はてなキーワード: 権力とは
日本の反権力は国防の邪魔ばかりして格差に反対しないから悪いって言うけれど、寧ろその逆で、
「国防」に異様に執着して軍備増強さえすれば何とかなると思い込み自公に票を入れ続けてきた愚民どもが格差を推進しているんだと思うが?
立民も社民も共産も、少なくとも明示的には「格差反対」を叫んできたじゃん。でもそもそも票が入らなくて政権を得られないなら政策が実現出来ていない訳で
思ってんだろうな全員じゃないんだろうけど。
3:2:2:3=円満ならネタにしていい:絶対にネタにしてはいけない:話し合って決めろ(子供は権力が弱く親の言いなりになることは考えてない(考えが足りてないことに気づく気なし)):どうでもいい ぐらいの割合かな感覚的に。
今のはてなの駄目なところはこういった時に全体の3割でしかない意見が多数決の勝利者としてさも総意であるかのように錯覚させられる点だと思う。
様々な意見が群雄割拠して対立している状態はまだ結論が出る前なのに、その中で数の優位が見え始めるとそこで結論出ましたねハイ終わりって思わせてしまう。
これはよくない。
実際に口だけなのが笑えるよね
その勇ましい言葉を現実にできる権力も行動力も財力も能力もないんだろう
ネットの限界集落で中韓やアメリカや日本政府やネトウヨやパヨクや企業に偉そうに物申すだけで現実には何ら影響を及ぼせないゴミどもだ
唯一実行力があるはてなユーザーはマジで低能先生くらいか、次点で中核派の青羽玲音(こいつも現実世界で口だけ勇ましいって類いの人間だが、公安にマークされてるだけ並のブクマカよりは影響力がある)
低能先生も京アニ事件みたいにはてな本社を攻撃せずによくわからんネット論客を狙って殺したしょぼくてビビりのカス小物だけどそれでも現実に影響を及ぼしてるだけブクマカよりは行動力があるんだよ
イノベーションの敵が足を引っ張ろうとするやつ?まあそれはそうだろう。だけど外野から足を引っ張るやつは切り捨てるだけだし、切り捨てることはできる。
日本人として生まれたけど日本人って配慮を求めるし外野に甘いから苦しむんだろう。
だけど、もう一つ権力を持っているやつが捻じ曲げるのにはどうしようもない。そして日本人って上の人間が時間と采配をするって意識、マネジメントをするって意識が薄いもの。
ポンポン思いつきで仕事を増やすし、方向も思いつきで変えるし、そのくせ従わなければ叩こうとすることばかり盛ん。外野は切り捨てるが盛り上がった上はどうしようもない。
だいたい盛り上がって暴走しやすいやつこそイノベーションだって言葉が好きなんだよね。
イノベーションなんざなかなかうまくいかないものを方向を考えて検証していってぎりぎりチャンスを掴んで実現するものなんだろう。けどどういうところを狙うかなんてのを意識せずに思いついたらうまくいくんだ!みたいなのと、起業だイノベーションだで日本が救われるって呪術でもうめちゃくちゃだわ。
儒教国家って、上が自分を律して人間関係を勉強して下を労い、下が上に従えば理想的になるって社会。だけど、上の人間が好き放題やればいいって腐りやすい。すでに日本は腐った儒教主義国家になってるよ。韓国や昔の中国を笑えない。
まあどこかできちんとできるかどうかわからない段階に金を出す国にいかないとならないんだろうなぁ。昔の日本は良かったのだろう。だけど、今の日本はもうだめだ。
anond:20220530192850の続きになります。
(はてな社に問題の記事の削除依頼を申請した結果、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をいただきました。対応して下さったはてな社の方々にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。)
私が、町山智浩の後輩男性(以下"X氏"と表記します)の元・妻の女性たち及びX氏に精神的苦痛を与えた記事を書いた当時の、動機や心理を思い返すと、自身のハラスメント体験に重ねて情報を捉えていたのが大きな要因だと思います。
ハラスメント被害そのものの苦しみだけではなく、私の身近にいる人間の中には、私の苦しみに対して理解や共感を示してくれない人、被害回復の手助けをしてくれない人が存在し(もちろん、理解や共感や手助けをしてくれた人も存在しましたが)、そのような心無い人たちの存在は、深い無力感や孤立感を私に与えました。
そうした無力感や孤立感に苦悶していた時、私は町山智浩のインタビュー記事の情報に接しました。今となっては、そのインタビュー記事の中で語られたセクシャルハラスメントの被害も現実のものではなかったと判明していますが、その情報を知った当時は本当の話であるものと私は思っていました。私は、その記事の中のセクシャルハラスメント被害者を、私自身に、被害者を助けようともしないで町山智浩の側に付いている(という誤ったイメージを、町山智浩の虚言によって付与された)X氏を、私の助けになってくれなかった人たちに、それぞれ重ねていました。
