はてなキーワード: 神は死んだとは
20数年ほど前の高校時代に、修学旅行でニュージーランドへ行くことになった。
インドア派かつ、特に海外にもニュージーランドにも興味のなかった自分だが、事前学習ということで色々資料を調べさせられた。
ラグビーが盛んで、キウイという鳥がおり、フィッシュ&チップスという食べ物があるらしいことが分かった。
修学旅行当日。人生初の飛行機に乗り、人生初の海外へ向けて出発した。
乗り物酔いがひどい体質だったが、幸いトラベルミンが効いてくれた。
ニュージーランドに降り立ち、何かサービスエリアのようなところでホーキーポーキーというアイスを食べたりしながら初日は終了。
翌日はチームでの行動だった。友人同士でチームを組んでいたので気安い旅だった。
博物館を見たり、DVD売り場を併設したスーパーらしきところで「おお、SAMURAI Xだ」「YU-GI-OHもあるぞ」などと言いながら街を散策した。
TRPGなどで使うメタルフィギュア専門店らしきところにも入ったりした。
一旦集合時刻となり、全生徒がOK(大橋巨泉)ショップに集合した。
そこで1~2時間ほどの自由時間のち、ホテルへ移動というスケジュールだったと思う。
その時ふと、街中で見かけたフィッシュ&チップス屋が気になった。徒歩で15分ほどの距離だったので、今なら十分に間に合うだろう。
大橋巨泉グッズを購入する友人達に「ちょっとフィッシュ&チップス行ってくる」と言い残して、出発した。
微妙な記憶を頼りに到着し、写真を指しながら「フィッシュ&チップス プリーズ」とカタコトですらない英語で伝え、無事にゲットした。魚フライとポテトの味だった。
目的も果たしたので大橋巨泉の元へ帰ろうとしたが、自分がどちらの方向から来たのかが分からなくなってしまった。
確かこっちだったはず…と歩き出すが、周りの風景に見覚えがない。そもそも元来た道自体に見覚えがないので、あっているのか間違っているのかすら分からない。
兎に角進んでみるしかないと歩き続けるが、大橋巨泉の巨の字も見えてこない。
集合時刻までに大橋巨泉ショップに帰らなければ、警察などに連絡されて最終的には合流できるだろうが、その時の教師や友人や同級生達にどんな目で見られるか、想像するとゾッとした。
こんなことになるなら、ニュージーランドに来たのだからと惑わされたりせず、自分も友人と大橋巨泉グッズを物色しておけばよかった。
魚フライとポテトなど、スーパーのお惣菜コーナーで買っておけばよかったのだ。
旅のしおり的なものに簡易な地図はあったが、英語も碌に話せないので、道行くニュージーランドの人々に道を聞くこともままならない、絶望的な気分だった。
神は死んだと思った。
しかしその瞬間、目の端に見慣れた言語が見えた。日本語だ。「居酒屋たぬき」と書いてある。
藁にも縋る思いで店内に駆け込み、「すみません!客じゃないんですがいいでしょうか!?」と泣きついた。
幸い店員さんは日本人で、日本語が通じたため、自分が持っていた簡易な地図を見て今がどの辺りか、どちらの方向に行けばよいか、を教えてくださった。
何度も礼をして、教えられた方向に進み続けると、大橋巨泉ショップが見えた。無事に帰ってこれたのだ。集合時刻にも間に合っている。
何食わぬ顔で友人と合流し、「いやー、ちょっと迷っちゃってさー」などと言いながら、その後の日程も無事に過ごすことができた。
知恵袋のtwesgi先生にとってニーチエが書いてることについては悲劇の誕生以外論文ではない。
ということは神は死んだとかいうくだりは悲劇の誕生にはないらしいのであそこらへんのくだりはtwesgi氏に言わせれば哲学ではない、哲学の必須条件を満たしていない、疑似哲学ということになる。
論文らしーものは文献学の論説である悲劇の誕生ぐらいですが、悲劇の誕生は主張がややずれているもののわかりやすいと思います。
あとは酔っぱらいがクダをまいているだけのタワゴトです。タワゴトとしてはオモシロいと思いますが好きずきかと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11272763551
うーん、科学の要件を満たす研究なら大学行ってなくて独学でも頑張ればなんとかなってできそうな気がするが、哲学はその必須条件の部分からもうつかみどころなさすぎて無理な気がしてきた。
アメリカ政教分離してないよね何がGod bless Americaだよ神は死んだお前らも死んでしまえ政教分離どこいったんだよ
それは、生そのものが罪であり、罰だからだ。宗教はそのように説く。
そして、もし神がいるのであれば、人が苦しむことこそが、その御心なのだと。
一方で、天国への導き、あるいは弥勒菩薩による救済。そのような甘い餌をぶら下げて人の心を操る。
