はてなキーワード: ドラマとは
結構前にゲームショー的なものに参加したことがあって、プレス向け公開日だったから比較的空いてて色々回れたときのこと。
よくわからないアイドルのグラビア写真集を販売しているブースがあって、そこの売り子がよく見たら高橋名人だった。
何年前だか忘れたけど(多分15年くらい前かな)今ほどメディアに露出しているわけではなくて、周りは全然気づいてない様子。
記憶の中の風貌とは違って丸坊主になってるし、でも顔つきは間違いなく高橋名人。
小学生当時、リアルタイムで憧れの人だったからテンション爆上がりしちゃって、「高橋名人ですよね!当時めちゃくちゃ憧れてました!」って話しかけてしまった。
誰も気づかない中で気づいたのだから、きっと喜んでくれるに違いないって、助平心みたいなのもあったかもしれない。
そしたら返ってきたリアクションは思ってたのと全然違って、今で言うものすごい塩だった。
「そうなんだ。ちなみに僕のどこが好きだったわけ?」というまさかの質問返し。
ちょっと気になったものの、こちらは会えた嬉しさでまだハイテンション。
「冒険島(ファミコンゲーム)も好きでしたけどやっぱりコミックですよね!大げさじゃなくて本当に毎日読んでました!」と、当時のことを思い出しながら素直に答える。
すると、高橋名人のリアクションは更に予想外で、「あー、君もその口ね」と言ったきり、そっぽを向いてしまった。
こちらとしては握手でもしてもらえるものかと期待していたのに、全く持って取り付く島もない状態。
一気に意気消沈してしまい「あー、じゃぁ頑張ってください」と言ってその場を去ることしかできなかった。
その後も思い出す度に腹が立って、好きだった相手が一気に嫌いになってしまった。
昔は名人だなんて散々チヤホヤされて、今になって仕事がなくなってアイドル写真集の売り子なんてさせられてれば人間そんなふうになってしまうものか。
その程度に考えて、それ以上考えるのをやめた。
それから何年かして、そんなことも忘れていたであろう頃に「しくじり先生」に高橋名人が出演しているをたまたま見てしまった。
本当は顔も見たくなかったのだけど、今更どんなことをしくじったというのか、それに対する好奇心が勝ってしまい、結局チャンネルを変えることができなかった。
そこで語られていたことは、本来の自分自身と、周囲によって作られていく高橋名人というキャラクターとのギャップによる苦悩で、それが死ぬほどに苦痛だったという話だった。
それで全部が納得がいった。
そりゃそうだ。
俺が好きだったのは完全に作られた高橋名人というキャラクターで、アイドル写真集の売り子をしていた彼ではないのだから。
それなのに、目を輝かせながら「マンガのキャラクターが好きでした!」なんて言われれば、嬉しいわけがない。
何の話かというと、例えばマンガのドラマ化でファンになった人が、そのドラマが原作レイプで改変されまくってたとした場合、原作者に向かって「ドラマでファンになりました!」なんて言ったら、原作者は喜ぶどころかショックを受けても仕方ないよなという話。
それを喜べるくらい厚かましい性格ならまだしも、素直で繊細な人ほど傷ついたり、ファンに申し訳ないと自分を責めたりしてもおかしくないのだと思った。
そう考えると、やっぱり原作改変は悪なのかもしれないよね。
同じ作品のファンなはずなのに、原作、アニメ化、実写化、その他メディア展開で、それぞれファンになった理由が一緒とは限らない。
メディア展開とはそういうものなのだという認識が共有されているべきだし、原作者がそれを嫌だというのなら、どんなに期待値が高くてもやるべきではないのだろう。
高橋名人の一件も、ある意味では本人という原作を無視して、キャラクターによって上書きを強要された原作改変の一つと言えるのではないか。
お陰で自分は昔の彼も、当時の彼も、今の彼も、別に好きでもなんでもない存在になった。
最近の高橋名人を見ていると、すっかり当時の名人キャラクターをむしろ当時より誇張して楽しんでいるようにも見える。
本人の中で折り合いがついているならいいのだけど、当時の彼を知る身としてはどこか心の片隅に不安が残ってしまう。
人は生きていれば多かれ少なかれ周囲の期待によって自分という存在が独り歩きしてしまうことはあるだろうけど、せめて自分自身だけでも、本当の自分を見失わないように気をつけていたい。
でもドラマは大絶賛でしたよね?
