ多様化することを是とするだけでは過去のまた例に挙げた作品でさえふるい落としかねないことからそこに加える形で全体の中で既存の価値観ありきで同じ方法論をとることで多様性の雄となった認知と許容のパイを増やすそのやり方はいくらもたくましく見えるように思えるしそこでの聖闘士星矢に対するセーラームーンでセーラームーンとあげだまで同じチャンネルで続いて流れる戦隊でライダーでなぎさとほのかでふたりはプリキュアでニチアサなんじゃないのかと思ったのだった
問題なのは作品の中で一定の立場の人間が偏って役割につくことではなく作品を越えたところでの役割においての共通する偏りで必要なのは一方の価値観を描くことの優劣や是非を問うことではなくどちらもが個性として選択、許容されるということを示すことでだからこそ今回のプリキュアで男の子が、イレギュラー的であっても戦隊レッドが仮面ライダーが女性でも"なれる"と示されたことはそれぞれのシリーズ史において前述したような主人公がその性別であることからの役割だけではなく作品やシリーズとしての"個性"として存在しているというのを改めて示すものでもありそれはきっと大きなことなのかもなあというようなことをぼんやりと雑煮を食べながら考えたので記念に文字にしたのであった
おいしかった
気付けばこんな歳になりました。まぁ、25も越えてやりたいこと見つかんねーとか言ってる間に無職です。今はバイトで食いつないでますね。全然シフトはいってないけど。
それでも何とか家賃ぐらいは支払えるレベルなのでやっていけてるわーなんて勘違いしてる。
まぁ、エリート増田達からすれば『今すぐ死んだほうがいいレベル』なのかもしれないけれど、今すぐ死んでも後々死んでも一緒っていうか利益が発生してるなら後々死んだほうが良いかもなァなんて言いながら生きてます。ほぼ死んでます。
どうしてこうなったんやろうなぁ、なんて底辺Youtuberとか見ながら思うけど、いずれ自分もそれと同じくらいどっちつかずな存在になるんだろうな。クソだなぁ。
今出来ることなんて無いよ、なんて頭の中の自分がぼやいてるけど、今できることなんて腐るほどあるんだってことは理性では理解してるんだなぁ。本能は「バイトの金入ったら競馬で一攫千金じゃ!!」なんて言ってるけど、絶対それも上手くいきませんし。
こうなってくると人生は金じゃないっていうのがよーく理解できる。金、資産があれば人生の選択肢は増えるけど、頭の中の自分はどの選択肢にもNOと言い出す。
芸術方面は稼げないから当然NO、でも現場で働くってのも出来るけどできるだけNO、パソコン関係の仕事もスキルが無いからNO、NO!NO!NO!
わかってる、今やれば多分どこへでもいけるんだって。最悪自転車に乗って日本一周とかかな。この歳になって自分探し。いいかもしれねぇ。
でも物理的などこへでもいくは昔からやってきた。その度に「俺何やってんだろう」って言ってきたんだ。
だから、少しでも物理的じゃない方のどこへでも行けるようにやっていこうって、今更思うんです。
はてダに、
という記事があったのだけれど、これを読んで、そう言えば平成ライダー見ている人は本当に少なくなったなあということに思い至った。
ぼくは、毎日サークルで新入部員とよくおしゃべりをしているのだけれど、最近は「昨日、キバで次狼さんがさ」なんて平成ライダーの話題を持ち出す人というのをとんと見かけない。特に若い人ほどそうだ。
よく出るのはやっぱりYouTubeとかニコニコ動画で仕入れてきた話題だ。一番はゴッドマンとか東映スパイダーマンの話だ。ハヌマーンがどうしたとか、ウルトラファイトみたいな円谷の話題を持ち出す人もいる。
次によく見るのが昭和ライダーの話で、ライスピかS.I.C.から入った人も見る。これはけっこういい歳をした大人も話題にのってくる。普通の勤め人が「ライダーの必殺技はキックしか認めない」「悪のライダーなんて論外」とか熱弁したりして、昭和ライダーの素晴らしさが広く一般に普及しているというのがあれを見るとよく分かる。
それからたまにゴジラの復活を望んだり牙狼などの深夜作品を例に出して本来特撮は大人のものだと語ったり、あるいは宇宙船のバックナンバーを読んで知ったマイナー特撮の知識を持ち出す人を見かけるのだけれど、平成ライダーの話をする人というのはほとんど見かけなくなった。
かく言うぼくは、昔は本当に仮面ライダーを見た。特に学生の頃は、朝から晩までライダー漬けだった。
その頃のぼくは、ほぼ毎日、もう何百回も見たお気に入りのシーンをコマ送りで再生して、大野剣友会の殺陣をコピーするのが習慣となっていた。当時、ぼくはサークルの先輩と一緒に暮らしていたのだけれど、彼はどちらかと言えばライダーや戦隊に否定的で、崇高な特撮ファンがジャリ番ばっかりを見るのは、みっともないと言って眉をひそめた。そうしてぼくには、この時代はまだロクにビデオもリリースされてないからぎりぎり許されるけど、大人になってまでまさか「日蓮と蒙古大襲来」や「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」を見ないようなことはないよね?と、遠回しに釘を刺してくるようなところもあったりした。
しかしその頃のぼくは、次世代メディアが普及して特撮オタクの純粋な知識量が重宝されない時代になったらどうなるかなどというのはちっとも考えたりしなかったので、そんなふうに言われても、何かを思ったり考えたりすることはなかった。
それから長い歳月が過ぎて、東映はいつの間にか電王を三度も映画化していたのだが、気がついてみると、全くと言っていいほどライダーを見なくなっていたのである。つまり、先輩が望むような特撮オタに、一応はなれたわけだ。
ところで、ぼくがライダーを見ない理由は一つしかなくて、それは面白くないからである。ぼくは今、本当に見たい思える特撮ヒーローというのがほとんどなくて、最近の大人の鑑賞に堪えうる特撮ヒーローは「仮面ライダー響鬼」と「ウルトラマンネクサス」と「特捜戦隊デカレンジャー」だけだ。評論同人誌を作るなんて本当になくなった。だから、ネットや飲み屋で仮面ライダーディケイドのネタバレ画像を面白そうに語るオタを見かけると、「最近の特撮ファンは……」とは思わないけれども、面白さの感性みたいなものは疑ってしまうのである。「どうしてあんなくだらないジャリ番に、貴重な時間を使えるのだろう?」と。
面白さなんて人それぞれという考え方もあるけれども、スーパーヒーロータイムの視聴率は本当に落ちているらしいから、単純に「人それぞれ」で済まされる問題でもないと思う。どうひいき目に見たって、やっぱり今の平成ライダーは面白くなく、だから見る人が減ってるのだろうし、ぼくも見なくなったのだろう。
そういう意味で、いまだに平成ライダーを見ている人とか、そんなものを作るのに人生を賭けている人に対しては、「いい歳をして」という意味ではないのだが、面白さに鈍感な人だなあという意味では、やっぱり「みっともない」と思ってしまうところはあるのである。本当に便利なテンプレートだと思う。