はてなキーワード: 衆生とは
百字というので思い出しましたが「理趣経」には「百字の偈」というものがあります。
菩薩勝慧者 乃至盡生死
諸法及諸有 一切皆清浄
欲等調世間 令得浄除故
有頂及悪趣 調伏盡諸有
如蓮體本染 不為垢所染
諸欲性亦然 不染利群生
知恵を身につけた人は、その知恵を自分だけのために使うこともできる。しかし、それを人のために使おうとする人が居ます。
この世のものはすべてが清浄である。そう考えたその人は、どうにかして元の姿を取り戻させようとします。
そして、"欲望"というものが世界を正しい形にするのだ、と思い至りました。
蓮は泥から生まれますが、花が泥に染まるということはありません。
拙訳ですが、そんなようなことがここに書かれています。
前提として、衆生は馬鹿なんです。なので、深い教義のレベルでその時点での一般常識からのエキセントリックな思考の転換を論理として理解はできない。だからね、布教するときに、布教師は考えるわけです。あ、布教師っていうのは造語ですけど、要するに信者数を極大化することをミッションとしてしまった人です。で、布教師は考えるわけです。馬鹿には理屈は通らない。馬鹿にもわかる教えの偉大さってなんだ?と。そうすると、開祖の教義によってもたらされる利益を説こうということになるわけです。要するに、ユーザーメリットの訴求です。あるいはインサイトへの訴求。ですが、考え方を変えることで毎日の暮らしの中でやんわり心が軽くなる、程度では、競合の神様と大差ないわけですよ。従来通り古式ゆかしい神殿で古来信仰を集める神様にかしづいておけば、似たような体験はできるわけですから。そこで必要なのがインパクトです。マジそんなことありえんの?!みたいな逸話です。そやったら今年からうちの麦はそっちの神殿に納めますわと言わしめるようなのです。つまり奇跡です。そこで、今やこの世にいない教祖ですよ。なにせ布教師自身は奇跡を起こせないわけですから。だって人間なんだもの。そういうわけで開祖の神格化が始まります。そもそもの開祖の行いに尾ひれが付き、付きまくり、えらいことになって、なり続けて、そのあげくにまとめられたら、教祖が触れたおかげで歩けなかったおっさんが歩けるようになったとか、教祖自身が死んだはずなのに数日後に生き返ってたとか、いやもうそれ神だろみたいなことになっていくわけです。そんで、衆生は馬鹿だから、マジかよすげーな!と、その年以降の麦をその教団に納めるようになるわけです。
要約…色々苦しんでる馬鹿な衆生が、「苦しくなくなるよ、だって奇跡が起こるんだもの」と口八丁で訴求されて、それに乗っかったから。
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130121001007
で id:alloreverything が、
宗教はほとんどライフハックみたいなものなのに、ネット上にレビュー記事が少ないなあ。誰か「○○教に入信してみた」とか「××教が△△教より優れている5つの理由」とかってエントリあげてくれないかな。
と言ってたのでリクエストの答えてみたよ。
キリスト教とか仏教以外の宗教は今世のことばかり考えて他者に救いを求めてるよね! でも輪廻と因果の理を説いて過去世や未来世のことを考えないと世界を説明したことにはならないよね。だから仏教以外はここで落選!
小乗仏教の人たちは自分が悟りを開いて解脱することを目的としてるけど、大乗仏教は仏陀となって世界を救うことを目指してる。どっちがいいかは明らかだよね? 上座部のみなさんはここで脱落。
仏典はたくさんあるけど法華経が一番なんだ。なぜかって、おしゃかさまが最後に書かれた経典だからね。その他の経典では明かされなかった秘法があるんだから、これを最上のものとしなくてどうするというのだろう? 日蓮宗や天台宗以外のほとんどの宗派の皆さんは、ここでさよならだ。
「ウソも方便」って言葉は知ってると思うけど、法華経にも方便があるんだ。それが前半の14巻。特に2巻なんかはそのまんま「方便品」って名前だからね。方便は大事だけど、本当の教えと仮の教えとどちらが大事かは言うまでもないよね? 日蓮宗一致派のみなさん、残念でした!
末法の衆生には成仏をする機縁がないから、事の一念三千である御本尊に題目を唱えることによってしか成仏ができないんだよ。そうして下種を受けていない衆生はゴールが見えているけど道順が分からない迷子のようなものだね! え、何を言ってるのか分からないって? つまりおしゃかさまは末法でオシャカになっちゃった、ってことさ! 日蓮大聖人を末法の本仏としない日蓮宗身延派のみなさん、惜しかったね!
