はてなキーワード: アウフヘーベンとは
プププ。まだお前、世界が二元論で語れるという幻想にかられているの?キリスト教がゾロアスター教の始祖『ツァラトゥストラ』が生み出した、アーリマンとアフラ・マズダの二元論はニケーア公会議でアタナシウス派の勝利で4世紀には人類は克服してるの。ドイツ人は本当に不勉強で困る。ニーチェが「神は死んだ」とか嘆く以前に、キリスト教は「精霊」という存在を生み出すことで二項対立を防ぐ方法をあみだし、ドイツ人のいうアウフヘーベンすることができちゃうことを発見したの。アメリカ人は信心深いから聖書を真面目に読んで、真面目に聖書を読めば避けられた問題を「科学する」なんて言わずに、嘘が見破られるの。不勉強の理由に「科学する」なんてものを持ち出すから、エリート(共産主義者)は負けるんだよ。おバカちゃん。
インターネットを覗けば、被差別意識を抱えたオタクの怨嗟の声が可視化されるのは今も昔も変わらない。しかし、今その怨嗟が向けられる対象が「陽キャ」に属する人間像がほとんどであるように見えることを考えると、2000年代のインターネットでは、「サブカル」に対して憎悪を燃やす「オタク」が今より遥かに多く存在していた。当時、アニメや映画の話題において、必ずといっていいほど、どれが「サブカル」でどれが「オタク」かという区別をもとにした戦争がよく起こっていた。しばしば、それらは必要性のハッキリしない、無意味な区別だった。思えば、それらの怨嗟は、90年代以前より「サブカル」が「オタク」をいじめ続けてきた歴史の遺産であったのだろう。では、今そうした「サブカル」への同時代的な怨嗟を耳にすることが少ないのはなぜか。21世紀のカルチャーにおいて、「サブカル」と「オタク」は融合した。それには「サブカル」のファッション性が凋落していったことや、「オタク」が大衆化していったことなど、時代の変化が生み出したさまざまな要因が絡んでいると思われるのだが、なんにせよ、現代では、当時「オタク」と「サブカル」に分けられていた二つは、ほとんどその境界を失ってしまったのだ。ここでは、これが精確には融合だったのか、それともどちらかがもう片方に吸収されたのか、はたまたアウフヘーベンかといったことは問題としないけれども、少なくとも、あえてそれらを二分して、お互いに攻撃し合うものであるという風潮は、ほぼ消え去ってしまったのだ。その空気感を端的に描写しているのが映画『花束みたいな恋をした』である。押井守の存在やガスタンクの映像やらを介して惹かれ合い、文芸や邦楽の趣味で共感し合う麦くんと絹ちゃんは、90年代的な枠組みにあてはめると、明らかに「サブカル」のカップルだ。しかし、彼らは宝石の国やゴールデン・カムイを読む。ブレワイを買う。シン・ゴジラをみる。ままごと(劇団)の舞台さえ観に行くような層が、同時にこうしたものをあたりまえに摂取するというのは、90年代の「サブカル」的な感覚ではありえない。まどマギの放送が2017年だった世界線ならば、二人で一緒に最終回に釘付けになったというエピソードがあっても違和感はないだろう。物語の後半で絹ちゃんは自分の好きなものを大事にしながら生きるために、謎解きゲームを主催するベンチャー企業で働く選択をする。ここで絹ちゃんに対比されるのは、物流企業に勤めることで激務に追われ、カルチャーのある生活から脱落してしまった麦くんである。この麦くんに対比される絹ちゃんやかつての麦くんを、「サブカル」かはたまた「オタク」かに分類することは、ここではもはや意味がないし、その必要も存在しない。文芸も映画も音楽も舞台もマンガもゲームも、派閥意識などなくカルチャーに関わる層が、ここでは描かれているのである。繰り返しになってしまうけれども、二人が生きた2010年代後半には、カルチャーにおいて、それまであった「オタク」と「サブカル」という境界はもはやほとんど消滅して、仮にその区別を認めるとしても、好きに行ったり来たりできるし、そのことになんの咎もないという状況になっていたのである。