これは日本をアメリカ合衆国に併合してもらい、日本州として自治権を獲得する政策だ。
併合の方法は売却である。自分で自分の売却を行う。売却というと売国奴のようだが、セルフプロデュース・セルフプロモーション・セルフブランディングとでも言えばよいだろう。
公用語は英語となる。日本語は各自で学べるが、基本は選択制だ。ルーツを学ぶなどで補助教材として使う。文化をすべて捨てるわけではない。
現実的には、今のアメリカ合衆国は日本を併合したがらない。日本の人口が多いからだ。老人も多い。経済的なうまみがなく、人口比で危険なことになるためアメリカは避けたい。
だが日本からすると旨味がある。大いに。中国から攻め入られるのが今後アメリカにとっては直接的な国防問題になる。
空想的かと思われるかもしれない。だが現実的な流れを見てほしい。日本語に入り込んでいる英語たちを見ればいい。漢学などほとんど忘れられている。誰が漢学を学ぶのか。
比較的富裕と呼ばれる層は子に英語を学習させ、必死に欧米諸国などに脱出させようとしている。
だがもし日本がアメリカならどうか。何も脱出することはない。そのままいればいいのだ。海外流出した頭脳も返ってくることだろう。英語が巷に溢れているのだから。
日本が守らなければならないことは文化である。わびさびやらもののあはれである。われわれは逆にアメリカにこれを輸出・浸透させることで生きやすくする。
実際こういった神仏・マインドフルネスは海外では大ウケしている。世俗化した風習など一度ぶち壊して脱構築してはどうか。
アメリカが併合したがらないことは明らかだが、大真面目に併合を目指して経済政策も外交政策もガラッと変えていけばよい。すべてをアメリカにさらけ出し、すべてをアメリカに握らせる。
建前上でも従属しようとしてきている子分と戦争することはできないものだ。戦後からバブル前まではこの面従腹背があからさまで敵意が剥き出しだったが、今後は堂々と従属していけばよろしい。
「だったら併合だ」「併合させてくれませんか」という攻めの従属。
なんでも受け入れてやろう。大義名分さえあればなんでも受け入れる。だがアメリカはその「大義名分」「正義」こそを重要視する国だ。屈辱にまみれながらも服従し「だがそれでも併合だ」と血眼になるのだ。
どうせ宇宙進出すれば地球連合にならなければやっていけなくなるのだ。その一歩を切り開き臣従を申し出る。
この政策は他国をも魅了する。独立すらいらんと、全員臣従してきてはたまらない。戦争もできない。今の時代の流れだ。これに抗おうとしているのがアメリカ共和党だろう。
日本語が大事だと人は言う。だが次世代で生み出される英語を翻訳するのは誰か。われわれが持っている日本語には限りがある。
まだ命が大きく残っているうちにあえて手放すのだ。追い詰められてから手放してはもうどうにもならない。本当に文化も失われるだろう。
まだ選択肢がある。だから攻める。完全に文化を保存し、戦略的に滅びようとするのだ。今までそんな国はなかった。
言っていることはめちゃくちゃかもしれないが、これにはロマンがある。アメリカ人でもあるが日本人でもある。問題はひたすら軽んじられることだろう。
だが周囲諸国からバカにされ虚仮にされ罵倒され屈辱を味わわなければ日本人は目を覚まさない。
それに実際、今やっていることは1億総アメリカ人政策を薄めたものだ。どっちつかず。保留。保留の人生としての日本。
またの名を拘留。とどめ置かれている。
アメリカ併合を目指すことをバカ真面目に議論してもいい時期なのではないか。三度目の敗戦が来る前に。
長いものには巻かれろ。
中学の頃から、女性の関わり方として好かれるように振る舞うのではなく、嫌ってくる女性を攻撃するスタイルの男は結構いましたよ。現実でまともな女づきあいが出来ない分、ネットで女を攻撃して憂さを晴らすんでしょう。
ワイさんの地元だと作新学院が強いけど、出身中学はほぼほぼ県内なんだよな。意外にも善良なん。対して県内で1番悪(?)質なのが、国学院栃木。国学院栃木、なんか県大会の時点のエントリメンバーに1人か居ても2人かくらいしか県内中学出身がいない。ほぼ他県の生徒で構成されてる。今回初出場の石橋はもともと凄く野球!の学校ではないし、スポーツ推薦もなかった様な気がするんで、単純にすごいんだと思います。宇都宮(県央)地域だと宇高宇女の次くらいに並ぶ高偏差値の優秀校。石橋はもともと学力と吹奏楽が強いイメージがあったな。
ものすごい偏見なんだがオタクって運動部に所属したことが少なそうなのでまず汗が臭いんだと思う
運動部経験者は滝のような汗をかくので汗腺が発達してミネラルや塩分を極力ろ過した水分に近い汗を大量にかくがこれはあまり臭くない
対して運動経験が少ない・無いやつの汗はドロドロの臭い汗が多い
あと包茎が多いともう
洗ったあとで被せるのは個人の自由だがシッコの時も剥いてするやつが多い気がする
このあたりが大きく関係している気がするぞ
先日法事にいったんだけどさ、この気温で黒のスーツ着てエアコンのないお寺で法要って参加者を殺す気かよ。
まさに増田に書くのがふさわしい内容だな。
状況は違うが、学生時代からの友人に連絡を絶たれたことがある。
向こう側では事情が違うんだろうな。
仕方がないことなのかもしれないが、悲しいな。
「美しい」という概念は、日常的な意味と芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。
### 1. **日常的な「美しい」**
- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人の感覚や好みに依存しやすく、比較的主観的です。
- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感や感情的な反応として経験されます。特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。
- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的な基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。
- **哲学的探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学的探究の対象となります。美しさの本質、普遍性、そしてその社会的・文化的な意義について考察されます。
- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品の形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味や感情を生み出すかに依存します。
- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的な感覚にとどまらず、ある程度の普遍性や客観性を持ち得るかどうかが重要な議論の対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的な判断であると考えました。
- **美の批評と評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的な評価や批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています。
### 3. **重要な違い**
- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省や分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的な理解や社会的、文化的背景の中での美の位置づけを重視します。
- **対象の範囲**: 日常的な美は一般に自然や人々が美しいと感じるものに限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」ものに限定されず、異様なものや不快なものにも美的価値が見出されることがあります。
これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚的快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的な価値観の探求を含むものとなっています。