https://b.hatena.ne.jp/entry/4706850741924678050/comment/djsouchou
いやこれほんとマジで。
気持ち悪いっていうかおぞましい。
ネトウヨがそこまでしてこんなことに意地と執念を燃やすモチベーションがさっぱりわからない。
金だろうか?
だとすればそれは一体誰が出してるんだ???
とある人物が、「バイク乗りのイメージが悪くなるから、水上バイクという呼称をやめてほしい」という主張している。
・業界代表して叫びます「水上バイク」って呼称やめてほしい「あれはプレジャーボートです」-https://www.youtube.com/watch?v=hyiaJNDQP-o&t=1s
彼は都内でバイク屋を営んでおり、入庫した中古バイクの状態や車両にまつわるうんちく、バイク業界の裏話などをYoutubeにて発信。チャンネル登録者数は40万人に迫り、バイク業界ではちょっとした有名人となっている。
で、つい数時間前に投稿されたのが上の動画。動画の趣旨は、「水上バイクの迷惑行為がマスコミによって報道されている。水上バイクと呼ばれるとバイク(オートバイ)業界も一緒くたに思われて、バイク(オートバイ)業界のイメージが悪くなる。プレジャーボート等の呼び方に変えてほしい。」というもの。ローリング族や暴走族の存在により、ただでさえ悪いオートバイの印象が、水上バイクの報道によってさらに悪化することを彼は危惧している。私は、水上バイク乗りのマナーとバイク(オートバイ)乗りのイメージに関係があるとは到底思えないので、被害妄想も甚だしい主張だと思うけど、それは詳しく書きたいことではないので、この辺にしておく。
私が拙い文章をチマチマ書いている理由は、この後の彼の発言にある。
あろうことか、彼は「水上バイク業界はガラの悪い人が多い。そんな人たちと紳士的なバイク(オートバイ)乗り集団を近づけないで欲しい。」と、一方的な決めつけに基づくバッシングを展開した。一応言っておくが、彼は水上バイクに「乗ったことがある」程度で、業界について精通しているわけではない。
水上バイク乗り全員が悪人であるわけではない。クローズドな環境で競技に打ち込むようなクリーンな水上バイク乗りも必ず存在し、報道されているパッパラパーな連中に怒りをあらわにする水上バイク乗りもいることだろう。そして、オートバイ業界と水上バイク業界のどちらの方がガラが悪いのかなど、互いの業界に精通するような人物でなければ分からないはずだ。
それを理解せずに、強力な発信力のもと、身勝手な決めつけをして水上バイク業界を叩くことは、クリーンに楽しむ水上バイク乗りの尊厳を傷つけるようなひどい行為である。
それに加え、彼の発言は「水上バイク乗りVSオートバイ乗り」といった不毛な対立の火種となりうる。また、多くのバイク乗りが彼の主張に賛同したならば、「バイク乗りは、他の業界に対してリスペクトのない身勝手な連中である」という印象を、水上バイク界隈や一般世間に与えてしまいかねない。(少なくとも私は、彼は他業界に対して敬意を払わない不躾な人物であると感じた)。彼のこの発言は、水上バイク業界だけではなく、自らが愛するオートバイ業界にもダメージを負わせる危険なものである。
ルールやマナーを守りながら楽しんできたオートバイ乗りが、ローリング族や暴走族の存在によって一緒くたに悪と決めつけられてしまった苦い経験を、彼は嫌なほど知っているはずである。そして、水上バイクの問題とかつてのオートバイ問題は、同じような状況下にあると想像がつきそうなものである。(似たような経験をしたならなおさら)
なのに、なぜ彼は自分たちが受けてきた苦痛を、他の業界に対して何のためらいもなく与えてしまうのだろうか。
水上オートバイの業界に対してどんな印象を持つかなんて人それぞれだから、それについてとやかく言うつもりはない。だけど、強い発信力をもってしてそれを主張し、余計な荒波を立てていらぬ対立やイメージの悪化を生み出すことはやめてほしいし、それ相応の良識を持った振る舞いをしてほしいと思う。
森七菜の『スマイル』って
今初めて見たけれど確かにこりゃ叩かれるわなあ
「深刻ぶった女はキレイじゃないから」って、そうか?って感じだし
:
この人の「2度目の」謝罪会見動画についての、SNSにずらりと並んだ反応は、見た限り大きく3種類に分けられる。
1つは
「これも計算なんでしょ?」
的なもので、
2つめが
「ここまで追い込んでるやつらも同類」
「みんな内心ではホームレスを汚いと思ってるはずだ」
みたいな、つまり「本心」「本音」に即していないはずだから駄目だ、というもの。
加えるなら、
「そういう綺麗事なあなたたちは、一体ホームレスのためにいくら寄付をしたんですかw」
みたいなのが、この2と3の間に入るのかもしれない。
:
1つ目の、つまり、この謝罪を、心からのものとして信じない、という表明、これが驚くほど多い。
なので、このDaiGoという人のこの(とくに二度目の)謝罪は、多くの人が指摘するように計算なのかもしれないし、
あるいは意外と、真実の、心からの反省に基づいて、あの涙だって流しているのかもしれない。
でも、もしあれが心から涙だったとしても、大勢の人が、それを信じようとしていない。
( https://twitter.com/umiuminemui/status/1426891746487586817 )
を含め、彼が繰り返しあちこちの動画とかサロンとかで示してきた、態度や言動の積み重ねによるものが原因であるらしく、
まるで寓話の狼少年そのままに、自分がしてきた行動や言葉の負債が、いまそのまま自分に跳ね返ってきている。
計算なのか本心なのかわからないが、筆者は、むしろ、この謝罪は「計算」であってほしいと思っている。