加害者の町山智浩に苦しめられるだけではなく、家族・伴侶であるX氏すらも加害者の側に立っていて、セクシャルハラスメント被害者である元・妻の方は、孤立無援で苦しんでいる。そのような(今となっては誤りと判明している)イメージが、私を強く捉えて離さなくなり、居ても立っても居られなくなりました。
ハラスメント被害の経験者である自分には、加害者の町山智浩と、町山の味方となって彼女たちを顧みない(と誤認していた)X氏を批判する義務や権利が有るのだ。抗議の声を上げられない彼女たちのためにも、自分だけは代わって抗議の声を上げるべきだ。たとえ他の人たちが彼女たちを顧みなくても、せめて私は彼女たちの何らかの助けにならなくては。そのような思いを私は抱きました。
言論人である町山智浩が、自発的な意志によって、広く販売される雑誌の誌面に掲載されるインタビュー記事として公開した情報なのだから、それをピックアップして公の場で批判することには十分な道理が有ると考えたことも、私の行動に拍車をかけました。
MeToo運動の我が国へ波及する様子も見て、何かが変わるような、私でも変えられるような気もしました。
しかし、私が町山智浩のインタビュー記事をピックアップして情報を伝播したことは、実際にはX氏の元・妻の女性たちを助けるどころか、却って苦しめる結果にしかなりませんでした。
X氏についても、もし私が冷静になれていれば「本当は、町山智浩のインタビューに抗議などをしたいのに、権力勾配の存在やマインドコントロールなど何らかの理由によって、町山に対する抗議の声を上げることが困難な状態に置かれているのかもしれない」という可能性も考慮して、仮に誤認情報に基づいてX氏に対する批判や非難をするにしても、もう少し抑制の効いた、精神的苦痛を与えたり名誉を傷つけずに済むような書き方が出来たのではないかと思います。しかし実際には、既に明らかになったとおり、私はそれが出来ませんでした。
私は、X氏を悪魔化していたのだと思います。悪魔化することで、あのような筆致で記事を書くことも正当な行動なのだと、私は勝手に思いこんでいました。非常に身勝手で独りよがりな正義感であったと思います。
今でも、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、それ以外にも人間としての尊厳を踏みにじるような行為について、それらを他人が行っているのを認知したならば批判するべきであるし、抗議の声を上げてそれらを止めさせるべきであるという考え自体には私も変わり有りません。しかし、たとえそうするべきであったとしても、やはり冷静さを欠いて感情的になったり、節度を失ってはならないのだと、今さら遅きに失することではありますが、改めて痛感しました。
はてな匿名ダイアリーは、かつて「保育園落ちた、日本死ね」と題する記事によって、日本の社会全体に議論の空気と改善の動きを促したことがあることを、私は知っていました。
ハラスメントの苦しみについて理解や共感を得ようとしたり、抗議の声を上げようとすると、個人情報を知られて二次的被害を受ける可能性を考えて、被害者は躊躇するものです(これは、経験者の方々にならば共感してもらえると思います)。しかし、はてな匿名ダイアリーならば、二次的被害の可能性を回避することと、私のような弱い人間でも抗議の声を上げることの両立が可能かもしれないと考えました。
ここ数ヶ月、日本の実写映画業界の周辺では、監督や俳優によるセクハラ・パワハラ・性的暴力が露見して報道されることが増加しました。明らかに道理がないそれらの事案に対してですら、被害者の人たちに対して「自業自得だ」というような心無い声を浴びせる人たちが少なくありません。あるいは「それらの監督や俳優は、才能の持ち主なのだから、少しばかりの過ちを犯しても寛大な処分で済ませよう」と言う人たちもいました。町山智浩のインタビューや問題発言に対しても「町山さんのことだから」と言って、問題視せずに済ませる人たちが少なくありませんでした。
こういった著名人の立場の強さと非・著名人の立場の弱さの差によって、押し潰されているハラスメント等の被害者は少なくありませんし、弱い人間に対する理解や共感を示さない人たちから二次的被害を受けることもあります。それらに負けずに抗議の声を上げることを弱者でも可能にする、はてな匿名ダイアリーのような場は貴重であると私は考えています。
しかし、私のように身勝手で誤った正義感に基づいた独りよがりな断罪の振る舞いは、はてな匿名ダイアリーの価値を損ないかねないものであり、そのような意味でも私は罪深いことをしたと思います。
思いつくままに筆を進めてきたために論理性に欠ける文章となりましたが、X氏の元・妻の女性たちやX氏に対して私がしたことは、何ら正当化できないことだけは言うまでもありません。たとえ、私がハラスメント被害者であったとしてもです。
こうして書き連ねたことも、結局は自己正当化に過ぎないのかもしれません。まだ私は本当の反省ができていないのだと思います。
いったん筆を置きます。