いま、「サブカル」という言葉にアクチュアルな響きがなく、古臭さを伴うのはこうした事情によるものだ。「当時のサブカル」という表現を40代以上がすることに違和感を覚える層がいるとしたら、現代には「サブカル」という枠組みがあえて存在する必要がないということにその理由があるだろう。つまり、「サブカル」という言葉にはもはや、90年代以前に存在したらしい、そして2000年代にほとんど絶滅した様子である、ある種の人々、例えば、大衆文化を回避するひねくれた心根を持っていたり、その一方で「オタク」を見下していじめるような心性ももっている、というのがピッタリなイメージの、そういったかつての人々に対する意味のみしか残されていないというのが、現在の状況であるのだ。
カウンターカルチャーというのは、wikipediaに対抗文化と書いてある。サブカルの一種であると。
私はカウンターカルチャーの神話という本を読み、カウンターカルチャーを知り、そして否定的である。
特に私が書きたいのは資本主義に取り込まれているカウンターカルチャーである。
私は新人発掘や、素人を応援する行為、またまだ人気の出ていない何かを応援する行為はカウンターカルチャーに近いと思っている。
メインカルチャーに対して、つまり今人気がある何かに対して満足できない物足りない、または自分が最初から関わりたいなどの気持ちがあるときに
カウンターカルチャーには実際のところ、メインカルチャーの腐敗に対抗するとして、正しさのようなものも含まれているが、今回はそれは省いて考える。
今回、なぜこのことを書こうかと思ったかというと、いつか言語化したいと思っていたが、いつまでもはっきりと思い浮かぶものがでなかったので
例えば、うっすらと感じているのは、なぜこんなものが人気になったんだ?と思うものは、
カウンターカルチャーの影響を受けている可能性があると思っている。
しかし注意しなければならないのは、なぜ人気なのかということに対しては、単純に理解する自分の知識不足である可能性や
ヒットする階層が異なる可能性、時期がよかったなど、人気が出たことを単純な理由では説明はできない。
カウンターカルチャーが一部分として占めているだけだけかもしれない。
それは一言で言ってしまえば、対抗先がいなくなると消滅してしまう文化で主体性が無く、継続性もないからである。
文化の発展性から言えば、サブカルチャーがメインカルチャーになるような可能性をつぶしていると私は思っている。
ドイツの哲学でアウフヘーベンという言葉があるが、否定することで発展するというケースが存在するか私は疑問に思っている。
仮にあったとしたらカウンターカルチャーはメインカルチャーが発展するための踏み台である。
残酷ではないだろうか?
私たちはカウンターカルチャーを応援してメインカルチャーへ攻撃する(と人は思っている)
しかし実際のところはカウンターカルチャーがメインカルチャーになりうるとはだれも思っていない。
むしろなったら不幸である。時限爆弾が起動(発火)するのだから。
言いたいことがまとまってきた。
つまりカウンターカルチャーで人を応援するのやめようぜ人類ってことだ。
しかし、こうも言えるかもしれない素人のただの思い付きがメインカルチャーに匹敵するレベルに成長するというのは
本人やその集団にとっては幸せだが、巨視的に考えると私は不満だ。
私がさらに不満なのはサブカルチャーをメインカルチャーの踏み台、または不幸な結末を迎えるために用意することだ。(自覚的なのか無自覚なのか分からないが)
ほとんどの人は自分が応援しているコンテンツがメインカルチャーに匹敵するほど人気が出るなんてことは思わない。
その人たちは問題ない。
例えば、自分の文化に刺激が足りないから、対抗文化を盛り上げようとか!
不幸になることが仕組まれている。
なぜなら私もそうだが、カウンターカルチャーが大好きだからだ。
なろう小説がもっと人気をでて日本の小説文化に影響を及ぼすことを考えると愉悦を感じないだろうか?
