はてなキーワード: 江田とは
120 オールトの雲(東京都). 2012/03/21(水) 23:56:06.64 ID:FPukcSzB0
605 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/03/21(水) 23:28:37.70 ID:b9KCqRjR0 [2/2]
菅直人首相(当時)訓示全文(三月十五日未明に東電本店に乗り込んだ際の訓示)
今回の事の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。
政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。
これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機。さらに福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。
これらを放棄した場合、何ヶ月後かにはすべての原発、核廃棄物が崩壊して、放射能を発することになる。
チェルノブイリの二~三倍のものが十基、二十基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
何としても、命懸けでこの状況を押さえこまない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。
そんなことをすれば、外国が「自分たちがやる」と言い出しかねない。皆さんが当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。
情報伝達が遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。
目の前のこととともに、五時間先、十時間先、一日先、一週間先を読み、行動することが大事だ。
金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれないときに、撤退はありえない。
会長、社長も覚悟を決めてくれ。六十歳以上が現地に行けばよい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら東電は必ずつぶれる。
枝野氏(官房長官・当時)によると、清水氏〔清水正孝当時東電社長〕はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話したという。
枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。
菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った。
動画が30分以上もあってとても見切れないから、文字起こししたものを読んだ。以下感想。
今から原発を増設・新設すると言っても、どこの地域も受入れないだろうし。
現在稼動している原発がストレスチェックに引っかかった場合、稼働を停止しても節電だけで必要な電力は確保できるのか。
代替電力が確保できるまでは稼動し続けるべきなのか。この辺を明確にしないと電力不足への不安が解消されない。
エネルギー政策転換というなら、そこまで踏み込んで欲しかった。
当事者間で話がまとまった後で真逆の指示を出すから、ただの思いつきかスタンドプレーにしか見えない。
今まで支持率を落としてきたのは、場当たり的で組織のマネジメントがまともに出来てないのが原因ではないか。
計画策定の頃まで政権が続いているのか、次の政権でまともに引き継がれるのかすら不確定で、実効性のある意思表示にはならないんじゃないか。
そりゃ記者も解散や退陣時期を突っ込まざるをえない。
【総評】
良くも悪くも、いつもの菅さんの演説。せめて不信任案採決より前の時点で言えばよかったのに。
他部署の人間で、1歳年下の後輩。交際3年程だ。
普段、陽子の所属する部署と僕らの部署の人間は直接顔を合わせることはあまりない。
とある大きなプロジェクトのメンバーとしてたまたま僕と陽子がそれぞれ選抜され、2ヶ月間ほど協力しあい問題を解決しているうちに僕らは親しくなった。
僕は同僚に言うのが気恥ずかしくて黙っていたのだ。
自分で言うのもおかしいけど、僕は全然イケメンじゃない。中肉中背・顔もブサイクでもないと思うけど、外見的な特徴としては中の中レベルだと思ってる。オシャレセンスとやらもあまり自慢できない。
一方、陽子はそれなりに目立つ存在なのだ。清楚系美人で、僕と同期の野郎たちにも人気だった。
そんな僕と陽子が付き合ってる事を皆に言うのはちょっと恥ずかしかったのだ。社内のとある人間から猛烈アピールをうけていた陽子は、彼への牽制もこめて皆にオープンにしようと提案してきたのが1年半ほど前。
いまでは周知の事実となっており、ときたま冷やかされるものの、ありがたいことに会社の方々には好意的に受け取って頂いているようだ。
そんな僕と彼女の話。
仕事はそれなりに満足してる。残業も多いけど、この不景気にしては恵まれた職場環境だと感謝したいくらいだ。
仕事はバリバリ良く出来て、面倒見も良くて部下からの信頼も厚い。男の僕から見てもイケメン。
仕事に対しては厳しくて、僕もきついダメだしをしょっちゅうもらうけど、嫌いな人ではない。
既婚者で幼稚園に通うお子さんがいるらしい。以前、自宅に招待して頂いた際に紹介していただいた奥さんも可愛かった。
そんな上司(『桜井』:仮名)から先月、僕の携帯にメールが届いた。
メールを受信したのは深夜のこと。朝、目が覚めてメールを確認した時は意味がわからなかった。
寝ぼけた頭がその瞬間冴えてきて、不安な気持ちに包まれたのを覚えている。
(『夢』って?『キスしたこと』って?陽子と桜井課長がキスしたの?)
