はてなキーワード: 洋画とは
アニメに限らずヲタクコンテンツの映像化に関して常々思う事なんですけど、ヲタクは基本的に小説や漫画、或いはゲームを映像化する際に原作に忠実である事を求め評価の軸にする傾向があるんですね。
でも、実際映像と文章では求められるリズムというかテンポが違う訳で、例えば漫画の小さな一コマ、読む際には一瞬目をやるだけで飛ばすシーンを映像にすると数十秒かかるというのはザラにあります。ヒットした洋画の多くは原作小説に忠実でないなんて事もよく言われますね。
そういった事実を無視して原作の展開を無理に映像に落とし込もうとするとどうしてもテンポが悪くなるし映像の出来が原作を上回る事は夢のまた夢となるのです。けれども、映像化する側は原作ファン()からの批判を恐れて大胆に原作から離れた映像を作ることは出来ない。そういった観点で言えばヤマカンが言う所のヲタクがアニメをダメにしたという言葉もあながち間違いでは無いと思うのです。
※本人より聞いたまま書いたため何処まで正確な事柄なのか不明。
(祖父、当時83歳)
映画は昭和14年の10月ごろから観はじめた。当時14歳で静岡県浜松市の卸問屋で丁稚として働き、主にそこの配達仕事をしていた。その仕事にある程度の余裕ができてきたので、暇なときに映画を観に行けるようになった。映画館で映画を観たのは海兵に志願する前の18歳頃までだった。行っていた映画館は何軒かあって、機場町か塩町にあった「浜松アズマ座」、連尺町の「松竹館」、「浜宝映画」に主によく行っていた。その中でもアメリカの映画などの洋画は、「浜松アズマ座」でのみ見ることができた。映画会社の協定か何かで決まっていたらしいね。映画館には、フィルムの新しい、最新映画を見せる封切り館と、何ヶ月かまたは何年か前の映画を見せるところと二種類あったが、「アズマ座」は封切り館ではなかったので、たまにエノケン(榎本健一)の、まげもの(コメディー映画らしいです)を最新作として上映していたほかは、何ヶ月か、または何年か前の古い映画の、特に洋画を流していたよ。当時映画は2本立てが普通で、それに加えて短いニュース映画がついていた。(ニュース映画は、戦時中だったためかなりプロパガンダ色のつよい内容だったようです。)邦画は邦画と邦画の2本だったけど、洋画を見るときは邦画と洋画一本ずつがセットでの2本立てだった。洋画の方が邦画に比べて長かったからじゃないかな、だいたい洋画が1時間半くらいで、それに短めの邦画が一緒にやっていた。
洋画を見に来ていたのは、若者が多かった。英語を習っている学生なんかも多かったよ、映画は字幕だったから。自分も観ているうちに「カモーン」などといくらか覚えた。昭和12年頃はトーキー(声が入っている映画)と無声映画に弁師がいたのと半々だったけど、自分が映画を見はじめた頃にはもう大体今みたいな映画だった。あと、洋画は、高校生以下は保護者同伴でないと観に入ってはいけないという決まりがあった。自分は学校に行ってなかったから関係なく観ていたけども。
――どんな映画を観た?
初めて観たのは「ターザン」。20世紀フォックスだったかの、ハリウッドものの映画だったよ。主演のターザン役が何回も変わっていて、ターザンのシリーズは4本くらい観たことがある。バスター・クラブがやっていたのは覚えている。(バスター・クラブが主演を演じたのは「蛮勇タルザン」(1933) Tarzan the Fearless )ターザン役をやっていた奴は皆、オリンピックとかでメダルを取った選手だったみたいだよ。でも、「ターザン」を観た、と言ったら「そんなもの観るなんてガキだ」と奉公先の年上の人たちに馬鹿にされた。その次に覚えているのは、「ジェロニモ」。昭和15年に観た。タイロンパウアーが出ていた。(タイロン・パワーのことだと思います。しかしタイロン・パワーは「ジェロニモ」に出ていないようなので人違いでしょう。)アメリカのマフィアやなんかのギャング映画はあんまり受けてなかったなぁ。よくわからなかった。見た中で一番印象に残っているのは「再会」(1944制作。原題TOGETHER AGAIN。日本公開は1947年。このため、祖父が実際にこの映画を観たのは戦後であるのかもしれない。) シャルル・ボアイと、女の方がアイリン・ダンがやっていた。記憶喪失した女性が何年かして再び記憶を取り戻す話だった。
――その後は観る機会はなかったのですか?
19歳から兵隊として海軍へ行っていたので観られなかった。横須賀の竹山海兵団に3か月、そこで試験の成績がよかったので、飛行機整備学校へいって飛行機の整備についての勉強をしたよ。戦争も終わりの方だったから、整備学校では4か月ですべての事を勉強させられた。そして海軍で整備士として働いていたのだけど、そこで娯楽として洋画が観られた。教育期間中や、新兵にはみせなかった。「進め竜騎兵」(1936年制作)「ドナウ川のさざなみ」(詳細不明)「青きドナウ」(1963年公開のためこれも記憶違いか?)などを観た。あまり色んな種類がなかったらしく、同じ映画を何度も観せられた。
――なんで軍隊の中で観ることができたの?
敵の情報を知るため、というのが名目だった。でも、軍でみているということは他言してはいけないといわれていた。アメリカの映画を娯楽として観ることができたのは海軍だけだったみたいだ。映画のフィルムは、映画館から取り上げたものを上映していたらしい。映画を見るときは夕食を30分早くやって6時以降に観た。右舷、左舷と二つのグループに分かれていて、交替で観ていた。その頃は就寝が8時、飛行機の整備のためにパイロットの連中よりも1時間早く朝2時に起こされ飛行機の整備をしていた。
――戦争が終わった後は観に行った?
戦争が終わった後は、映画なんて見ている余裕がなかった。戦後すぐは警察官になっていたので、仕事の見回りで映画館にも観に行ったことはあった。でも昔ほどは興味がなくなり、外でたばこを吸ったりしている時間が多かった。