あと、現状の日蓮正宗は血脈が途絶えているから、大変残念なことになってるよ! そうなると、もう創価学会に入るしかないね!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE
「ださい人」はださいなりに、自分の外見に気を遣っており、それが当世の流行と一致しないだけで充分にファッショナブルなのだ。おしゃれな人がおしゃれ世界の流儀でファッショナブルであるように、彼らは彼らの世界の流儀でファッショナブルなのだ。
彼らはアンファッショナブルなのではない。「外見の追求を捨てている」からああなっているのではない。単に独自な外見を追求しているだけだ。それが「ださい」、それだけだ。その証拠に、彼らに「おしゃれ服」を着せてみろ。彼らは「知らなかった、こんな服を着たらオレはかっこいいんだなあ、教えてくれてありがとう」というだろうか? 絶対にない。顔を真っ赤にして彼らは怒るだろう。「こんな服が着れるかよ!」、と。あるいは殊更に無視するか……「おしゃれに興味がないという外見」を一層強固に維持するために。彼らは「おしゃれ/外見に対するこだわりがない人」ではない。彼らは人一倍外見にこだわっている。
馬鹿というのは知性の欠如した人間なのではない。世界を百通りに分析できる人間は知性があり利口と言われるだろうが、世界を「かわいい/きもい」の二通りにしか分析できない人間もまた「そういう知」でもって世界を分析しているのであり、その意味では知性が欠如しているのではない。彼らは彼らなりの世界を生きているだけだ。その意味で「馬鹿は馬鹿なりに完全なのだ」……かつて小林秀雄はそう言った。
それは、つまり、「知」で「馬鹿」を教化できると思っているとしたらそれは幻想だ、という絶望の宣言でもある。縁無き衆生は度し難い。
そうねw
でも釈迦の話をしていないんだったらその旨始めに明記しとくべきだと思うわー。
「誰の妄想の産物だよ。お前のか? 釈迦のか。」に対して、「自分を釈迦だと思い込んでる人のだよ」と。
煩悩とか衆生とか仏教用語を持ち出すならなおさらね。紛らわしんだよ。
そして、じゃあやっぱり話は簡単だ。精神疾患者の憎悪は全方位の慈悲慈愛には成りえない。
なぜなら彼らは精神のバランスを著しく崩しており、憎悪を慈悲に完全に変換するといった無茶苦茶な行為に耐えられない。
人格障害者はやれるだろうか? たぶんやれない。つうかやれるやつがいたとして、そいつは人格障害の定義から外れているので人格障害者ではない。
裏切った女を殺すことができるけど、その代わりに両親のどちらかを殺さなければいけない、というのと一緒だから、無差別殺しをやった奴は殺された遺族の憎悪によって殺される可能性があるので勝ち組とはいえない。
あのさ。
これってそのままキチガイのことじゃん?
仏陀って書いただろ自分で。「自分を仏陀だと思っている人」ではなく「仏陀」と。「仏陀の妄想」のくだりで。
仏陀って釈迦のことであって「自分を釈迦と思い込んでる人」のことではないんだよ。
そして話がキチガイだともっと簡単だ。精神疾患者の憎悪は全方位の慈悲慈愛には成りえない、オシマイ。
だから、「関係ないじゃん」って言ってんだろ俺が。お前は「いや関係あるよ」って言わなきゃいけない側だったんですよ。
なぜなら正義感から慈悲を行える、正義が憎しみを含むもので慈悲が正義に含まれる範疇があるとかほざきだしたのがお前だから。
義憤ってむしろ正義としての体裁がある程度整った後の話じゃね?順番的に。
私見だけど、距離と人数の問題なのな。上手く言えないんだけど。
の順に、その持ち主は少なく、またネットワーク的に人のつながりを可視化した場合に広がってる範囲も狭い。
信じてた彼女に浮気された上に家財とか勝手に売られてた! このくそビッチぶっ殺す! が憎悪寄りで、
俺の友達彼女に浮気されて財産持ち逃げされたって、なんかめっちゃ落ち込んでるし…あのくそビッチ許せん! が義憤で、
信じてくれてる恋人裏切って金まで持ち出すとかありえん、制裁が必要だろJK…裁判に持ち込め ってのが正義。的な。
ただ、憎悪は広がって薄まれば正義になるかもしらんけど、薄まらずにあちこちに火柱を立てることができそうなのでやっぱうまく言えない。