(『4L』って、社内のあの場所?)
うちの会社では社員用の個室がいくつか用意されていて、空室ならば申請などせずに自由に使える。
1人用の部屋もあれば、10人くらい入れる部屋もあって、一人で集中したい時に予備校の自習室のような使い方をしたり、社員同士のちょっとした打ち合わせに使用している。
『4L』ってのはその部屋の名称の一つ。
もちろん「送り先間違ってませんか?」なんて返信もできず、混乱した頭のまま会社へ。
「今日どんな顔して桜井課長と会えばいいんだよ」と思いつつも、上司がいつも通り接してきたので不思議と僕も動揺を見せることなく仕事を終えた。
仕事終わってから陽子と外食。当然、メールのことは気になってたけど、誤解かもしれないと思って触れられない。
おそらく陽子に送るメールを僕に誤って送ってしまったのだろう。
これも仮名だけど、
ってな感じで、僕らは苗字が似てるんだ。一文字目の漢字が一緒。おそらく携帯のアドレス帳では上下に並んでるんだと思う。
気にはなるけど、陽子には聞いちゃいけない質問だと思った。そして聞く勇気もなかった。
もちろん彼女を信じたいし、誤解だと思いたいので、「これは『江田さん』という同じ名字の別人だ」とか考えるけど、『4L』なんて単語が出てる以上そんな楽観的な考えもできずに出てくるのは悪い想像ばっかり。
高校生でもあるまいし、もし本当だとしてもキスくらいなら許してやれといわれた。
そういうもんなのだろう。
信頼してるなら彼女に直接聞いてみればいい、とも言われたけど、僕はもし真実だった時のことを考えると怖かった。
10日間ほど進展もなく過ぎていった。
週末は陽子とデートした。二人でいる時はメールのことなんか意識することもなく楽しかった。
平日は悶々としたまま普通に仕事をした。それほど仕事量の多かった週ではないのに何故か毎日疲れた。
このまま、事はウヤムヤでもいいやと思っていた。
金曜の夜、少しだけ残業した。フロアには桜井課長と僕ともう一人同僚が残っていた。
帰り際、桜井課長が僕らをご飯に誘った。同僚は予定があるようで丁寧にお断りしてた。
狙うこともなく課長と僕は二人でご飯を食べに行くことになった。
部署の人間と昼食を一緒にとることはよくある。課長と昼食を二人きりで食べに行くこともしばしば。しかし夕食を二人で食べたのは過去数えられるほどしかない。
最初は仕事の会話だったけど、お酒が入ってからはお互いくだらない雑談だった。その日は一つ仕事をやりきった達成感もあって、楽しい時間だった。例のメールの件は聞く気もなかった。
僕はアルコールにそれほど強いわけではない。程良く酔っ払ってきた。ほろ酔いの気持ちいい気分の中で自然と口から言葉が出てた。
「かちょー、ちょっと前に僕にまちがってメールおくってきましたよねー。江田さんとキスしたんですかー?」
酔ってなければ絶対に面と向かって言えないことだった。
さっきまで笑ってた課長が真顔になってた。
僕もそんな課長の顔を見て、酔いが醒めた。血の気が引いた。
「ちょっとトイレ行ってくるから待っててくれ」課長が一言つぶやいて席をたった。
・僕が陽子と付き合ってるのを知りながら、卑怯なことをして申し訳ない。
・無理やりキスしたわけではないが、僕のリードでキスをしてしまった。江田さんは悪くない。
僕は黙って話を聞いていた。
謝罪と説明が終わってから「彼女へは僕から直接話をしたいので今日のことは伝えないで欲しい」と言った。
課長のことは許すことができませんが正直に話してくれたことには感謝します、僕はこのことはこの場をもって忘れようと思うので、仕事は今まで通りの関係でお願いしますと伝えた。
課長は謝罪の言葉を繰り返し、頭を下げたままだった。こうして途中まで楽しかった夕食は終わった。
許してしまう雰囲気だったのか?罵倒して殴ればよかったのかもしれないけど、僕はなぜかカッコ付けた。