アニメ映画だらけになっていることに何とも言えない気持ちにならないだろうか?
努力をする、という行為はそもそも矛盾であって、人間は努力をしないようにできている。更に言えば、人間は努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。
というのは、努力をする、という行為が必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事だからである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義で効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト(努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身のマイナスにしかならないということなのである。
脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力が必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力が必要=期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間の努力は無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。
例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体(努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間の生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為は人間の生存戦略上の矛盾なのである。
とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間が期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間の生存戦略に矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。
繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである。
才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽は期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力は努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。
とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。
俺は凡人である。つまり、努力をしている人間である。期待値の低い試行を繰り返している人間である。
というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄にリソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的な判断能力はとっくの昔に欠落している。
さて、そのような凡人にとって、基本的に努力というものは期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率の努力がある」というテーゼがそれに当たる。
凡人――最も努力の費用対効果(コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というものが存在する。それは事実である。「努力は矛盾である」という原初的命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。
「制限された状態から効率の最大化を求める行為は矛盾ではない」。
これがジンテーゼだ。
努力をしなければいけない人間は、能力に制限と限界(リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力は基本的に効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というものが存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェスの世界における現人類最強の人間はノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間は相対的にチェスの能力に制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり、人間には万民において制限が、限界が、リミットが存在している。
となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいかに効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為が可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為は可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空の重力トレーニングを想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。
そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種の制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空が重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種の重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。
そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるのである。
ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである。重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力の対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力に意味を見出すことができるのである。あるいは、重力そのものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである。
テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。
