はてなキーワード: ジュブナイルとは
https://www.corocoro.jp/episode/3269754496804802560
・小学生の幼さ、残酷さをしっかりと、ただし暗くなりすぎない程度に描写
・「ウソ」をテーマとしながら、その「ウソ」のありかたが毎回のように異なる
・「ウソ」をつくことができる人間讃歌であり、ウソつきな人外とウソが苦手な少女のロマンスでもある
なにより、コロコロコミックという連載誌で、ホビーのタイアップもなしに10年の連載をしていたって事実だけで、おもしろさは保証されているようなもの
そしてなにより、最終回が、ほんとうに、ほんとうに素晴らしいし、最後のオチは完璧な締めといっていいレベル
週刊コロコロでの連載は、中盤の盛り上がるところにきているけれど、ここから読みはじめても間違いなく楽しめる作品なので、漫画好きを自負するならぜひ読んでほしい
そしてまずは、3ヶ月後くらいにくる予定の56話に衝撃を受けてほしいところ
「不死要素をスパイスにした煮え切らないジュブナイル物」っぽい感じで始まっといて、
わずか5話目で原作者の三浦追儺がバックレ、成り行きで作画担当の桜井画門が
ストーリーも受け持つという滅茶苦茶な流れだったのに、
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1709/27/news125.html
なぜかその体制になってからのほうが作劇も考証も精緻に冴え渡り、
不死の亜人との戦闘にタクティクス(ゲーム性といってもいい)の要素が持ち込まれ、
以後この手のヴィランのアーキタイプのひとつとなった名敵役・佐藤を誕生させ、
おまけに連載中に絵まで格段に巧くなってしまったという、
いつか無かったことにされる。
その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。
俺は音楽のことはあまりわからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞の解説をする。
硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である。
その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信と普遍への確信の矛盾、自己憐憫と自己批判、そんな自分を客観的に見ているつもりで、自分の思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である。
アイカツは対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽やテーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠の時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである。
幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚の原体験がここに詰まっている。
紛れもない名歌である。
鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分が自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているからである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき、自分を直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。
ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱なイメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界。ガラスの天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。
今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会に迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。
誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。
鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。
昨日と同じ明日が永遠と繰り返されているような感覚。無限大の過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大の未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠を意味している。
誰かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖からは逃げられない。
硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身が自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。
そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。
現実は容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。
ゆっくりと時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実の自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。
誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分。自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。
こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。
終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。
それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信だけがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール。
「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)
これは凄い同感。視聴者の多くは、予防拘禁問題の歴史(保安処の日本での議論)とか全く知らなそう
午後11:15 · 2022年8月9日·Twitter Web App
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https://twitter.com/kemohure/status/1557007707189972994
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルは、保安処分を行う特殊機関に主人公達が所属している訳ですが、これは先行作であるガンスリとかよりも、倫理的、また法制度的に問題が更に大きい。ガンスリは「テロ組織と戦う」という建前がある訳ですが、予防拘禁(保安処分)は「何もまだしていないものを処分する」ものなので
kemofure
@kemohure
戦後の日本にも予防拘禁(保安処分)を導入しようとする動きは何度もあって、何度も、あまりにも問題が大きいということで反対され未採用の歴史があるんですね。リコリス・リコイルの世界は予防拘禁(保安処分)を行う組織が無罪の人々を処刑している世界を『それが正しい』という形で描いているので危うい
kemofure
@kemohure
「(日本では)刑法上の法効果として保安処分は採用されていない(略)しかし、刑法に保安処分制度を導入しようとする動きは古くからあり、1926年、1961年、1974年にそれぞれ答申された「改正刑法草案」は、保安処分を刑法に盛り込むものであった」ウィキペディア
この辺の話
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイル的な、保安処分(予防拘禁)により、無罪(犯罪を犯していない)の人々を処刑する国家機関が暗躍する物語は、漫画の「iメンター」もそうですが、iメンターの場合はその行為はディストピアとして提示されて、それに内部から抵抗する話な訳です。リコリスは萌えの名の元に従っているので..
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルの架空の日本世界の「保安処分(予防拘禁)により、無罪(犯罪を犯していない)の人々を処刑(もしくはそれに類する処分。薬物と電気による廃人化などの処理)する国家機関が暗躍する世界」っていうのは、ソ連などの旧共産圏諸国が行ってきた歴史があり、完全にディストピアなんですね...
kemofure
@kemohure
あと、リコリス・リコイルで、よく分からないのは、先行作のガンスリと同じくチャイルド・ソルジャーの話な訳ですが、チャイルド・ソルジャーは残虐行為の実施で精神が壊れてゆくので、ガンスリはそれを薬物と担当官のサポートで騙し騙し使っている訳ですが、リコリスはその葛藤が見えないのが...
