以前はそういうスマホアプリ使ってたけどpcとシームレスに同期できないので代替案をつのりたい
ツイッターの鍵アカウントも考えたけど1画面の情報量が少ない、過去の投稿を参照しづらい、画像を見づらいetcでパス
なんかない?
ゲームをやりまくった結果月数十万稼げてたなら、それって廃人じゃないよね?
廃人ってのは誰かの助けが無ければ生活できないか、自分が今まで稼いできた金を食いつぶして継続不可能な生活を送っているような完全に終わっている人間を指すことだばだろ?
どんだけやり込んでいたとしても趣味人でしょ。
ゲームぶっ通しでやって病院行きましたや死にましたならまだ分かるけど元気に生きてるんでしょ。
それは廃人っていわねーよ。
辞めなきゃいけないのに辞められないっていう薬物中毒的状態が廃人。
辞める気はないぞなぜなら俺は今幸せだからだと本心から言えて、そしてそれが本当にこれからも継続できるやつが廃人なのってんじゃねえよ。
笑わせんな。
貼ったわ。
もうすぐ二十七歳になる。
紙に書いて壁に貼って、誕生日になったら剥がせばいいのかもしれない。
「今、俺は26歳! 社会人4年目! ここが頑張りどき!」
みたいなことを正月にでも筆で書いて、壁に貼っておく。
誕生日が来たら剥がす。そして次を貼る。
「今、俺は27歳! 社会人5年目! 上からの評価だけでなく、後輩の育成も、ね!」
時間は流れてゆく。
いや、流れているはずだ。
僕の中の時間は止まったまま、現実世界の時間だけが過ぎている。
27歳になるのもビックリする。
22歳になったときはまだ覚えている。
そこからの5年、何かあったのか?
子供のいたずらで、時計を針をぐるぐると何回も何回もまわして、気がついたら2017年になっていたような気さえする。
サラリーマンになんてなりたくなかった。
フリーターになって夢を追うとか、まあそのぐらいの選択肢はあったけれど、実質的に就職する以外の選択肢はなかった。
労働ということに、価値を見出せなかった。今もそうだが、昔からそうだった。
就職活動。
長い年月を費やしたけれど、今の僕にはほとんど記憶がないのは、忌々しい記憶だったからだろう。
長い就職活動だった。
会社に入ってくる後輩は、学歴も就職活動のハードさも、ワンランクもツーランクも落ちるような奴らだった。
結局は運なのだと思う。
僕の同期は、就職留年したり、未だに実家に寄生したりするが、それはなんだったのだろうか?
そんなものは存在しなかったかのように、日経平均は上昇し続けている。
そして僕もまた、そんなものは存在しなかったかのように、安定した暮らしをしている…
リクルート的な価値観に従うならば、仕事というのは自己実現の手段でなければならない。
仕事を通して、大きな変化を社会に与えて、それを通して自分という存在が救われるのである。
その文脈において、僕がしている仕事は、まったく価値のないものでしかない。
僕の勤めている会社の利益だけを考え、その関係者だけが幸せになるものでしかない。
やっていることが、FAXからExcelの穴埋めに変わったくらいか。
技術者気質だが、管理職としての自分の役割も理解して、高いレベルでバランスのいい部長がいて、
放任気質でどうでもいいところはノータッチにして、締めなければいけないところは締める課長がいて、やりやすい。
そういう上司のもとで、それなりの成果が出せている気がする。
そんな恵まれた環境でも、三年目くらいまで、どうしようもないくらいの焦燥感があった。
自分の技術力とか、会社の求めているマネジメント能力とか、そういうものへの反発があった。
早晩潰されてしまうのではないか、という不安は常にあったけれど、色んなものに恵まれて、そんなことはなかった。
僕が居心地がいい環境というのは、ずっとなかった。
家庭でも、学校でも、バイト先でも、そんな環境はなかった。友達や恋人の部屋でさえも、僕は居心地の悪さを感じていた。
極力シンプルに生きようと思っている。
平日はそれで過ぎていく。
休日に色んなことを考えてしまうが、それだけが僕の生きている時間なのだと思う。
平日はそれでいいと思う。
よくもわるくも、僕はサラリーマン(社畜)である自分を受け入れつつある。
今の日本には、僕と同い年で、同じくらいの給料をもらえている人間なんてほとんどいないのだ。
けれど、それは結局、失われた20年に突入した日本の大半の若者が得られなかった、ある時代は当たり前だった待遇でしかないのだと思う。
もちろんそういう詭弁をもって、仕事をやめて、自由を手にしようということではない。
何が言いたいかというと、このままだと、僕に許された幸福に続く道のりは、
いい奥さんをもらい、仕事を頑張り続けることだということしか残されていない、ということなのだ。
幸福に関しては書きたいことがたくさんあるけれど、はたしてそんなことなのだろうか?
