2010-09-06

日本人家族観

国柄探訪: 日本人家族観

 先祖から子孫への連綿たる生命リレー

中間走者として自分がいる。

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  • ■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

 秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ土下座するような形でそのまま動けなくなった。

 両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人常識的な感覚であろう。

 かつて神戸中学生小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家加地伸行大阪大学名誉教授は、こう書いている。

 ・・・もし私が加害者中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]

 殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。

 加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚意識」だとする。

 こんな所からも、日本人家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。

 日本欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。

 たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人普通感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。

 欧米キリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。

 また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフ日本人では思いつかないな、と感じたことがある。

 当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

 実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代日本も同じであり、現代日本人家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。

  • ■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■

 古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。

 「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

 また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。

 先祖祭祀というのは、先祖キリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。

 キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

 よくキリスト教仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。

 魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

 インド人にとって見れば、魂は他の人間動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。

 日本火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。

 これと同様の感覚日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後アジア太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。

 これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航よど号ハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。

 共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人死生観が根づいている証左である。

 輪廻転生を信ずるインド仏教中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

 そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

 わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。

 それでも日本にも仏教輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞阿弥陀仏衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

 しかし、親鸞弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀先祖供養を行っている。

 今日日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。

  • ■6.仏壇に向かう■

 仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

 日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]

 仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。

 そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。

 今日自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。

 核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。

 もう一つ、インド仏教中国日本先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。

 しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

 そこで中国日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

 前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

 オウム真理教インド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

 「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

 しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。

 さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分利益しか考えない利己主義者になってしまう。

 西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。

 わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。

 しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

  • ■9.「なぜ生命は大切なのか」■

 こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

 それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。

 先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命リレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。

 その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

 これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。

(文責:伊勢雅臣)

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1. 加地伸行家族の思想』★★、PHP新書、H10

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