はてなキーワード: 自由恋愛とは
例えば自由恋愛極まった1980年代の昭和の頃から、恋愛市場は今と全く同じ比率で変わってない(上位3割が常に恋愛し合ってグルグル回っている状態)
じゃあ何でそんな結婚率高かったかっていうと、社会慣行や労働環境の変化であり、そんなもの国一切関係なく民間での話だろう
子供生まれたから転勤させまくって辞められる企業だとか、上は本気で善意のつもりでやってるし、育休取るだけでいじめや退職勧告になるのだって、周りの人間が善意や正義のつもりでやってるわけだし。
昭和の末期の頃までは、20代後半から女遊びを覚えて35~40手前くらいまでに20代前半、ヘタすりゃティーンではあるが、若い女を見繕って結婚ってルートが実は盛んだった。
男からすれば、ブサイクだろうがなんだろうと、金を稼げて出世さえできれば、若い女と結婚できるチャンスが大だったわけで、そこはシンプルに将来設計が取れた。
女からすれば、世間を知ってて金を稼げるスペックのある男を、選んで結婚できることができたので、今よりよっぽどハラハラした人生の不安は感じなかった。つまり双方の間で慣習的なサイクルが確立されていたんだな。
何でこの構造が崩れたかって、どんな時代でさえ相手にもされないようなどうしようもない層が、そんなものがおかしいと叫んだせいだ。結果、お互いが不幸にしかならない、どちらかが不義理で卑劣な真似をすることが一番美味しい目を見れる、囚人のジレンマの様な謎のシステムに現状なってしまっている。
最低限の努力さえしないくせに、誰からも相手されないような奴らが男女平等叫んだ結果どうなったか、それが今だ
昭和がすべてにおいていい時代だったとは言えないがね、3歳年の差離れりゃ犯罪者呼ばわりされたり相当奇異の目で見られる恋愛慣行の現状こそが、滅茶苦茶不健全なんじゃねえのか?
つか子育てを放棄する男はクソじゃなくて自然と考えた方が良いね。
未開の原住民やヒトに近縁のサルを見た感じ、子育てはメスだけの集団が行って、オスは何も手伝わないのがヒトの自然な性質のようだ。
昔は離婚を許さず家父長制で女だけでなく男の人生もガチガチに家に縛り付けて子育ての責任を負わしてたのが、今は自由恋愛で離婚も自由となり、ある意味自然の状態に先祖返りして男がすぐに逃げられるようになった。
んで欧米先進国じゃ父親に責任を負わせるのは無理と受け入れて社会が子育てする方にシフトしたと。
子育てから逃げる男がクソなんじゃなくて、無責任に孕ませて逃げるを繰り返す方が子孫繁栄に有利という遺伝子の命令に逆らって子育てをする男が異常に立派だということだな。
岡村氏の風俗に対する発言が物議を醸している。これは到底擁護出来るものではないという見方が強く、インターネット上でも彼を非難する意見が大勢を占めていると言っていいだろう。
しかし個人的には、彼を非難するだけで良いのだろうか?非難している側にも問題があるのではないだろうか?という疑念が湧いてくるのだ、本稿ではそれをまとめてみたいと思う。
世間は彼の発言を「この先美人な女性が不幸にも風俗に身をやつすことで、金の力を以て性的に搾取出来ると期待している」と解釈しているように思うが、これは正しくないと思う。
このような見方は、単純に言って風俗嬢=弱者 客の男性=強者という力関係を前提としており、その権力構造の中で男性による女性に対する性的搾取が行われている、という世界観に基づくものだろうが、おそらく岡村氏自身及びリスナーにこのような考え方は全く馴染まない。
風俗に行くような男性というのは、まあいろいろな例外はあるにせよ基本的にはモテない男性である。
自由恋愛の中で性的な関係を満足に築けない男性が、お金を払って女性に相手をしてもらう為の場所であり、少なくとも本人の自意識の上で客というのはヒエラルキーの最底辺に属するものと思われる。
つまり岡村氏の視座から見れば、風俗嬢というのは最大限に言っても対等な関係であり「今後極短期間だけ風俗業に従事するかもしれないが、まだ従事することのない美人」については、これは当然雲上の存在である。