簡単に言えば、憎い相手を殺せば必ずそれと同数だけ愛するものを殺すことになるという呪いを込めた武器をつくり、確実な因果応報を達成することで、世界から憎しみと戦争をなくそうという話。
え、何それ逆切れ?w
だったらキチガイとか言って投げ出さんと最後まで論証の面倒みなよ。一瞬自己紹介かと思ったわw
あとそのネタは知らん。
そういう人も善悪の彼岸まで突き抜けてしまえば(その可能性があるのかないのかわからん)、突き抜けてない限りは正義感の話にとどまれる。突き抜けなければ、突き抜けていない。ほとんど何も言ってないに等しいくらい、当たり前の話だな。
突き抜けてない限り正義感の話にとどまれる、というのがどういう意味かわからん。
釈迦はそもそも正義から出発したのでもなければ正義を目指したわけじゃないし行きついたところも別に正義じゃないのに、それが正義の範疇の話になるのはなぜですか、って聞いてんだよ。
大体彼は確かに良かれと思って説いてただろうけど、同時に「これでは衆生は救えないかもなー、誰にもわかんないかもなー」とも言ってたはずだろ。
勝手にガイキチの話に置き換えて片付けなさんな。
憎悪が「形式を得る」とまずは義憤とかそっちに進化すんじゃないの。
形式と言うのはそれにはめることで無関係の人間とも共有できるようにするフォーマットのことだろう?
正義っていうのは我が身から距離のある物事にマジになるってことで、憎悪は我が身を燃すものだから、
形式だけじゃ利己との距離の取り方が甘いと思うな。
そして正義が美しいのは、「我が身から距離のある物事に」マジになるからだ。
マジになる姿の美しさならある種の憎悪にかなわない。いやこれは個人の好みもあるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20111128144115
http://anond.hatelabo.jp/20111128143505
「慈悲や慈愛のかたちで表面化する正義」なるものは慈悲や慈愛の飾りを身にまとっているだけで本質は正義なのだ。
慈悲を辞書で引くと大雑把だけど「あわれみ」とかそんな感じだ。慈愛は「かわいがる深い愛情」とかだ。共通するのが「いつくしみ」だ。
よって辞書的に言って慈悲や慈愛は正義ではない。飾りたきゃ飾ればよい(飾っていた方が美しいし)が、それは、正義では、ない。
こういうのもさ。どこが「正義」やねん。既に善悪の彼岸の向こう側の話じゃねえか。それこそ「善意の人」なみに正義関係なくね。
ただ話がちょいと入り組んでくるのは、慈悲や慈愛は正義ではないが善であるという事実の故だ。
だから「飾る」だなんて、粉飾を彷彿とさせる比喩を持ちこんでも「その方が美しい」と言い切れる。
その美は見せかけではないからだ。
正義もまた善の一端であるし正義なりに美しいが慈悲や慈愛とはなにか性質を異にする。
おそらくはその燃料に憎しみを混ぜているために。
全方位に対する慈愛って応報捨てるくらいの勢いのとこからしか出て来れないんじゃないの? 知らんけど。
行われるべき所で正義が行われないことに憤ってるうちは応報をむしろ強烈に望んでいるので、その灰からはフェニックスは出て来れないかもよ。
http://anond.hatelabo.jp/20110725004759
おれの弟は生まれながらの重度のそれで言葉も解せず寝たきりの状態だったが、おれが中学のときに何の前兆もなく死んだ。享年12歳。
そういう子をもつ家庭の負担を知っているから、生まれる前に流す人のことは理解できる。
むしろその苦労を知っていながら、それを回避しようとする事を非難する人の気がしれない。同じ苦労を味わえという呪詛か。
まぁしかしこういう人って愚かな衆生に同情しない上に愚民扱いだからおもしろい。人をバカ扱いして近寄ってくるのは、同業者か、バカ扱いされたい奴隷だけだ。
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1268749422/
38 :本当にあった怖い名無し:2010/03/21(日) 16:36:34 ID:khW4IM/zO
主要事件全てに関わってるからオウム事件の全貌を掴むのに都合がいいし、
風貌や逮捕された時の笑みと逝った目がとても印象的。
この人の洗脳されぶりは凄まじくて