僕にはわからない。
わかる人間なんているのだろうか?
この文章で、誰かを批判しようとか、肯定しようとかいう気持ちは一切ない。
俺はほどほどに勉強して
立命館あたりに進み
そこまでみんな利口なわけではないと思う。
てか中学の頃に友だちもいない、先生からもまともに相手にされないような生徒になってしまい
それから「自分は頑張っても評価されない日陰者なんだ」といろいろなことを諦めてしまった。
第二次性徴が始まって性への関心が高まっていったのも小学生の頃だが
未婚の友達を見回すと、良くも悪くも変わり者ばっかだ。人として好きだから友達やってるんだけど、変わってるとは思う。
私ってここまで変わり者じゃないと思うけど、未婚だし結婚の予定もないから、他人から見たら同じくらい変わってるのかな?うーん。
とか思ったけど、そういえば既婚は既婚でよく見てみると変わり者も変な人も多いし、未婚でも超普通な人もいるし、なんだかな〜当たり前だけど一括りにできるようなもんじゃないね。
結婚するとなると、大部分の夫婦間ではどちらかの収入が多かったり少なかったり、差が出てくる。日本では、一般的に収入が少ない女の方が男の姓に合わせることによって丸く収まる。最近では、妻の方が学歴も収入が上の夫婦が増えているので、夫の方が妻の姓を名乗るケースも増えてきているらしい。
やはり、夫婦同姓は今後も続くんじゃないかな。完全に別姓が認められてしまうと、収入の多い方の不満が溜まり続けてしまうだろう。「私の方が学歴も収入も上なのに、対等なわけがない!」ってね。
昔から"死"というものがとても怖かった。特に友達とか家族が死ぬのを想像するのはとても怖かった。一時期は知り合いが死ぬのを経験するのが嫌だから死にたいとまで思っていたほどだ。
何故そんなに怖いのか。言葉として表すならもう会えなくなるから、というのが適切かと思うけど、ただ本能的な怖さな気もする。とにかく死、怖い、めっちゃ怖い。
そういえば、私は『世にも奇妙な物語』のホラー物の話が昔から怖くて仕方がなかった。正直大人になった今見ても怖い、風呂に入るのが嫌になるぐらいには。
だが同系列の『本当にあった怖い話』はそこまで怖いとは思わなかった。
怖いとは思うのだけど後に引きずるほどではなかったのである。
過去に何人かの友人にこの事に同意を求めたのだが、周りの意見は総じて「普通に本怖の方が怖い」であった。本怖は実体験だけど世にもは創作と明言されているかららしい。
確かに、と思ったのだが創作とわかっていてもやはり世にもの方が怖いと思ってしまう。別に演出は同じくらい怖いと思うのだが何故。
そして最近この理由を考えていてもしかして死が怖いからじゃないか、と気づいた。
本怖は私の知ってる限りでは基本的に死にはしない、だって実体験だし。でも世にもは死ぬのである。しかも後味が悪いことが多いから余計トラウマものだ。
世にもを見ていると創作とわかっていても(自分にも起こり得るんじゃないか...)とか、(知り合いが巻き込まれたら...)とか考えちゃうわけだ。
いや、死、めちゃくちゃ怖い。改めて考えてなんで皆この恐怖も感じないような振る舞いができるのか不思議なくらいには怖い。私はこれから先もこの感覚に苦しめられることになりそうだ。