そんな雲上人がもしかしたら自分たち下々と同じ地平に一定期間だけでも降りてきてくださるかもしれない、ということを彼は楽しみしているわけで、
世間が思うような上から目線の搾取の希望などはなく、とてもとても下から目線の弱者視点なんだろうと思う。
それがリスナーという一般人の非モテ男性に憑依したことで獲得された態度なのか、自身のもともとの女性に対する屈折が招いたものなのかは定かではないが、
そんな超一流売れっ子芸人とはとても思えない弱者的な眼差しから齎された意見なんだということが誤解されていると感じる。
しかし、仮に上で類推した意図が正しかったとしても、この先美人女性が望まぬ性風俗への就業を余儀なくされるというのは一般的には不幸なことで、そのような不幸を喜ぶ態度は非難されて当然である。
という反論が出てくるだろう。だがこの反論には2つの問題点があると感じる。
まず一つには、女性の望まぬ性風俗への就業を支えているのは、上述したようにまさしく望まぬ禁欲主義(Involuntary Celibate:インセル)的な男性の欲望である。
風俗嬢がいなければ欲求の解消も出来ない男性たちが、性風俗への就業を「本来なくさねばならない不幸」と捉えることが、果たしてどのように可能だろうか?
個人的にはそれは、無理がある話だと思う。
もう一つ、なぜ殊更この先風俗嬢になる人間についてだけが取りざたされるのか?ということである。
望まぬ性風俗への就業というのは、既にしていままでにも幾らでも起こっていることである。だからこの先も非難するな現状追認せよという話ではない。
つまり、望まぬ性風俗への就業自体を問題視するのなら、風俗業自体の解体を唱えなければならないはずだということだ。
仮に岡村氏の発言が「風俗にはほんまお世話になってて、僕風俗なしではやっていかれませんわ」というようなものだった場合、これほど叩かれただろうか?おそらくは全く叩かれていなかったろうと思う。
だが、そのような風俗の肯定はコロナウィルスなどとは無関係に望まぬ性風俗への就業の肯定に他ならず、その点については今般の発言と全く同一の地平にあるはずだ、批判者の中で何が違うのか?
コロナウィルスの被害で性風俗嬢にならざるを得なくなるというのは身近で感情移入可能だが、それ以前にあった貧困や教育機会の喪失による就業は遠い世界の出来事なので切断しているのではなかろうか。
結局そのような世界観は、インセル的な客の男性のことも、現在風俗業に従事している女性のことも切り捨て、善意の第三者として勝手に他者を哀れんでいるような空理空論に思えてならないのだ。
とは言え、彼のラジオ番組は風俗関係者と客だけが聞くようなものではないので、無関係の第三者が聞けばぎょっとして気分を害すものであったのは間違いないところだろう。
ニッポン放送及び本人が謝罪せざるをえなくなるというのは当然の結果ではあると思う。
だが、彼が謝罪することに依って何が起こるだろうか?
謝罪は当然こういった内容になるだろう。
「先般のわたしの発言は女性への配慮に著しく欠けておりました。コロナウィルス被害に依って女性が性風俗業へ従事せざるをえないというのはあってはならない不幸で、そのような不幸を楽しみにするなど言語道断なことでした、ごめんなさい」
しかし実態はどうだろうか?やはりコロナウィルス被害によってそのような職を求める女性というのは増えるだろう。
その事実に対して、上述の謝罪は性風俗への従事=不幸というスティグマ化を強烈に強める効果しか齎さないのではなかろうか。
それは風俗業というものを更に一段下のレイヤーに落として不可視化し、風俗嬢及び客にさらなる弱者意識を醸成させる結果にしかならない。それは控えめに言って地獄であろう。
だからこの騒動を奇貨とするならば、岡村氏の考えなしの発言を非難すればいいなどという無邪気な考えでは駄目で、そもそも社会として性風俗をどう考えるのかを問い直すべきだと私は思う。