例えば十回以上一位を取れなくて、やっと取れたと思ったらその後また五回連続で一位を取れなかったとする。
これは明らかに運営が平等に牌を配っていないのである。こちらは何一つ間違いのない打牌をしているのにこの戦績は単に有効な牌を寄越していないからと言う以外にない。このような非健全な運営を誅するには牛歩戦術を行うしかないのである。
まず、牛歩用のアカウントを用意しよう。正規のアカウントで牛歩戦術を行うのは色々と都合が悪いだろう。その時名前を「運営許すまじ」とか「牛歩は権利」とか、見た者が怒りを感じ取れるような名前にすると良いだろう。
牛歩は東一局から行う。例えば誰かにあがられた後に牛歩戦術に移行すると、怒りの原因が個人に起因するものと同卓者に取られかねない。逆に、調子がいいと後々牛歩戦術に移行することに躊躇する危険性も出てくる。最初から全開で行くこと。
勝負には拘らない。ただ、一局に時間をかけることだけに注力すること。そもそも不利な戦いを挑んでいるのだ。こちらは考える時間を早々に使い切ってしまっていているのだから。いわばハンデを与えて対局をしているのであって、結果が伴いにくいのは当然の帰結である。牛歩戦術を行う時に勝負の結果に拘泥する必要はない。
タメロンはしない。タメロンは個人に対する攻撃である。こちらの怒りの対象は運営でありプレーヤーではない。麻雀は対人戦である為、マナーは守らなければならない。ただし、中には牛歩戦術中にスタンプ等で早く切るよう煽ってくる不届き者もいる。こちらが何も悪いことをしていないのにもかかわらずそのような煽りをしてくる輩にはタメロンで仕置きをするべきである。
牛歩戦術のメリットをあげる。1つ目のメリットは高い手を上がれると言う点だ。先刻も、今まで聴牌もままならなかったのに急に倍満を上がることができた。つまり、牛歩戦術に対して運営が反省の意思を見せてきたと言うことだ。結果的に3着で対局を終えることができた。2つ目は相手を飛ばすことができる。牛歩戦術に焦れて途中で退席してしまうのだ。煽ってくる人間が途中退席しやすいように思う。三人飛ばして一位を獲ることを理想に励んでもらいたい。3つ目、これが一番重要であるが、キチゲを開放できて気持ちがいい。こちらにイラついてスタンプ連打してる輩を見てると今までの理不尽な負けなど忘れて心安らかに麻雀が打てるのだ。そもそもこちらにキチゲを溜めさせたのは運営である。運営がこちらにキチゲを溜めさせないような配牌をしていればこんなことをする必要すらなかったのだ。ちなみにこのはてなもキチゲの開放の一環である。
はてなもやめた方がいいぞ
人生で一度だけ死のうとした時がある。
もともと母親には鼻血が出るまで顔を叩かれることも、アザができるまで蹴られることも日常だった
高校生になって体が大きくなると
分かりやすい暴力よりも言葉や、陰湿な嫌がらせを毎日毎日されるようになった。
妹には朝ごはんが用意されていて、私の朝ごはんはいつも前夜の残り物が一緒くたに混ぜて器に盛られていた
学校から帰ってくるとカゴの中から自分の洗濯物だけ選別されて捨てられていて
酔って家に帰ってきては、こんなブスに生まれて可哀想とケラケラ笑われた
優しい祖母が買ってくれた洋服は、一週間くらいするとなくなった
「最近は節約のためにあなたの服を売ったお金でコーヒーを飲むことにしてるの!今日は120円で売れた!」と楽しそうに言われた
夜中、怒鳴り声をあげて寝ている部屋に押し入ってくることもあった
首をしめられて、それ以来怖くて毎晩箪笥をドアの前に移動させて寝ていた
そんな毎日だったけど、私は母のことが大好きだった
16歳にとって、ほんの数年前まで優しくて笑顔だった母親が忘れられず
毎日「頼むから死んでくれ」「10秒以内に死んで」と怒鳴り散らす母親に
母のことが大好きで
母を笑顔にしたいのに、自分が生きているせいで母は不幸なんだと
その日、箪笥をどけて部屋を出ると
ついに私の朝ごはんは用意されていなかった
「食費の節約」とのことだった
その日は何も感じなかった
そのまま学校に行ってぼんやりと1時間目の授業を受けているときに
「あ、死ねばいいんだ」
と思った瞬間、心の中が晴れ渡り、うきうきして興奮した
そうだ死ねばいいんだ!こんな素敵なアイディア、知ってたはずなのになんでもっと早く思いつかなかったんだろう!
私は私の大好きな母親を喜ばせてあげる方法を知ってる、私は私を苦しみから解放できる方法を知ってる!
そうだ死ねばいいんだ!
興奮して、ものすごく素晴らしいアイディアを思いついた気持ちになって、体は軽やかだった
授業が終わってすぐにうわばきを履いたまま、最近祖母に買ってもらった新品のダウンジャケットを手にとって学校を出た
最寄り駅まで行って、電車に飛び込もう
なんでもっと早く死ななかったんだろう!
あぁ、でもこのダウンジャケット
せっかくおばあちゃんが買ってくれたのに、3回しか着なかったな
悲しむかな?