もっともカッコ悪いのは僕だった。
・打合せしているうちに変な雰囲気になって、ついキスされてしまった。
・拒絶するべきだったのに、なぜか断らなかった。本当にごめんなさい。
・桜井さんとはそれきりで、社内でもふたりきりにはなってない。
・僕には申し訳なくて言えなかった。
・愛してるのは僕だけだ。
僕は陽子に別れを伝えた。
陽子は涙ながらに謝罪し、許してもらえるまで待たせてほしいと言った。
僕は待ってても無駄かもしれないと伝えた。
うまく整理できなんだけど、
話をしてくれなかった彼女への怒り > 不甲斐ない自分への怒り > 彼女にキスをした上司への怒り
ってな順番なんだと思う。
彼女が僕に伝えなかったのは、僕に対する優しさなのかもしれない。
黙っていたほうがいいこともある。心配させたくないという心遣いかもしれない。
分かっているけど、僕はそれを素直に受け入れるほど心が広くなかった。
僕は子供なんだと思う。
課長から僕へのダメ出しは少しだけ減ったような気もするが、事件前と関係は大して変わっていない。
彼女とは社内で普通に挨拶くらいはするけど、プライベートで会うことはなくなった。
「本当にごめんなさい。もう一度お話をしていただけますか?元の関係にはもどることができないと思いますが、もう一度チャンスを下さい」
僕はすぐ返信した。
「ごめんなさい」
ここに書いたのは文章にすることで心の整理をつけられるかと思ったから。
そして、今回の最大の収穫は自分の心の狭さがよくわかったこと。
メールの送信先には気をつけてください。
皆さんはこれくらいなら許してあげられるよね?
チャンスを与えてあげられるよね?
民主・枝野幹事長、みんなの党との連携に意欲
菅新政権
民主党の枝野幹事長は27日夕、都内で記者団に、参院選後のみんなの党との連携について「行政改革などかなりの部分、一致している。政策的判断としては一緒にやっていただけると思う」と意欲を示した。
27日のNHK番組でも「(衆院の比例定数80削減を)早期に実現したい。みんなの党にも協力いただければ」と述べた。
一方、みんなの党の江田幹事長は記者団に「公務員制度改革や国会議員の定数削減の各党協議をやるならいいが、それなしでは本気度があると言えない」と述べ、民主党との単独協議に慎重な姿勢を示した。
「カチンの森事件の追悼行事列席の途上で死んだ」ということに「政治的意味」がある。
悪天候を推してでも着陸を強行しようとした、というのは、
「カチンの森追悼行事を通して、ロシアへの抗議の意思を明確にしたい」という
ポーランド人パイロットのロシアへの意思表示の表れではなかったか?
なので、この国葬に対して、
「火山灰という悪条件の中、いかにしてポーランドまで辿りつくための方策を巡らせるか」
ということ自体が、
仮にイスタンブール辺りまで空路で入り、そこから大渋滞の中を必至に
「ポーランドに対する弔意の表れ」であり、と同時に
なので、ロシアの帝国主義化に懸念を抱く国、それこそグルジアの政府首脳などは、
「死んででもポーランドへ辿りつこう」とするだろう。
「命懸けでポーランドへ入国すること、そのこと自体がロシアに対する政治的メッセージ」
なのである。
さて、この国葬に対して、日本では「江田参院議長」という「格下」しか参加しないとか、
それすらも「火山灰で空路が×だからあきらめた」ことに対して、2ちゃんねるで批判の意見が相次いでいる。
しかし、これは「私見」だが、「格下しか寄越さない」とか「火山灰であきらめる」という決定それ自体が、
「ポーランド国葬には要人は参列しません、つまりロシアに歯向かう気はありません、
(だから北方領土何とかしてください、北朝鮮問題でも協力してください)」という
「ロシアへの友好のシグナル」なんじゃないか?