サリンを撒いたことを善行で自分は救済者だと本当に思っている。
他の幹部の多くは罪を逃れるために教祖に責任転移をしたのに対し
新実は未だに麻原に帰依を貫いてて、拘置所でもずっと修行してるようだ。
こいつの傍聴記はイカれた発言の連発で、読んでると本当に面白いのよ。
芥川龍之介の「杜子春」の解釈を巡って検察官と言い争いしたりなw
39 :新実の法廷発言集:2010/03/21(日) 18:23:05 ID:MPsrY25i0
法を犯して人を殺していいのか?――
「法を決めたのは国家。死んだのはそれ(法)とは別の因果応報です」
「慈愛の心に満ちていたからやった。死刑になり地獄へ堕ちてまでやろうとした」
私が聞きたいのは、罪の無い人がなくなっている。その点ですが――
「すべては因果応報。罪無くして死傷する人はいません。因があって結果がある。これが答えです」
人を殺すという誰がみても悪の行為でも、喜びを感じることが究極の理想になるのか?――
被害者や遺族をどう受け止めているのか?――
「犠牲者は転生した。答えるべきではない。被害者に世俗の論理で言い訳するものではない」
自分の行為は悪ではあると考えるか?――
「完全なる善ではないでしょうか。」「善悪超えた全き善と思う」
(麻原に)支持されれば喜んで人を殺したい?――
「そのように理解されて結構」
そのような言葉がいかに被害者や遺族を傷つけているか分かるか?――
「傷つくなら傷つかない本当の心を求めて欲しい。
(遺族が)人間の心を持てと言って苦しむのなら(その)心が苦しみの因とわかる」
自分の犯行を直視せず、心の動揺を避けようとしているのではないか?――
お前は俺か、と思った。
「それって、実際、いじめなの? ちょっと被害妄想もあるんじゃない?」
「ていうか、お前の方にも問題有ったんじゃないかなあ」
「きみ、ちょっと周り見えてないとこあるし、年の割に中身ガキっぽいからねえ」
「自分のことしか考えられてないというか、客観性がないというか…」
「社会に出たらもっと厳しいんだから。そんな調子じゃ、いつまでも巧くやっていけないし、周りからも相手にされないよ」
等々の意見を賜った。確かに、否定は出来なかった。そこで、私は決心して訊ねた。
「分かった。気をつけます。これからはちゃんと、周りともきちんと巧くやっていきたいし、みんなにも迷惑掛けたくない」
「だから、ちゃんと周りのやってることが読めるようになったり、人の考えや気持ちが分かるようになったり、自分のことを客観視出来るようになるには、具体的に、まず、どうしたらいい?」
言うなり、彼らは口々にこう突っ込んだ。
「知らないよ、そんなの。自分で考えなよ!」
「てか、今さら、そんな事をわざわざ、人に教えてもらってる時点でやばいでしょ!?」
「君、甘えてるよ。そんなんだから、結局駄目なんだ」
結論から言うと、こんな奴らは相手にするだけ時間の無駄。「縁なき衆生は度し難し」と思って、無視しましょう。それでも絡んでくるならキレればいい。危ない奴と思われたっていいじゃない。ナメられてひどい目に遭わされることはなくなるんだから。
君は問題の立て方を間違っている。「自分のどこが悪いか」と聞いてはいけない。どこも悪くないんだから。少なくとも、人から責められるほどの落ち度はない。だから、どこにもない反省点を求めて、自分を責めさいなむのはただの無駄だ。
理由はわからないけれど、君は回避しようのない理不尽な状況に追い込まれて非難されることが多い。そしてそこで逃げればさらに叩かれる。となれば、逃げずに戦うしかないよ。自分の正当性を守るためにも。
そんなことをすれば余計状況が悪くなると思うかもしれないけど、そんなことはない。確かに、周囲の人に恵まれなければ、3%の人から嫌われて95%の人から避けられる結果にはなるだろう。でも、わかってくれる人は残り2%でもいるはず。そういう人が1人でもいれば、周囲の圧力に自分が押しつぶされてしまうことはあり得ない。相変わらず状況は理不尽で、腹が立つこともあるかもしれないけれど、腹を立てている間は自分を見失っていないということなのだからそれは大丈夫だ。
無責任なことを言うなって?でも、俺も実際そんな感じだったし、ブクマコメとか見ても、世の中の2%ぐらいはわかってくれる人だという感触もあるんじゃないかな?