そう思った瞬間、正気に戻った
私がどんな目に逢おうと見て見ぬふりをする妹と父と
度々電話をしてくれて、ご飯を作って食べさせてくれて、服を買ってくれる祖母が私にはいたのを思い出した
その後は、死のうと学校を飛び出すところまで行動してしまったこととか
心が苦しくて悲しくて涙が出たけど、同時に「死にたくない」とも思った
苦しいはずなのに苦しさを感じなくなった時
死ぬ事がとても素晴らしい救済に思える時
どうか、そうなる前に誰かに助けを求めてほしい
今思い出しても、あれはとても恐ろしい経験だったと思う
脳がバグを起こしてしまうというのか、限界の末に自分を守る方法を思考してしまうのか
死ぬことがとても楽しい素晴らしいことに思えて、その目標を達成するのに今まで無気力だった体が突然元気になって、死ぬために走って行動するたびにワクワクして多幸感に包まれる
そこから、手に持っていたダウンジャケットが脳を正常な状態に戻してくれた
あの時、学校に着て行ったのが別のコートだったら、あのまま電車に飛び込んでいたかもしれない
30歳を迎えることも
できなかった
もうそのダウンは羽が抜けてぺしゃんこになってるけど
まだ捨ててない
母は、今はどこに住んでるのかもわからないけど
どこかで別の人の奥さんをやっているらしい
私の場合は、耐え抜いて、大人になって家を出て名前も変わって結果オーライ。
でも、負った傷が深すぎて未だに思い出して苦しくなる
どうか明日も生きて
うちのおばあさんがなったとき、抗ウイルス薬をのまないと失明する寸前だったって
そしてちゃんと麻酔科医?に神経ブロッキング?みたいなのもしてもらってた
いいから、女は男のように働け。
だけどやはりなにかしっくりこないというか、見えない壁のようなものを感じる
それぞれに話題や付き合いのできる領域があり、限定的な「この人とはこういう付き合い」(たとえば特定ジャンルの話を飲み屋でする、とか)の範囲から越えられない
もちろん本当はもっと広げられる可能性があることはわかっているし、相手が悪いとかじゃないこともわかってる
だけど大学生くらいまでの、くだらなすぎることで笑ったり、落ちこんだ夜に真面目な話ができた関係にあった安心感は得られていない
どうも必要以上に遠慮が出てしまうというか、個人対個人ではなく何かに属した人と付き合っている感覚が拭えない
楽しく盛り上がっているときも、ふっと我にかえって何か違和感や寂しさのようなものを覚えてしまう
腹七分の付き合い、とでも言おうか
時間が作る関係というものはあるが、それには自覚できる打算があってはいけない気がしている
もちろんこれまでの友達との間に育った仲には代えられないのだけど、これから付き合いのできる人と出会うことはあるのだろうか
夜長はこんなこと考えてしまうね
ブクマされるだけでも喜んでるのに、自分の発言がいちいちネットのニュースになったりしたらもう有頂天だろうよ
俺の言う事にいちいち反応してくれるなんてよ
それが称賛ならもう中毒だ
いい気になってSNSで発信するだろ
全然反応ないんだよ
なんだよみんな
「草野球していた少年の打ったボールがヤクザの家の窓ガラスを割った」という状況だろう。
どうやら岡村さんがMCをしている「チコちゃんに叱られたい」の降板を求める署名活動が始まったらしい。
そもそも発言のあった番組でもなければ、低俗な発言の制裁が降板である理由も釈然としない。
言ってはいけないことを言ったのなら日本が法治国家である限り、法で裁かれるべきだ。
要するに、この署名活動は、ただただ自分が不快であることを理由として、その人が一番嫌がることを考えた果ての何とも幼稚な行動だと思う。
本当に女性の貧困や性的搾取を心苦しく思うなら、少しでも女性の労働環境や制度の改善を訴えかける活動をするべきだし、この行為は何の役にも立たない。
ただ、地位と名誉を手にしている有名人のおじさんが落ちぶれていく様を楽しめる、それだけだ。
言ってしまえば、深夜ラジオなどという偏ったコンテンツの発言を公に晒して叩く、という行為自体、品のなさという点で岡村さんの発言と大差はない。
ゾーニングされたメディアという言い方をされるが、深夜ラジオのパーソナリティはいわば小国の王のようなもので、パーソナリティ自身も別に大声で自分のラジオを宣伝しようとはしない。
大国(世間)から見れば「ばかばかしくて」「くだらない」ことをしている自覚があるからだ。
わざわざ肥溜めに分け入って、街中に持ち帰り「汚物があった!」と喚いていることと変わらない。
でも、自分の「お気持ち」を正義として納得するまで社会的な制裁を下そうとすることは果たして高尚な行いだろうか?道徳的だろうか?
立川談志は以前、「品があるというのは、欲望に対する動作がスローモーなやつのこと」だと言っていた。
そして、こうも言っている。
「俺は正しい人間だ。なぜならば、自分が間違っているかもしれないと常に思っているから」と。
それとも、エゴですか?
https://www.mylohas.net/2020/04/209713nobuko_nakano01.html