自由主義は、政治やその舵取りをする国家と相性が悪いとされている。
何らかの対立が極度に達すると政治的闘争に発展し、それには物理的闘争(暴力)の可能性を内包しているからだ。
そして国家には、その闘争を正当化し、命じることができる交戦権がある。
暴力は、自由による競争や個人の財産を侵害するため、自由主義者としては回避したい。
だから自由主義者は、政治や国家に対して自由の妨げになるようなものは扱わないでほしいと思っている。
また、特定の思想や宗教などに肩入れすると自由にも偏りができるため、それも批判の対象によくしている。
だが、政治的対立から逃れながら社会を維持し続けるなんて無理がないだろうか。
経済的だったり、倫理的だったり、個人的だったり、つまり「政治的ではない何らかの領域」に押し込める。
これで政治的な問題に言及されても、「これはそーいう問題ではなく、こーいう問題だ」というロジックで回避できるわけだ。
はてブのコメントでも、似たようなロジックを使う人はちょくちょく見かけるから、何となく分かる。
ただ物事ってのは往々にして多側面的であるため、都合の悪い指摘を回避するために多用しすぎると詭弁になりやすい。
シュミットとかも「政治的なものを回避するために、結局は闘争に加担していないか」といった様なことを指摘している。
(まあシュミットが嫌っているのは自由主義そのものではなく、政治的闘争に加担していながら政治を否定する姿勢のほうらしいけど)
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