残念ながら君や俺は他人から理解されにくい人間だ。それは諦めるしかない。でも、全員に理解される必要はないし、逆に、わかってくれる人には強い共感を得られる立場でもあるかもしれないよ。恵まれた境遇とは決して言えないが、絶望的ではないということを知っておいてくれると、少しは救いになるんじゃないかな。
552 名前:550[sage] 投稿日:2008/10/14(火) 15:00:53 ID:LImVJlD10
生と死の狭間に己を笑い恍惚として自ら忘るる
されば夜明けの嘆きを鐘に神曲の幕よいざ上がれ
黄金の兜の覇王は万里を征し愛馬と共に川底へ沈む
孤赤児は蚯蚓の血を母の乳とし三夜して腹より腐る
生命よこの賛歌を聞け笑い疲れた怨嗟を重ねて
生命よこの祈りを聞け怒りおののく喜びを枕に
百年の生は炎と剣の連環が幾重にも飾り立てよう
七日の生は闇と静寂に守られ無垢に光り輝くだろう
獣よ踊れ野を馳せよ唄い騒いで猛り駆けめぐれ
いまや如何なる鎖も檻も汝の前には朽ちた土塊
生と死の選択を己に課す命題として自ら問う
されば嘲笑の歓喜する渦に喜劇の幕よいざ上がれ
嵐の夜に吼え立てる犬は愚かな盗賊と果敢に戦う
温かい巣で親鳥を待つ雛は蛇の腹を寝床に安らぐ
せせらぎを聞く蛙の卵は子供が拾って踏みつぶす
獣よ踊れ野を馳せよ唄い騒いで猛り駆けめぐれ
いまや如何なる鎖も檻も汝の前には朽ちた土塊
姫は唄い、諸人を祝い、
そして地獄へ蹴り落した。
こうやってまとめてみると、キリスト教=罪と贖罪の思想、仏教=苦(一切皆苦)と涅槃の思想、というように分けられるかもしれない。
付記:
悪いことをする→「それはあなたの罪になるよ」というのがキリスト教。
悪いことをする→「だからあなたは苦しい(苦しむ)んだよ」というのが仏教。
良いことをする→「神の意志に沿った行いをしているよ」というのがキリスト教。
と、日蓮は言っている。
しかし、他の宗派では釈尊と一切衆生の間に差別化を図っている。
日蓮仏法において成仏という意味では一切衆生も釈尊も仏であることに差別は無いけど、では本仏とは何か?と考えるときに、本仏というのはその一人をして手本となるべき存在となる。
手本であるという存在は師匠であっても、教祖様的な階級とは違った存在だ。
あくまでも対等な立場でありながら手本となる存在が本仏だ。
しかし、対等でないものを有り難かって深遠ぶって釈尊を神格化して人間として見ることが出来なくなったのが多くの仏教団体である。
人間を超えた存在を作るとき、その名において人間を犠牲にすることも厭わなくなる。
仏とは生命なり。
いとーさんの52のコメントについてもですが、私の47と50のコメントについても、きちんとご返事をください。
60でりりこさんのコメントについて、
「いまのところ、あなたの言質には取るに足らない嫌味しかみあたりません。」
とおっしゃっておりますが、
りりこさんは、会話のキャッチボールをきちんとして欲しいとサラダボールさんに要請しているわけであり、単なる嫌味だけを言っているわけではないと思います。
まず、御自分の言いたいことばかりをよく他人にわからない仕方で一方的に主張するのではなくて、まずは相手との会話のキャッチボールを心がけてはいかがでしょうか。
仏の身ならば、なおのこと凡夫の衆生にわかりやすい対機説法を行わなければならないでしょうに(^^;
サラダボールさんの一連の言動は、多くの人にとって不可解に思われていますし、まともなキャッチボールではなくてドッジボールのように思われているのではないでしょうか。
悪気はないのかもしれませんが、ちょっとそのことを心がけてみてください。
釈尊は、いつも相手にとてもわかりやすいように説きました。
マッジマ・ニカーヤなどを読んでいると、どんな相手の質問もきちんと受けとめ、会話のキャッチボールについて天才的な人物だったことがよくわかります。
サラダボールさんも、仏を自称されるならば、マッジマ・ニカーヤなどに見られる釈尊の姿と、同等の御姿を衆生や凡夫のためによくよく心がけるべきではないでしょうか。
一言あつしさんの【63】に補足させて頂きます。
あつしさんは私が信頼して任命させて頂いた、
従って、あつしさんがされた、コミュニティ運営上の発言は、
よろしくお願いします。
>63
ドッチボールですか(笑)
集団化してこちらに一斉に複数のボールをぶつけてこようとするのはそちらですよ。
1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。
対等の話し合いとはよべません。
いましばらく、やることあるから、ほかのことはあとから書きます。
私は、いとーさんとの1対1の話を希望しているのです。
大学院まで出ていると豪語するなら、やるのかやらないのかどちらかにして下さい。
「集団化して」
「数を頼らなきゃ」
他の人に代わって答えて頂いたことがありましたか?