そうであれば、彼の内面は、「ちくしょう、うまくいかないなあ」といった悔しさで済むが、もし、彼が真実の反省からあの動画を投稿したのだとしたら……。
これがフィクションであれば、一種の痛快さとともに、一人の悪役の凋落の物語として消化できるのかもしれないけれど、
現実の出来事としては、教訓劇としたってあまりに陰惨すぎる。目も当てられない。
:
そもそもの発端になった、ホームレスや生活保護受給者に対する発言の時点から、
このDaiGoという人の「本心」なり「真意」なりは、なぜこれが問題になったのかとは、何も関係がない。
……少なくとも筆者はそう思っている。
「本心」や「真意」を気にする人は、例えば最初の問題の発言についても「DaiGoさんはそんな意図で言ったんじゃない」的な擁護をする。
しかし、繰り返すが、彼の「本心」も「真意」も、これが大きな問題となって「炎上」した理由とは関係がない。
■こういう場において(拡散され大勢に届きうる、つまり"公"につながる場所で)、
■こういう態度で(僕はこんな"辛口"な本音を言い放てるほど自分に正直でいられるんですよ、というアピールを"エンタメ"とする認識。なおこれは彼の「1度目の」謝罪で発言されているので、もはや「内面」の類推ではない)、
世に向けて放つこと。
それが、ホームレスや生活保護受給者の人たちに対する社会の視線を、どんなふうに「操作」(メンタリストを肩書とする人のようだから、そのことに無自覚だったとも思えないのだけれど)することになるか。
……問題はそこに集約される。
「この発言の底にある、叩いている人間によって捻じ曲げられたせいで語られることのない真意」のようなものは、
どこにも入り込む余地はない。
:
「彼の放った言動、彼の内側ではなく外側で記録されている言動という事実、それについて彼は責任をとるべきだ。」
これが、DaiGoという人に向けられた糾弾の内実である。……少なくとも筆者にとってはそうである。
もちろん、炎上してるとみて一緒になって石を投げてるような手合いだっているんだろう。
しかし、そういうイナゴめいた連中を、「糾弾している人たち」の「代表」に一方的に仕立てて、
「ここまで追い込んでるやつらも同類」
また、
これを書いてる筆者だって、家の前で不当に浮浪者に居座られたら迷惑なのでどいてもらいたいと思う。
そういうことと、
■「こういう言動を公にすることがどんなふうに社会の視線を歪ませるか、セーフティネットというものの存在意義をどんなふうに誤ったイメージにすり替えるか」
批判している人が「本心」でホームレスをどう思っていようが、また寄付をしたことがあろうがなかろうが、何一つ関係がない。
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もうちょっとだけ。
本当のところ、
「特にDaiGoが好きなわけじゃないが、この綺麗事を主張しているやつを"どっちもどっち"で相対化してやろう。そんなことができる自分はなんて冴えてるんだろう」
という満足を得たいがための投稿、というのについては、
「炎上しているところに行って一緒に石を投げてやろう」
の手合いと同様、この件に限らず常にどこにでも発生するものなので、言及してもあまり意味はないような気がする。
そういう「冴えてる私アピール」は、確かにお手軽な娯楽であるが、しかし、何一つ、
それこそ"お花畑な理想論の綺麗事"を言い募るよりもはるかに、世の中の役に立っていない。
要は「言葉で言い負かして痛いところを突いてしまえる私はなんてすごいんだ」という満足感は、
それこそ当人の「内側」から外へ出て、何かのエネルギーになったりすることのないものだから。
そして言うまでもなく、
松本人志が「あーいう奴の動画見ない方がいい」と言ってるが結局見る奴は多かった
自分が毅然として炎上コンテンツなりなんなり見ないようにしてても結局多数が見れば無意味なわけで
「個人レベルでの行動も集団の前では無意味になる」という世の中の中でどうすべきかわからん
自分は金と地位が欲しい理由は自分の意思決断が貧民何万人分の意思決断になるかもしれないからである それ以外の理由はない
自分が考えてることを何人が同じことを考えているのだろうか そして行動に移しているのだろうか
メジャーは多くの人が働いているため、十分な売上が必要となる。
しかも、マーケットはほとんど日本のみ、しかしアメリカとなると桁違い,
それほど人気が無くてもマーケットのデカさで物凄い大金を手にする事が出来る。
そのため、特に日本のメジャーではマーケティング調査などにより、
確実に売上を確保できる作品が、しかもコンスタントに製作される事を求められる。
“良い”という事自体、既存の価値観、過去の経験によって決められている。
生活においてはそれで良い。
が、芸術という事になると違ってくる。それは単に保守的という事に過ぎない。
そしてメジャーでは、その保守的な作品を大々的に宣伝、露出する。
消費者は個々の価値観を持っており、それぞれに相性の良い作品があるはずで、
労力を惜しまず探せば見つけられるだろう。が、その労力を惜しんでしまっている。
そして、知っている人が多ければ多いほど、その作品が良いと言う人が多くなる。
10人の人が知っていて10人が「良い」と言うよりも、
1000人の人が知っていて100人の人が「良い」と言っている方が、
結局支持している人が多いと言う事になってしまうのである、たった1割なのに。
日本人特有?の、「みんなが良いと言ってるから良い」という感覚により同調。
それにより、この保守的な作品がまた次の作品に反映されるという悪循環が生まれる。
ある種、カルトやな。
まず、価値観を誘導しておいて(マインドコントロール)、