kemofure
@kemohure
リコリスの組織が保安処分でばんばん無罪の人々を処刑していることは1話から明らかで、処刑人であるチャイルド・ソルジャー達に物凄い精神的負担が掛かっているはずなんだけど、その辺が描かれていないのが、どうしても誤魔化しているように見える。その点で、ガンスリは良くできていたなと改めて評価
kemofure
@kemohure
余談ですが、チャイルド・ソルジャーは精神が壊れてゆくという話では、漫画の「機械仕掛けのジュブナイル」とか良くできていましたね。チャイルド・ソルジャーとして精神が壊れている主人公(シリアル・キラーの性質が強く出ている)が、それでも倫理的に生きられるか、幸せになれるかが題材になっている
kemofure
@kemohure
当たり前なんですけど、リコリス・リコイルみたいなチャイルド・ソルジャー物で重要になってくるのは、残虐行為の実施は、行う側にも精神的打撃であり、特にその影響は子供兵に大きいということなんですよね...。ガンダムでアムロが最初は敵兵を撃てなかったり。リコリスからはこの辺が抜けている
kemofure
@kemohure
また余談ですが、チャイルド・ソルジャーについて描いた小説では、伊藤計劃さんの「The Indifference Engine」がお勧め。伊藤計劃さんは天才だと心底から感じたのはこの小説を読んだ時だったな...。現在は同題で出ているハヤカワ文庫JAの文庫で読めます
kemofure
@kemohure
「機械仕掛けのジュブナイル」とかのテーマ、人々の命を奪う戦闘により、完全にその中毒になってしまった兵士が、その後どう生きればよいのかは、凄く難しい問題ですね。機械仕掛け~は、デクスターの道を選んでいる。映画だと、アメリカン・スナイパーが傑作。リコリスはこの辺描く気なさそう...
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイル、子供兵に保安処分に基づく戦闘行為をやらせる特殊機関が、どう考えても邪悪の権化なんだけど(テロも勿論邪悪だが、それを防ぐ組織もテロリスト以上に邪悪という構図)、その辺を一切加味しない形で話が進むので、作中の倫理的なことや社会的なことがどうしても気になって混乱する..
kemofure
@kemohure
リコリス・リコイルの保安処分は、AIが犯罪発生を予言したから未然に犯罪者になると予想される標的を始末せよという託宣に基づいている訳ですが、これだと、実際には作中で直接は描かれませんが、大量に無辜の人々の命がリコリスに奪われている訳なんですよね。iメンターはまさしくそういう話な訳で...
話題になっていた『ぼくらのよあけ』を読んだが、正直評価に値する作品とは思えず。
作者の「ジュブナイルものを描いてやろう」という意識だけが強すぎて、お約束のアレもコレもやろうとして、結局全て失敗したようにしか見えないんだが。
何よりもまず、過去を舞台にしている訳ではないのにノスタルジー臭がキツすぎて、本来ジュブナイルが目指すべき「未来にときめく少年少女の話」に全くなっていないのだ。
オッサンオバサンが見て「いいなあ」と思う子供像だけを詰め込んだようで気色が悪い。
小学生時代にしがみつく後ろ向きさ、想像力の狭さが剥き出しで、こんなもん子供が見ておもろいんかなと思う。
AI側・主人公側の描写も両方薄く、キャラクターとしての魅力がどこにもないのも致命的。
AIを故郷に返そうとする主人公の個人的動機に同調できず、話に全然ノレない。
主人公の少年はテンプレキャラの域を一切出ておらず、具体的にどういう少年なのか、どこが他の子供と違うのか、何がどう魅力的なのか、
地球外AIを元の惑星に送り返してやるのがストーリーの目的なのに、話の大半でしょうもない小学生のいじめだの何だのをダラダラやってるのも意味不明。主人公関係ないし。
本編自体ははっきり言って何の捻りもない単純すぎる展開なのに、とても整理できているとは思えない。
そもそもジュブナイルものの核には冒険があると思うのだが、両親が揃った保護体制の下、「安全に行われる冒険」にはなにも魅力を感じない。
何なら、「終盤は親がやる事を決めてそれを子供にやらせるだけ」という場面まである始末で(クライマックスですらそんな感じ)、まるで親の命令で自由研究をさせられる子供を見ているようだ。
ここまで「閉じて」「自由を感じない」ジュブナイルは初めて読んだかも知れない。
今年で33歳。実家の片付けをしてたら中高生くらいの頃読んでたラノベを見つけたのでもの凄く浅いコメントをする。
(改行の仕方がわからない)
毎週本屋でわくわくしながら新しいラノベを探して、ブックカバーつけてこそこそ読んでた良い思い出。
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一番よく覚えてる作品。中高時代のバイブルと言っても過言ではない。
自分の青春はイリヤもいなければ水前寺もいない(当たり前か)陰鬱とした生活だったけど、
それでも「こんなぶっとんだ生活がどこかにあるんじゃないか」と思わせてくれるような作品だった。
今でも名前を聞くだけで、子供の頃の夏休みの終わりのような切なさを思い出させてくれる。
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イリヤの人の続編。結局1巻以降続編が出なかった。
本当にやきもきさせられた。
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この作者病んでるなあと思った。数年後に直木賞を受賞した。
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このラインナップの中では比較的無名なんじゃないかと思う。ジュブナイル系ループもの。
「図書館司書」というワードにフェチズムを感じるようになったのはこの作品のせいかもしれない。
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■12月のベロニカ
よくできた作品だなあという思い出が強い。
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■EME
うまいこと深夜アニメ化すれば売れたんじゃないかなーといまだに思う。
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去年から年明けにかけてウルトラジャンプで漫画連載されてて驚いた。
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けっこう好きだった気がするんだけど内容をよく覚えてない。
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何故とってあったんだろう。
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トム・クルーズ主演で映画化するとは当時夢にも思わなかったけど、
それでも「これはすげぇ!」と唸った作品。