私が丁寧に論拠を挙げて説明しても、
複数の方に批判されているだけの話です。
妙な言い掛かりは、やめて頂きたいと思います。
『無量寿経』に関して私に教えて欲しいということで、私に質問しているのですよね?
以前、メールで申し上げたように、
教えてくれというから教えてあげているわけですが、
私に教わるつもりではなく、私に喧嘩を売るつもりなら、
私も相応の態度を取らせて頂きますので、
そのあたりをはっきりさせてください。
私に教えてもらうような言い方をして、私にだけ論証責任を要求し、
失礼しました。
投稿が重なってしまいました。
それならお断りです。
私も暇ではないので、まともに話を聞かない人に講義するつもりはありません。
それとも、一対一で私とガチンコ勝負すると言うことですか?
それならお受けします。徹底的にお相手しますよ。
ただし、サラダボールさんの発言に、一々資料の提示と論証責任を要求しますので、
覚悟してください。
692008年04月11日 17:33 サラダボール >68
では、新トピックたてたので、こちらでどうぞ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29969117&comm_id=2135313&
それでは、『無量寿経』に関する議論はそちらで行いたいと思います。
こちらのトピックでは、
その際に、今後はサラダボールさんは論拠・資料を挙げて答えていく。
ということで、よろしいのですよね?
ちょっと待ってください。
コミュは全員参加のもので、私的なものではありません。
サラダボールさんがいとーさんと二人だけで議論したいということの理由を、まず御説明ください。
私も含めた他の当コミュのメンバーの合意もなく、勝手に二人だけの議論を立てられても困ります。
少なくとも、そうしなければならないことのきちんとした理由と説明をサラダボールさんは述べてください。
また、65のコメントは、私の63のコメントへの返事に全くなっておりません。
そのような態度で、「仏」を自称僭称されても、説得力がないのではないでしょうか。
まず、いとーさんの62と私の63における質問にお答え下さい。
<<1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。
そもそも、私は1対1にサラダボールさんといとーさんがなるべきだと思っておりませんし、そのことに同意していません。
また、サラダボールさんから、きちんとその要請も受けておりません。
数を頼っているのではなく、まともな感覚の第三者が見ていて、あまりにも対応がおかしいので、サラダボールさんに対してその態度とあり方に疑問と異議を申し立てているだけのことです。
私は釈尊をとても尊敬しているので、このようにまともな対応もできない人が、仏を僭称することに大変な不快感を持っているということを、率直にお伝えしたいと思います。
いとーさんが同意されるならば、お二人だけで新たに立てられたトピで議論してもいいのかもしれませんが、どれだけいとーさんが誠意と論理と証拠を示されても、サラダボールさんがまともな感覚の持ち主から見たらとても受け入れられない、対話のキャッチボールも成り立っていない勝手な言い草ばかりされることが危惧されます。
やはり、当時者だけでなく、公平な第三者としてのオーディエンスから逐一コメントされることは、議論の公平性を保つためにも必要なことではないでしょうか?
これは、私以外のこのコミュのメンバーから指摘があったことですが、サラダボールさんは「未熟」な人間であり、「現代文もまともに読めない」、「キャッチボールもできていない」人だという指摘がすでにたくさんされていますよね。
私も、65のようなコメントを見ていると、そのような感を抱かざるを得ません。
いとーさんは、僧侶としての勤めも忙しく、コミュの運営もせねばならず、サラダボールさんだけに関わりあえるほどお暇ではありません。
また、どれほど労力と誠意を尽くしても、それを無にするような人物だと、私に限らずこのコミュの多くのメンバーがサラダボールさんに対して感じているのではないでしょうか。
にもかかわらず、いとーさんにそのような労力と時間の無駄を強いることは、大変忍びない申し訳ないことだと思います。
サラダボールさんが、いとーさんとの対話をお求めならば、まず二人で対話しなければならない理由をきちんと示し、およびこのトピですでに出されている質問にきちんと答えて、まともな感覚の持ち主であることを第三者にもわかるようにしてください。
72 2008年04月11日 18:26 サラダボール >70
>71
だが断る!
(-"-;)
彼の[仏]は[ほっとけ]と読むらしい 。。。。 (^^;ゞ
自分の説明責任は放棄するということですか?