人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。
誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳からの重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。
例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章の練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。
毎日あいうえお、と書いていると、殆どの人間は次のように思う。「『あいうえお』簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。
そうなったならば、相対的に難しいけれど比較的簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事は簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである。
そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。
才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。
すると矛盾は消える。
はてなは多様性を認めたいと思っている人が多い場所だと勝手に思っていたけど、実際そういうわけじゃないなと思った。
誰かが、特に地位の高い人が、偏見に基づいた発言をするとはてなで袋叩きにされる。
その一方で、はてなでは多様性が認められているとも思えない。男女観、地域観など。だからこそ常にバズってんだ。
一貫しているのは、自分にとって合理的かどうかという視点で物事を見ているところ。
この意見は私にとって合理的だからあなたも私と同じようになれば合理的な生活が送れますよ、と。
そして何かに縛られず自由な選択をしたいと思いがち。縛られることへの反発がすごい。
合理的でないと判断した人の暮らしや考え方については否定する。
縛られている人を嘲笑う。
私がはてなに初めて来た時の印象は「口が悪い人が少ないなあ」と思って、なおかつ寛容なコミュニティだと思っていた。
他に比べると罵詈雑言が少ないのは今も良いポイントだと思っている。それは居心地の良さにつながるけれども、発言内容は極端な考えを持っている人が多く、そこで優劣をつけようとバチバチにやり合っているし、アウフヘーベンがもたらされているとも思えない。
犯罪行為のように明確に善悪がつけられるものはともかく、わりと価値観に優劣をつけたがる人が多いなあと思っている。
自分と違うライフスタイルの人を認めたり、折り合いをつけたりしようという意識は特にない。
同じ考えを布教することで正義になろうとする。みんな同じ方向を向いている方が心地よいと。これははてなに限った事ではないのかもしれないが。
ということで俺は既に高校の時はそれなりの足フェチになってしまっていたのだ。
文系人間だったから国語の古典か好きで、小説・評論とか読んでいるうちに、江戸時代とかに女性の鼻緒を古のイケメンが直すって言う展開があることを知った。
俺はいつも、それは足フェチ絶好のシチュエーションだし、でも女性を助けてもいるわけで、なんというかアウフヘーベンしているなと感じていた。
江戸時代の浮世絵なんか見てると、結構美女が下駄に素足で、足フェチの大先輩たちもこれを見て大いに感激していたのではないかと勝手に想像していた。
クラスの好きな女の子が、お祭りの時に鼻緒が切れてしまい、自分がそれを直して上手い具合に足の甲にキスする夢を見てから、それを想像するだけでオナニーができた。
ネットは既に人口に膾炙していたから、何の気なしに鼻緒の直し方をネットで調べていた。
とくに5円玉を使うやつは、自分でもできそう、と感じて、シチュエーションや相手の女の子(の足)を想像してドキドキしていた。
ほいで、今日はそれが実際に起こった話なんだけど。
ある日の神社の夏のお祭りの時、クラスのKさんの鼻緒が切れているのを見かけた。
俺は祭りに一人で来ていて、友達の集合に遅れてしまっていた。部活動があったんだ。
俺が来たころには田島の家に行ってスマブラしていたようで、俺は置いてけぼりになっていた。
田島の家に行こうとしたところ、クラスで一緒のKさんが灯篭的なところに佇立していた。
俺は素足の入れ食い状態だったので足下ばかりみていたのが幸いした。
Kさんと気付いてすぐに、彼女の鼻緒が切れていることに気が付いた。
「おつ、鼻緒切れた?」
「あー、うん」
Kさんはクラスでも目立たないグループにいて書道部の長身の女性で、自身もそんなに目立つタイプではない。
人の美醜にあれこれ言うつもりはないけど、クラスの派手なグループに属している女の子ではなかった。
「直す?」
「直せるの?」
「ネットで見た」
俺は薄手のハンカチを持っていた(なんでかは聴くまいね)。跪く。
5円玉を財布に探すも、ない。Kさんに聴いて、Kさんからもらう形になる。
にわかに理想のシチュエーションを迎え、いつの間にか俺の心臓は張り詰める。
ややおくれて、ちょっとあれだがあれも張り詰める(仕方ないじゃん高校生なんだから!)。
Kさんの足、大きくて形がきれいで指も長いし形がきれいだし、爪が大きくて奇麗でかっこよくて、また白い肌のきめの細かさや僅かに触れる肌の質感も印象的で忘れられない。
足を通して調整するときの足の蠢きにエロスを思わず感じてしまう。
ちょっと苦心したけど、完成する。
やや緩かったようだけれど歩けそうだとのこと。
少し歩いて、ほどけてしまう。
「ありゃ?」とか言いながらもう一度結び直す。
Kさんも、このやり方でできそうなことを察知して、もう一度足を差し出す。
ちょっときつく縛りなおして、今度こそ完成。
俺はここでミスって、思わず「Kさん、足きれい……!」とこぼしてしまった。
Kさんは鼻で笑うような感じでちょっと拒絶の色を見せつつも「もー、何言ってんの」と優しく答えてくれた。
「ありがとー」
「いえいえ」
「どっか行く予定だった?」
「田島の家」
「あーごめんね」
「いいのいいの」
「じゃあまたね」
そのあとKさんとは特に何もなく、俺は別に人生初めての彼女ができてすぐ別れたりした。
この前の正月、33歳になった我が学年の同窓会で、Kさんと向かい合わせになった。
面長はそのままに、ちょっと大人らしく美しく丸みを帯びた面貌。
お化粧も髪型もすっかり30歳の装いだった。
図書館の司書をしているらしく、会計年度任用職員の話で盛り上がった。
嘱託職員は大変だが、図書館司書はご存じの通り非正規の雇用が大変多くなっている。
話す際の手ぶりや料理を食べお酒を飲む仕草、いつの間にか大人びた挙措を備えており、自分(達)の至った年齢を改めて感ずる。
鼻緒の話になる。
彼女はちょっと酔った調子で「あのころが懐かしいねえ」と言いながら、掘りごたつの下で、かつて鼻緒を結んだ右足で私の足の甲を優しくペタペタ踏んできた。