2018-12-14

道徳教科書として小説を使うことの限界

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/hamamari/n/nbbd358cc6cc4

彼女頭が悪いから』ブックトークに参加して見えた「東大」という記号根深さ|はままりnote

ジャーナリズム論文はともかく、小説の響く/響かないの感想というのは、読者の感受性に一任されるもの

リアリティがなくてスッと世界観に没入できない、感情移入が難しいというのは、著者側の能力問題のように思われる。

それが本件のようにジェンダー人権外国人問題のように、小説道徳教科書として活用されるようになった瞬間、描写稚拙でも感情移入できなかった読者の側が悪い、道徳反省心が足りないってことになるのか。

もはや小説家としての能力も不問とされ、あくまテーマが全面に押し出されるのか。

それならもはや小説という表現形態と両立させることが無理矢理であって、最初からジャーナリストによる記事当事者の手記、裁判記録などを使った方が、「誤読」を防ぐ意味でも遥かにマシなのでは?

芥川賞宮本輝委員書評問題の時にも、人権テーマとなった瞬間に小説の技巧への批評タブーのようになっていた。

理論整然と訴えるべきテーマ感情に訴える小説形式表現する、そこにそもそも限界があると言わざるを得ない。

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