そのような無責任な方は、相手にできませんね。
75 2008年04月11日 19:01 フロル そ??ですね??。
サラダボールさんは「議論をしようとするものが取るべき適正な態度」からはずれた態度をおとりになることがよくおありになって、それで多くの人が「こら」とか「ちょっと」とか「なんですかその言い草は」ともの申したくなっただけのことですよ。
別にサラダボールさんが論者として隙がなくて手強いので周りのものがいとーさんをフォローしようとして発言をするわけじゃないと思いますが。
お行儀の悪い子に「これっ」と注意したら、たまたま怒声が重なった、っていうくらいのもんで。
それをいとーさんが数を頼みにしてサラダボールさんを攻撃しているようなことをおっしゃるとは随分しょってますね。
大体、論拠もあげないで主観を言ってるだけの論証になってない発言に、論理上のつっこみを入れることもできませんよね・・・。
論証がなされてないので、論証に対する攻撃は不可能です。
みんながしたのは、サラダボールさんの態度に対する注意でしょう?
行儀の悪さを指摘するようなしょうもないことまで、いとーさんがしなきゃならないのがあまりにもお気の毒だとおもったのじゃないですかね、皆さんは。
(私はそうですけど。)
>74
>75
トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。
そうですか。
私も恐らくコミュニティの他の皆様も、サラダボールさんとお付き合いするのが、
いい加減「めんどっちぃ」になりましたので、
申し訳ないのですが、このコミュニティから出て行ってくださいませんか?
自主的に出て行ってくださらないなら、私の権限で強制退会&アクセス禁止にさせて頂いてもいいですよ。
理由ですか?
「コミュニティのガイドラインに反している」それでもう十分でしょう?
一、お互い教えあおう!
一、間違ったことを教えないように気をつけよう。
一、教えてもらったら、素直にありがとう!ごめんなさい!
一、違うと思うときは、素直に違います!
一、自分の信仰を大事にしよう!
一、他の人の信仰も大事にしよう!
一、悪口は言わないようにしよう!
私はせいぜい、最後の一項目だけですが、
サラダボールさんは、七項目のうち、確実に五項目に反しています。
Steveは、相手を罵倒しまくっていましたが、その際に必ず根拠を述べていました。
そして自分の信仰に関する質問には、常に誠実にお答えくださっていました。
その論に納得いくかどうかは別として、 Steveの人柄や情熱に心動かされたし、
議論を通して多くのものを学ばせて頂きました。
ど根性さんは、ガイドラインに反することを一度もされなかったし、
根拠のない発言を一切されませんでした。
議論は最後まで平行線でしたが、pppの教えが釈尊の教えに直結することを、
知的誠実さを尽くして私逹に接してくださいました。
私はど根性さんの人柄や知性に大いに感服し、
御縁を大切にさせて頂こうと、マイミクにさせて頂きました。
お二人ともpppの素晴らしさを伝えてくださる素晴らし方です。
お二人を通して、pppの教えの素晴らしさを教えて頂くことができました。
私はサラダボールさんから学ぶ要素は、「反面教師」として以外見いだせません。
それでも、今まで論証責任を放棄した発言に 、我慢に我慢を重ねてきましたが、
今回遂に、自分の信仰について語ることすら放棄しましたね。
もう限界です。
害をまき散らすだけの存在であることは明かです。
もういいでしょう。
他の方の迷惑になるし、管理人の私の権限を行使させて頂きます。
コミュニティから出て行ってください。
<77 いとーさん
私もいとーさんのご意見に賛成です。
同感です。
「トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。」
といったような、幼稚で無責任な態度を放置しておいては、まじめにこのコミュに参加して実のある真剣な議論をしたいと思っておられる参加者の方々に対して非常に迷惑ですし、不快感を与えるでしょうし、妨害になります。
サラダボールさん、自らの態度を改めることも非をお感じになることもできないのならば、もうそろそろこのコミュから出ていってくださらないでしょうか。
私が単にサラダボールさんについてよく知らなかっただけなのかもしれませんが、一番最初にやりとりをさせていただいていた頃は、まだ今よりもずっと言葉遣いも態度もまともな方だったように感じておりました。
その頃と比べて、どういうわけか、サラダボールさんは劣化の一途を辿っておられるように思います。
こんなに幼稚で無礼な態度をとる人とは、昔は思いもしませんでした。
ここしばらくのサラダボールさんの一連の態度は、非常に残念に思います。
なんとか改めて欲しいと思って苦言を呈してきましたが、もはやこれまでと思います。
もうこのコミュニティから出ていってください。
このコミュを心から愛し、大切にしているメンバーの一人として、お願いします。
>77
ここでは黙秘権を否定するのですね。
言いたくないことを黙っている自由を認めないのですね。
質問には絶対答えなければいけない義務なのですね。
黙っているのが悪いとは全く思えません。
知的誠実と言えば聞こえはいいけど、
私には知的誠実の名の下に人を見下したいだけにしか見えませんでしたよ。
802008年04月11日 21:07 サラダボール >78
どいつもこいつも管理人のYESマンみたいな腰巾着ばっか(笑)
そんなに一人で5人も6人もいっぺんに全部に答えてしまうと、論点が多岐にわたり過ぎて処理しきれない状態になるのは目にみえてるよ。
そういう状態に追い込みたいのだろうけどね。
言いたいことはそれだけですか?
