はてなキーワード: イスラム教徒とは
『創世記』(そうせいき、ヘブライ語:בראשית、ギリシア語:Γένεσις、英: Genesis)は、古代ヘブライ語によって記された、ユダヤ教、キリスト教の聖典で、イスラム教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書であり、正典の一つである。写本が現存しており、モーセが著述したとされている。いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている。
9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。
9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
日本ではあまり知られていないことだが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は聖典を共有している。最も古いのが紀元前1300年頃から形を取り始めたユダヤ教で、そこから分派した新興宗教としてキリスト教が西暦0年前後に成立している。イスラム教は少し下ってやはりユダヤ教徒の勢力圏で610年頃に成立している。よく「一神教」「多神教」とぼかして言うが、「ユダヤ系」「それ以外」とも言える。
イスラム教においては創始者ムハンマドの預言が絶対、預言を正確に記したコーランの記述が絶対、信徒は肉についてイスラム教徒の指定する処理を施したものしか食べない、といったことはよく知られているが、彼らは『創世記』を含む旧約聖書も「異教徒の不正確な複写を含んではいるが、われらの神からの預言であることは事実である」というような立場をとる。上の引用はその『創世記』9章による。これは「ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が概ね一致して『定義であり正しい』として受諾している文章」なのだ。「生殖は正しい」「獣・鳥・魚は異なるものである」「獣・鳥・魚は人間に与えられた所有物である」「『青草』は『動いている命あるもの』ではない」といったところは(それぞれの宗派において個別に解釈・明確化されているであろうことはさておき)否定されざるものなのだ。
狂信的ヴィーガニズムのドグマは要約すればGenesis 9:1を達成する目的において9:2を根拠に9:3を辞退する、というものだ。彼らの議論は9:3を権利と捉えるか規範と捉えるかとか、そんな辺りであろう。その主張に対して「生殖が正しいとは決まっていない」「人間には農業をする権利などない」「野菜や草やプランクトンにも牛や豚と同じ命がある」と根本から9章丸ごと吹き飛ばす批判を返しても、「すべての宗教が数千年に渡って同意してきた前提に対する批判であり、到底承服もできないどころか、議論する下地すら作れない。笑い飛ばす以外に対処法がない」という対応しか得られないのである。それが正しいか正しくないかではなく、彼らは「俺は旧約聖書信じてないよ」という発言には対応ができないのである。
そしてここは日本であった! ヴィーガンは対応ができず成すすべもなく文の壁を立て(彼らの言語には"wall of text"という表現がある)嘆くのみなのであった。旧約聖書先生の次回作にご期待下さい(完)
数年前のタイ、僕が国際営業マンの仕事でサーフィンをしているとき彼はそこにいた。
一見すると彼はロシアの片隅の汚い路地に屯してる不良としか思えない風貌をしている。なぜなら胸から腹にかけてどでかいタトゥをいれているのだ。
女性が一人でしている光景を思い浮かべてほしい。今、特殊な性癖の方はタコを思い浮かべるかもしれないがそこは抑えて世間一般で見られる自慰シーンを思い浮かべる。アレが彫られているのである。
そのタトゥはあまりにもリアルで、興奮した。しかし疑問が湧き上がる「なぜそんなタトゥーを?」
僕は彼に話しかけた。なかなか話の合うやつで瞬時に仲良くなった。セルフフェラよりちょろい。
彼は僕の4歳年下で、フィリピンでバナナ農場を数十箇所所有しているという大富豪だった。
イスラム教徒がタトゥを刻むことは禁止されているはず、と僕の脳は僕に知識をひけらかしてきた。
だが経験上、他人の宗教観を探るのはコミュニケーションとして破綻する場合が多い。それぐらい宗教の話はセンシティブでディープモイストローションな内容なのである。僕はタトゥについて言及しなかった。
その後はすっかり意気投合し彼の別荘に潜り込んだ。彼と3日3晩、ベッドやシャワーすら共にする中でさらに僕たちの仲は深まった。
彼は普通に豚肉も食べてるし1日何回かしらないが崇拝とかもしてないし酒は飲むはタバコは禁煙中だが吸っていたらしいし、本当にこいつイスラム教徒なのか?という疑問が出てきた。
そのうち彼が「○○の国に住むよ」と言い出した。おお、いいんじゃね?と思ってたら帰国するときに本当についてきて本当に日本に移住してきた。
これには驚いた。お前、僕と合う前は日本のことなんてスシしか知らなかったじゃん……とも思ったが、こっちでの生活はなかなか楽しいようで何よりだ。
ちなみに未だにタトゥの件は聞けていない。だれか推測してくれないか?
