はてなキーワード: 芥川賞とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/hamamari/n/nbbd358cc6cc4
『彼女は頭が悪いから』ブックトークに参加して見えた「東大」という記号の根深さ|はままり|note
ジャーナリズムや論文はともかく、小説の響く/響かないの感想というのは、読者の感受性に一任されるもの。
リアリティがなくてスッと世界観に没入できない、感情移入が難しいというのは、著者側の能力の問題のように思われる。
それが本件のようにジェンダー、人権、外国人問題のように、小説が道徳の教科書として活用されるようになった瞬間、描写が稚拙でも感情移入できなかった読者の側が悪い、道徳的反省心が足りないってことになるのか。
もはや小説家としての能力も不問とされ、あくまでテーマが全面に押し出されるのか。
それならもはや小説という表現形態と両立させることが無理矢理であって、最初からジャーナリストによる記事や当事者の手記、裁判記録などを使った方が、「誤読」を防ぐ意味でも遥かにマシなのでは?
他人の人生がうまくいっても何の利益もないどころかそもそもお前は足引っ張ってるだけじゃん
そもそも自分の人生もうまくいってないのによくやるなお前 まず自分からなんとかしろよ
「水は低きに流れる」とはよくいったものだが、どのレスもまさにその通りって感じ。
この日本の中で、人の善意とか他者の利益についての考え方がいかに精神的に貧しい方向に固定化画一化「させられてしまった」かを単純かつ明確に物語っている。
今の日本が諸外国からどんどん追い抜かれて経済的にも精神的にもますます貧しい方向に突き進んでいる根本の原因は、まさにこういう風潮だよ。
幸せとは人から奪い取るものではなく分かち合うものだ、なんて今の日本で真顔で言ったら鼻で笑われるだろ?
こういう社会の病理を誰もがわかるように描き出し、世の中の流れを変えるきっかけになれるような小説が生まれれば、芥川賞受賞間違いなしだよ。
http://www.shopro.co.jp/koza/#43807
日本中を揺るがせた「2020オリンピックエンブレム盗作疑惑」から「芥川賞候補盗作論争」「映画『カメラを止めるな!』原作騒動」etc...、今やメディアやネットで大小の「パクリ」論争を見かけない日はない程です。
「なんか似ている」、「どこかで聴いたことがある」、「〇〇の話に似てる」、「これは●●の盗作だ!」……。
もちろん「パクリ過ぎ」はいけません。しかし、我々の文化は模倣や参照で発展して来たこともまた事実。そもそも類似点が多ければ著作権侵害と言っていいのか? どれだけ似ていれば侵害になるのか? モラルとルールの境目は?
おれも恥ずかしながら、小説家になりたいと思っていたことが一時期ありましたがやめました。実際に書いてみて書き続けて他の人の批評を受けたり、書き溜めたものを後で見てみたりしてるうちに、小説家に「なる」ことなど、なんだかどうでもよくなってきたからです。
小説家になろうがなるまいが小説を書きたいから書く、というのが、書くことに対してより誠実な態度ではないでしょうか?
何を書いたらいいかと言うと、
今おれたちがどういう時代の中でどんな風に生きているか、というのをみんなが共感する方法で、しっかり文章で描き出す、ということではないでしょうか?
過去の芥川賞作品は、大体がそういう基準に沿っているのではないかと思います。
「コンビニ人間」とか。
あの緯度おじさんが作家目指すとかのうわさを聞いたのでコメント。
作家で一発逆転ね…考えが甘いと思う。とても今の生活ではうまくいかないという考えなら別にどうでもいいけどさ、仮に彼がラノベ大賞とか文芸の大賞(文芸春秋とか芥川賞とか直木賞とか)で成功できたとしても、今彼30才近くでなおかつずば抜けたプロフィールもない。
しかも上がたくさんいる。又吉とか桜庭とか。作家としてやれたとしても、このままでは雑魚止まりなんだよ。
30才近くでまだまだ学ぶべき物事がある。勉強も足りない。知名度もそこまである訳ではない。だとしたら、たとえ作家で成功できても雑魚で終わるんだよ。
で、Twitterやアフィリエイトとかだったらまだ可能性があるんだよ。1、2を争うのも夢ではない。それをどうして作家を夢見ているのかわからないけど。
彼が失敗するとは思えないし、地頭が悪いとは思えない。ただ、大物にはなれない。いくらゼニのためだとしても何故可能性のない方を選ぶのか?それが解せない。
5時に夢中という番組で「美しい顔」の盗用問題に対する作者の謝罪コメントについて、作家で伝統文化評論家の岩下尚史氏が次の意見を述べた。「この作者は"想像力の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけない考えた"というが、本当は想像力の力でもって被災地の"真実"を書くのが小説だと思う。事実でなく、いかにもありそうな話(真実の話)に仕立て上げることが大切である。」
また、盗用問題について次の意見を述べている。「文芸作品は必ず前の作品があって書けるものだから、そうやかましく考えなくても良いと思う。オリジナリティというものを非常に神経質に考える世の中になっている。自分一人で1から10まで考え出すことはないのだから表現というのは。私だったら誰かに真似されたら嬉しく思う。」
私はどちらの意見にも賛同する。フィクションは現実世界を作者の心の目を通して主観的に描くものだと思うし、人間の情報処理を仕組みを知ればオリジナリティなど存在しないことがわかる。私は今まで岩下尚史氏を気難しい中年のオカマぐらいにしか思っていなかったが、この人は創作の本質をよく理解していると思う。しかし、「オリジナリティは幻想である」という主張は商売上都合が悪いので、このような意見はコンテンツビジネスで生計を立てている人たちから黙殺されるだろう。
今回の問題についていろんな人がいろんな意見を述べているが、結局は金の話だと思う。誰かが時間をかけて作ったものを利用して金儲けをする人を許せないと思った。ただそれだけの話である。
アメリカだとライトノベルと大体同じ定義の文学をヤングアダルト小説と呼ぶそうで
純文学批判してるラノベオタクをよく見るけど、彼らは自分たちも雑な純文学批判をしてるって気づいてなさそう。彼らは日本の純文学も大して読んでないし(せいぜい100冊とか)、20世紀以降の海外文学も大して読んでなさそう(100冊とか)。芥川賞がどうとか言ってる時点で話のレベルが低いし。言ってることはネットでよく見るテンプレ意見でしかないし、結局自分で読みもせずに誰かが言ってるそれっぽい都合のいい批判に飛び付いてるだけに見える。雑なラノベ批判を批判するラノベオタクも雑な語りが好きなんだよな。すべてのラノベを読み込まない限りラノベ批判をしてはいけないと主張するなら(「そうじゃないラノベもある!」と彼らは言う)、自分たちもすべての純文学を読みもせずに純文学批判するべきではないと思う(そうじゃない純文学もあるとはなぜ考えないのか?)。漱石がどうとか太宰がどうとか綿矢がどうとかレベルが低すぎて呆れてしまう。あ、でも日本の純文学が終わってることについての異議はとくにないです。