・・・と手嶋龍一的に「インテリジェンス的国際政治解釈」をしたいところだが、
実際にはもっと低次元な理由なのか?
2010参議院議員選挙について、私は具体的に
が現与党の最低ラインだと思ってます。
一人区は98橋本参院での自民の勝率67%を今の一人区数(29)に当てはめたもの。複数区は全18区で1議席のみしか獲得できなかったと仮定。比例は民主が総得票数第2党になった場合を想定しています(07自民なみ)。現体制(民社国連立)維持も前提なので社民か国新どちらかで1議席獲得するだろう分も加えてます。何れもこれが最低値で、これにプラスαはあってもこれを下回る事は「支持率一桁に下落か野党共闘による大連合でも起きないとないだろう」という考えです。
ちなみにこの52議席は現在の非改選分の与党系勢力(民国66+社2+無2)と合わせて122となり、江田議長の分を抜いても参院過半数となる数です。また、公明は非改選を10持っており、改選でも比例で5は確実だと思われますので、改選非改選合わせても10に届きそうもない社国ととりかえも可能でしょう。みんなの党は15獲れれば連立候補に浮上できると思いますが、おそらくそれ以下になって、選挙後の出番もなくむしろ解党の可能性すらあると思います。
ようは私はまだ民主有利と見てる皮算用なんですが、民主敗北と考えてる方はどのような皮算用をされてるのか教えて欲しいのです。
アンチ民主党とか自民党やみんなの党シンパとか、とにかく今度の参議院議員選挙で「民主党が負ける」と思ってる方は、票読みでなく選挙区比例区各区分での議席予想レベルで良いので、トラックバックなどでレスポンスお願いします。
ムハハのたかじん最終回スペシャル「日本経済を救え」高橋の財務省での仕打ちを暴露
http://www.youtube.com/watch?v=48e06JMJmDU&feature=related
高橋「財務省から僕はすごく怒られたほうだよ、あの、特殊法人たくさん潰しすぎちゃったから、天下りが出来なくなったって私はそれで追放になった、霞ヶ関から」
高橋「追放ですよ」
高橋「与謝野さんに凄い人事やられたの、俺ですから、やっぱり」
須田「いや一時期行く場所がなくて役人なんだけども、あの、勤務する場所がない」
高橋「私が前勤めていたところ、ゴミダメのところに机が置いてあったんだけど、そこに行っちゃった。えへへ」
高橋「ええ、そういうことありますね。」
宮根「ちゃんとやろうとしてる人はイジメにあうんですか?」
高橋「そー、あのそうでしょ?、けっこう」
須田「だから高橋さんと話をしようとするとスターバックスでふたりで話をする」
一同「わははははは」
高橋「あの霞ヶ関でね、高橋と話をした人はたいへんだって話がでたことがある。」
一同「うわ、えー」
池田「まー霞ヶ関ってとこは徹底的にやるってことは事実ですよ。これ、えぇ、だから今こういろいろな事件おきてますけどね、
池田「政権交代まじかって言われるなかでね政策、思惑、個人的な趣味とかねいろんなものが混然一体になって今霞ヶ関が揺れ動いてますから。どういう結論になるか分からない。」
高橋「たぶんねぇ、わたしの出身は財務省でしょ?私が一番恐いのが今度確定申告」
たかじん「あぁ、なんで」
高橋「だって、これからかならず、次きますから、わたし、経費率ゼロで申告してるもん」
一同「あぁ、かえってね」
高橋「ぜ、全部、たぶん余計に払ってて後で計算間違ってるから余分だって言われるくらいやってる、そのくらいじゃないと危ない。」
博士も知らない日本のウラ 第35回-2 霞ヶ関のウラより 高橋洋一
http://miranca.com/entry/article6
水道橋「でも石井紘基さんとかねぇ ああやってなんかちょっと襲われたり?することも」
水道橋「そうなんですか?」
宮崎「いや、この人の(捕まる)パターンは本間(政府税調会長)さんに似ていると思う」
高橋「だからね愛人と書くとね、凄いんだけどね、(59)と書いてくれるとよく分かるんだよね、顔写真もいれたらいいよ、んな、普通のおばさんだよ。
水道橋「ははははは」
宮崎「そうなんだよ、皆知ってるわけだよ、本間さん知ってる人は、だからさーあれを官舎に入れたって何がいけないの?」
高橋「何がいけないのってかんじだよね。もうネタ、ばれているんだよ、これ誰がやったか、ホントいうとね。」
高橋「だからさーあたしなんかちょっとみてさーあの、ようするに役所の同居人とか、なんか絶対に財務省しか分かんない資料が出てるんだよ、あれ」
水道橋「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」
高橋「それでね、その日のね、やっぱり、売込みがあるから、あの1誌、あれポストでしょ?他にもやってるですよ、それでもうばれてんだよ。他んとこもね、他んとこもねぇどうですかってやっていくのよ、ついでに」
宮崎「ほんとやるからね」
高橋「やるよ、ほんとに、そのくらいまでやるんだよ、あのね、事務局ってゆうかさ、本間さんが本気になっちゃったのはね、あの税調の事務局ってゆうのを内閣に持ってきちゃったんだよ。」
水道橋「うわ~」
高橋「そでね、事務局をとられるってゆうのは財務省にとって大変なんだよな、コントロールできなくなるでしょ、そこでスタッフを揃えて、おれもスタッフの一人だったんだけどさ、それだったからもう大変なっちゃって」
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm
しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、
http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm
とおっしゃっておられるようであり、
「近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm
という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。
見出しの引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。
古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫、山室信一編、吉川弘文館、2001年、をPDF・HTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。
http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html
まず、日露戦争後の日本の中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。
日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年(大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年(昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。