イスラム教徒でさえ正しさを競うなんて言わないぞ
本当、どうかしてる
どちらかと言うとこの思考は銃撃班が普通のイスラム教徒をISと重ねて攻撃性を向けてるのと全く一緒だ
俺の考えは正義だと勘違いして同じようなことをするキチガイが現れる
そういう土壌をここで作ってる
本当に怖い
← おう、言ってみたぞ!
イギリスに住んでた時には、いろんな国から来た知り合いが出来てなあ。クリスマス頃にはそういう話もしたもんだよ。サウジアラビア、イエメン、インドネシア、オーストラリア、など。
懐かしいぜ!
12月25日は、そもそもイエス・キリストの誕生日でもなければキリスト教の祝日でもなく、冬至の祭の日だったのを、後からキリスト教会が聖誕記念日として使うことにしたんじゃなかったっけ?
つまり、もともと冬至の祝いの日だったので、Happy Hollidays は原点回帰とも言える。(このシーズンに休みが来るのは元々キリスト教圏に限ったことでも無いので)
それをイスラム教徒や南半球の人の前で言ってみれば? というかクリスマスを冬至とはずれた時期に祝ってる人たちもいるんだけど。そういう人たちへの配慮は必要ないの?
「非キリスト教徒は何とも思ってない」なんて一言も言ってないけど?
私は非キリスト教徒の日本人として、A.D.やB.C.が世界標準になってるのは、仕方ないと思いつつもモヤモヤしたものを感じる。
でも、それをC.E.に書き換えられた方が腹立つわ。お前たちの暦法はコモンじゃないって言ってるようなもんでしょ。
元号だけの話じゃないよ。世界中には他にも暦法があって、なかには複数の国・地域で使われてるものもある。それをコモンじゃないと呼ぶ方が失礼でしょ。
A.D.からC.E.に変えたことで一番「スッキリする」のは結局西洋のキリスト教徒でしょって話をしてるわけ。自分たちがキリスト暦を押し付けているというモヤモヤから解放される。
でもなんでそれだけのために私たちの、あるいはイスラム教徒たちの、もしくは東南アジアの仏教徒たちの、ひょっとすると世界の他の人たちの暦法がコモンじゃないって扱いを受けないといけないの?
キリスト暦は堂々とキリスト暦を名乗り続けるべきだ。西洋あるいは他の地域の非キリスト教徒の観点からみて問題があるというなら、まったく新しい暦を新しく作るべきだ。
ハッピーホリデーも同じ。そもそもキリスト教の祝日が国家の休日になっている時点でそれはキリスト教と国家が深く結びついていることを意味している。ハッピーホリデーと呼んで取り繕ってはその構造が見えにくくなってしまう。
実質キリスト暦のままで名前だけコモン暦にされるより、あるいは実質キリスト教徒の祝日が優遇されてるのに白々しい顔で「みんなの祝日だよ!」とか言われるより、それはキリスト教の暦であり祝日なのだと常に意識し続ける方が全然マシだ。
キリスト教中心主義者ならそれを誇ればいいし、暦や祝日は宗教から中立的なものであるべきだと信じるならまったく新しい暦を作ったり12月25日を祝日から外したりすればいい。