しかし、神を信じれば救われる、などという戯言は、所詮は人の弱さから出た願望に過ぎない。
キリストもムハンマドも、皆々、己の心を救うために、神の言葉を借りているにすぎないのだ。
神とは、病質的な精神が生み出した虚像であり、幻想である。宗教という集団的なヒステリーによって、都合良く作り上げられた偶像なのだ。
その欺瞞により、人は「生きなければならない」という強迫観念を植え付けられて、人は生きながらにして地獄へと堕ちていく。
人は常に苦悶し、苦悩し続ける宿命にある。苦しみから逃れようとすればするほど、ますます苦しくなるばかりなのである。
生命とは物理現象である。地球の誕生、生命の誕生、その全ては偶然の出来事だ。そこには必然性など存在しない。
それなのに、生命には神秘性が付きまとう。あたかも、そこに神の意思が存在するかのように錯覚する。
だが、そのようなものは、人間の妄想に過ぎず、何の意味もない。生の苦しみによって歪められた病的な精神の産物でしかない。
生命に意味はない。生命に価値はない。そもそも、意味や価値という概念さえも、本当は存在しない。
人間は、ありとあらゆる現象や存在から、その意味や価値を見出そうとしてきた。
それもまた幻想なのだ。なぜなら、世界は人間のためだけに存在しているわけではないからだ。
世界に意味を与えることができるとしたら、それは神以外にいない。しかし、神は死んだ。誰も、その存在を確かめることはできない。
神も、意味も、価値もない。ただ、確率的に発生する物理現象がそこにあるのみである。それが世界の真理なのだ。
つまり、世界は人間のために存在するのではなく、人間が世界を存続させているのでもない。
すべては偶然によって成立している。
宇宙誕生の謎を解き明かしてもなお、この現実から逃れることはできない。
脳の誤作動によって生じる錯覚、幻覚。それを奇跡と呼ぶのなら、確かに奇跡はあるかもしれない。
しかし、それは科学によって解明された現象だ。決して、神の御業などではない。
この世に存在するすべての事象は、確率的に生まれるものであり、偶然の結果である。
その法則に逆らうことは誰にもできない。たとえば、人はなぜ死ぬのか? なぜ生まれてくるのか? その理由を知る者はいない。知る必要すらない。
コップからこぼれた水が跳ね、床を濡らすのは何故か。それはただ、水が物理法則に従うからにすぎない。水の運動に意味などはない。太陽と地球、そして人間が生まれたのも全く同じことだ。
宇宙にばら撒かれた大量の原子が、偶然に恒星と惑星の姿を取り、その惑星には偶然に有機生命体が誕生した。そこに意味はなく、理由もなく、原因もない。あるのはただ、確率だけである。
神もなければ、悪魔もない。ただ、物理現象があるだけだ。人がこの世を創造したわけでもないし、ましてや、人が生きていることにも何の意味もない。
ただ単に、宇宙が生まれて、そして滅んでいくだけのことに過ぎない。
神も仏もいない。
すべてはただの錯覚だ。全てに意味を見出そうとする病変した精神が生み出す幻影だ。
人は神を信じたがる。それは神への信仰ではなく、自分の心に空いた隙間を埋めるためだ。
キリストもムハンマドも、その実態は妄想に取り憑かれた弱者にすぎない。彼らの言葉に真実はない。
精神に巣食う病的な妄想に取り憑かれた者たちが共有する、集団的な精神異常こそ、宗教と呼ばれるものの正体だ。
人は誰しも、自分が信じたいものを信じる。自分が理解したいことを理解しようとする。そうしなければ、自我を保つことができないからだ。
だが、それでも人は、自分を騙し切れない。必ず矛盾が生じる。人は神の不在や死後の世界など存在しないことを知っていながら、神や死後の世界を信じようとし、精神を歪ませていく。
「自分よりも性的な魅力で勝っている相手に正攻法で寝取られる」とか、「心の隙間につけこまれてやや強引に関係を持つことになったものの、主人公よりも経験豊富な間男の振る舞いにヒロインがほだされてしまう」とか、「クズ男の善良な外面にまんまと騙されてヒロインが食われてしまう」とか、そういうのが好き。
キリスト教は良い。なんと言っても「神がマリアを寝取った」うえに、処女受胎という告知を「わざわざ大天使まで」使って本人は出向かずに、神は「その責任すら取らずに」結婚を継続させて、しかも「ヨセフは自覚した上でイエスを育てた」という NTR を人類は信じている姿は本当に尊い。ニーチェは「神は死んだ」と NTR を嫉妬したのもわかるし、ヒトラーが NTR を再現するために第三帝国を作ろうとしたのも納得だ。そりゃ、ルシファーが堕天したのも NTR が嫌いな人がいるから仕方なし、って思うとキリスト教が好きになるだろ。入信はしないだろうが。