清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。
後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。
それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊が存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約はロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。
先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。
このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。
日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者は日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道を商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春・旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。
実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年(明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本の警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月に陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実を押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。
上記のような「条約よりも既成事実を押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。
軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。
軍だけに責任を負わせることはできません。
安奉線が朝鮮半島と満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本の希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道を建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。
つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権の拡張を図ることは不可能になっていたと言える。
ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。
つづいて、中華民国期に入ります。
ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注:辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見を外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国の首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日的地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部や関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝粛親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。
ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。
この間〔引用者注:革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍の威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・
漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。
まず、陸軍少尉が中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。
軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償と利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。
古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍の威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。
交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。
つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。
第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属地経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動を組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注:内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社の経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツの軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。
ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣が採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国はベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。
そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。
対中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約に規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。
このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。
しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係を確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。
それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制的意識が形成され、大衆を呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権の独立と、国内における大衆的中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。
ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本の大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。
さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史の勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実は小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。
ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆的中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見は百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。
その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。
しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本のマスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動の対象であったわれわれ外国の研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか
(江田憲治「民衆運動とナショナリズム―1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf)
私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。
またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。
30日 ANAインターコンチネンタルホテル東京、日本料理店「雲海」、バー「マンハッタンラウンジ」
1日 紀尾井町のグランドプリンスホテル赤坂、中国料理店「李芳」
5日 帝国ホテルで食事
7日 ホテルニューオータニ、日本料理店「藍亭」、「カトーズダイニング&バー」
10日 ホテルオークラ、日本料理店「山里」、バー「オーキッドバー」
11日 グランドホテル浜松、日本料理店「聴涛館」、同ホテル内のラウンジ「サムデー」
13日 帝国ホテルで食事
15日 元赤坂の明治記念館、日本料理店「花がすみ」、広尾の日本料理店「京寿々」
16日 ANAインターコンチネンタルホテル東京、中国料理店「花梨」、ホテルオークラ、バー「バロンオークラ」
19日 帝国ホテルで食事、バー「インペリアルラウンジ アクア」
20日 ホテルオークラ、宴会場「メイプルルーム」、バー「ハイランダー」
21日 赤坂のウナギ料理店「重箱」、ANAインターコンチネンタルホテル、フレンチ&イタリアン料理店『イタロプロバンスダイニング』
22日 官邸での夕食会後(高級料理出前)バーには寄らず、私邸に「直帰」
30日 その後、スタッフと「桜なべ中江」で夕食と打ち合わせ。
1日 19時から2時間強、知人と夕食懇談。
2日 17時半には議員宿舎に戻りました。(夕食不明)
4日 孫と夕食。孫が調理した魚は、白身で実に美味でした。セイゴの幼魚でしょうか。
5日 「日韓市民社会フォーラム」の最終セッションに出席しました。その後は夕食懇談で、
6日 17時半に出て、夕食用の買物をして、議員宿舎でひとりで江田鍋を突きました。野菜いっぱいで、満腹、満足!
7日 議員宿舎への帰途、夕食の買物。きりたんぽが目に付き、買い求めました。もう、その季節になったのですね。今夜も、満腹、満足!
8日 19時から2時間強、中華料理で夕食懇談。楽しいひと時でした。
9日 16時過ぎの新幹線で、帰岡。(夕食不明)
11日 新山口に急ぎ、17時過ぎの新幹線で、帰岡。(夕食不明)
12日 夜は自宅で夕食団欒。
13日 18時に出て、岡山駅付近で夕食を取り、予定通りに19時過ぎの新幹線で、上京。
14日 17時から1時間ほど、サラ・ハイドさんと懇談。英国ケント大学の准教授で、現代日本政治の研究者です。その後、夕食懇談。
15日 17時半ころ退出して、買物をして議員宿舎へ。
16日 18時過ぎに、世界平和研究所の設立20周年記念パーティーに、
17日 17時前に、買物に出掛けました。このところ私が、議員宿舎で一人で鍋の夕食を取ることが多いので、議長公邸と議員会館のスタッフの皆さんが、みんなでこの江田鍋を囲もうということになりました。
参加者17人で、食材は16,600円。鳥挽き団子、鯛のアラ、牡蠣のほか、野菜満載で、ジャガイモや人参まで入れます。大根やレンコンの薄切りを、しゃぶしゃぶ風にします。
18日 18時から2時間半強、「ボニージャックス結成50周年記念コンサート‐早稲田の杜の詩人たち」を聞きました。(夕食不明)
19日 13時過ぎに、昼食の中華丼(夕食不明)
21日 17時半から1時間半ほど、議長公邸で、国立図書館長会議の皆さんの歓迎レセプションを行い、私の歓迎挨拶、
見付けた店員に「いちばん安い地デジ下さい」「これです」「ちょっとメモ控えさせて下さい」
矢張り地デジというだけあって、いちばん安い割には高いな。地上でデジタルだもんな。
正午。小乃島電機に到着。
見付けた店員に「いちばん安い地デジを」「これです」「・・・」
同じメーカーの同じ型のテレビが少し高い値段で売られていた。これで良い。ここからが勝負だ。「山江田の方が安かったよ?」
困惑する店員。「・・・ざ、じゃぁ、この位で如何でしょうか?」「ちょっとメモを」
先程の店員に「小乃島の方が安かった」「・・・ず、ずゃぁ、これで」「メモを」
夕暮時。再び小乃島電機に到着。ここで決めよう。
先程の店員に「山江田の方が」「これ以上は無理です!!!」「じゃあこれにします」
近くのファミレスで晩飯を済ませる。大人たちは、長い戦いの勝利に酔い痴れていた。