将来的に出来るかもしれないけど現時点では出来てないということで。
投資でもするわ。
お前の言う通りの状況があったら、金儲けが目的になってるほうが悪いんだよ。
でもそうじゃない。
「セクシー田中さん」事件について、日本テレビが悪いことは大前提として、よくわからないのは、そもそもの問題である、「原作がドラマで大幅に改変された」ってそんなに苦痛なのかな?っていうこと。
昭和時代の映画も、小説や漫画の原作を「改悪」したひどい映画はたくさんあったと思うけど(三島由紀夫『金閣寺』映画化した『炎上』とか)、それで原作の評価が下がったりはしていない。今は、それらの映画は完全に忘れ去られていて、原作ファンにとっても笑い話になっている。現在でもそういうスタンスをとる作家や漫画家は普通に多くいる。
日本テレビは確かにクズオブクズなんだけど、そもそも原作を改変されてそんなに苦痛なのか、という根本の問題に今ひとつ共感できない自分がいる。
「ダメですよ」は「やっちゃダメですよ」なのか「ダメなドラマであることよ」なのかによって話は違ってくるのだが。
「原作のこころを踏みにじるリメイクや二次創作はダメだ!人が死んでるねんで!」
というところから出発して
「リメイクの一切を禁止しよう」に行くのはさすがにまずかろうという判断により
原作をしっかりリスペクトした「愛のあるリメイク」をすべきなんだという所に半ば自動的に凡愚の群れは行き着くわけだが、そんなのは絵に描いた餅に過ぎないのである。
誰がジャッジするんだ。
出来上がったモノを観て世に出していいかどうか原作者が裁定下すのか。それはむしろ過大な責任を負わせることにしかならない。
自分の作品が換骨奪胎されるのが苦痛なら最初からいかなる二次創作も許可すべきではない。
そもそもドラマ化スタッフは原作者のファンや弟子ではない。原作者の意図を忠実に表現するための下働きではないのだ。そこに上下関係はないしあるべきでもない。
そもそも作品理解において作者が「正解」を持っているわけでもないのだ。
ゴミみたいな解釈は批判されるべきであって禁じられるべきではない。
健全なありようは最終的には読者・視聴者に判断はお任せすることだ。いったんGOサイン出したらクソみたいなドラマ化されてもしかたないし、それを観た観客はおいおいクソみたいなリメイクだなと言えばいい。
原作の真価を知るファンはクソドラマに負けないようにがんばって布教するといい。
「田中さん」原作者はコントロールできないことをコントロールできないのが苦痛で、それがもとのトラブルで亡くなってしまった。気の毒ではあるけど、だからといって「芦原先生のご遺志を実現しよう」「原作を踏みにじるクソみたいなリメイクが作られないように、原作者が二次創作をコントロールできるようにしよう」というのは全く間違っている。
しかしプロデューサーらの会議では「短大は最近の若者にはリアリティがないのでは」「リストラはドラマとして重すぎる」等の意見が出て、結局「父の会社が不景気になり、本当はかわいい制服の私立高校に行きたかったけど、公立高校に行くことにした」という設定に変え、芦原さんに返した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e7ce70273acea7e326b068b846b1aaa8a5d94178?page=2
原作者は鬼介入したうえで、”脚本家の手柄にされるのが納得がいかない”旨の発言があるな(日テレ報告書)
手柄にされるのが気に食わないほどの評判があったってことだから、出来上がりに一定の満足はしていたんだろう
①8~10話のやりとり ②クレジット問題 ③脚本家SNSの問題
日テレと違って、ここの部分に関して雄弁に記載していないところが、小学館の報告書はズルい
恐らく、意図的に端折ってるんだろうけど
で、こっからは邪推なんだが、原作者がすべて介入した8~10話の受けが意外と悪く
くだんの脚本家SNSへの同情とか”それで後半はチグハグだったんですね(意訳)"みたいな意見を耳にしてしまって
自分のこだわりが、チームの作品を汚してしまったって考えから思いつめちゃったんじゃないかなあ
報告書(https://doc.shogakukan.co.jp/20240603a.pdf)のp.24を読んでほしい。
ドラマ版では朱里というキャラクターのエピソードが改変されており、原作では「朱里の父親がリストラに合い、短大に行く」のだが、
みんな金儲けのために(イヤイヤ)働いてるのに、別にコストダウンにも給料アップにも繋がらない無茶な計画変更して仕事増やす奴がいたらイライラするだろうな
うちの職場にもそういう「これやってメリットある?」ってしょーもないこと言って仕事増やす奴がいて毎日腹立ってるけど、ドラマ製作者にとって(場合によっては出版社にとっても)原作者がそういう奴に見えることもあるのかもしれない