一切謝罪の言葉が頂けなかったのは残念ですね。
私は当コミュニティの管理人として、常に知的誠実さを尽くしてきました。
今まで一度も、根拠のない発言をしなかったことを自負しています。
私は、コミュニティ参加者の皆様から一銭も頂いておりませんが、
コミュニティの今後のために、参加する方を選ばせていただきたいと思います。
相手に対して論証責任を求めている人物が、
自分の論証責任を放棄して無責任な発言を行うことは絶対に認めません。
既に警告させて頂いた通り、
コミィニティからの強制退会&アクセス禁止にさせて頂きます。
今日までお疲れ様でした。
さようなら。
管理人より 皆様へ
サラダボールさんを強制退会&アクセス禁止にさせて頂きました。
これまでさんざんコミュニティのガイドラインに反した行為を繰り返し、
態度を改めるどころか、更なる暴言を繰り返されましたので、
コミュニティの運営上、必要な処分を下させていただきました。
全く不本意なことであり、大変残念に思います。
皆様にも不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
当コミュニティは、信仰に関して真剣に語りあうコミュニティです。
私は常に知的誠実さを尽くしますし、無責任な発言は認めません。
その方針は、コミュニティ立ち上げから一貫しております。
参加者の意向にあわせて方針を変えることはありません。
今後も、その方針でいきたいと思いますので、
皆様どうぞよろしくお願い致します。
合掌
83 2008年04月11日 23:29 いとー コミィニティを退会させられた方が、トピックごと削除してしまったので、
もう一度トピックを立てておきたいと思います。
『無量寿経』で二乗成仏が可能か?
いや、よく今まで付き合った。いとーさんの粘り強さに尊敬の念を感じます。
あたしなんぞ、とうに絡むのは時間の無駄だと思って眺めてましたもん(爆)
やっぱり日本語がどうしても通じない人っているのかなぁ。
>myinyaさん
ありがとうございます。
譲歩できるぎりぎりの所まで譲歩して、
なんとか対話の形式を成立させようと思いましたが、
とうとう、キレてしまいました。
論拠を挙げた上での批判なら大歓迎ですが、
最初から論拠がなく反証しようのない批判を行う相手と、
対話を続けるほど太っ腹にはなれませんでした・・。
私が、複数の方にヘルプしてもらっているような言い方は、
どうにも納得いきませんでしたね(苦笑)。
私はできるだけ複数の方に指示して頂けるように、
どきるだけ明晰で論理的な文章を構築心がけてはいましたが・・。
http://contents.oricon.co.jp/news/ranking/38398/
これを見ろ。エロゲ中毒で一度に3行以上のテキスト見ると吐き気する奴は休みながら見ろ。
な。見たよな。理解したな。ジャンプすんな。金はいい。
オタに媚びてるって吠えくさるんで、一時期あたしも相当参って
社長に泣きついたら「電車男いいじゃん愛ちゃんエルメスじゃん」とか笑ってんの高卒が。
恨み晴らさでってんで某日収録のトークで「オタ大ッ嫌いなんです、ウザいし臭いし」
って言おうとしたら事務所がスナイパー潜ませてて「おt」まで言った
あたしの口ン中に暴徒鎮圧用のゴム弾が飛び込んできた。
心の傷は癒えないあたしに飛び込んできたニュースがこれよ。
笑った。泣きながら笑った。最後は蹲ってただ泣いた。今なら言える。オタいらねえ。
オタは死ね。大塚愛にオタ不要。
10代から40代までのマラビンビンな世代一般の声として、
今後また大塚愛はオタに媚びてるなんて吐かす豚は躊躇なく殺す。
二度と大塚愛がオタに媚びてるとは言わせない。
糞にたかる蛆は地を這え。あたしは衆生の憧れを受けて大空を翔ける真白き鳥だ。