はてなキーワード: 阿弥陀とは
人が内心で何を信仰するかについてはそりゃ自由であるべきだろうし、「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すべし」なんてトンデモも本当にそれを信じたくてそれで自分は救われるんだってんなら勝手にしたらいいと思うけど、それは最初の勧誘の段階でちゃんと「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すってのもうちの重要な教えのひとつですよ」と明言した上で本当にそれに魅力を感じた人だけが入信すべきであって。
信教の自由のうちの「宗教結社の自由」、わけても布教・勧誘については「実態実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って勧誘するのは違法行為」って明確に宣言してほしい。医者とか不動産屋とか金融業者には客に対する「説明義務」ってのがあるけど、それの宗教版みたいな感じ。
統一教会に限らないんだけど、カルトって入り口では全然当たり障りのない道徳的な話とか心理学の小ネタみたいなのを繰り広げておいて、それで心の弱ってる人を引きこんだ後にちょっとずつ「疑いの心こそが不幸を呼ぶのでまずは一心不乱に教祖様を信じるのです」とか「布施と勧誘こそが最速でカルマを清める顕行なのです」みたいなことを吹き込んで最終的には勧誘集金献金マシーンに仕立て上げるんだよね。いわゆるマインドコントロールってやつ。だからこそ、「いやお前最初の勧誘の時はそんなこと言ってなかったよね?なのに中入ったらなんかもうカネカネばっかじゃん!」みたいなツッコミがちゃんと機能するかどうかって、割と重要だと思ってて。
出版物とかホームページとか勧誘の時に言ってきた事とか、そういう「外向けの売り文句」といざ入信した時に実際に内側の信者に対して触れ回ってることがまるで違っていた時に、何人かにひとりでもマインドコントロールの効きが弱くて「あれこいつら入口を偽って引き込みやがったな?」って気付けたら、その人がちゃんとそれをタレ込める窓口があって教団にペナルティかけれる体制みたいなのがほしい。「青春を返せ裁判」も最高裁確定までに二転三転したうえに14年かかってるし、現状はそこんとこのハードルが高すぎる。
もちろん教義の真髄みたいな部分を最初から一般人に理解できるように説明するのは無理だろうし、あと勧誘時の説明がどこまでだったら「ちゃんとした説明」でどこまでなら「まるで違う」になるかって厳密に定義するのは難しいだろうけど、前者については医者とか銀行とかだって同じことで「厳密にはもっと色々あるんだけど嘘じゃない範囲でおおむね必要な分の概要と全体像をきちんと説明する」ってのはやればできる話だし、後者についてはそれこそ裁判で判例を積み重ねていくべき話だと思う。
なにより「入り口で言ってる教えと全然違う事を内側で信者だけに言わない」ってルールはカルトでない真っ当な宗教にとっては何の足枷にもならないはずで、まあ葬式仏教なんかはこれまでその辺の説明を手ぇ抜いてきたきらいはあるけど、法で「義務として今後はちゃんとそれ言いなさいね」ってされたら普通の宗教にとってはむしろプラスですらあると思うんだよね。「実は親鸞聖人は死んだら自分の骨は鴨川にでも捨てろって言ってて四十九日とかもあくまで阿弥陀さんの救いに思いを馳せる為の機会って位置付けなんすよ」みたいな話、今だって真面目な坊さんほど法要の時とかにちゃんと言ってくれるし。
カルトは結局「その内側で言ってる指示およびその指示の根拠となる教義」がだいたい一般社会の道徳感とは相入れなくて、しかも奴らは相入れないこっち(社会)側が間違ってると本気で思ってるから嘘をつくのもマインドコントロール仕掛けるのもまったく躊躇いがない。で、勢力を広げるには何かにつけて金が要って、だからこそ信者にも無茶な献金をさせようとする。来るもの拒まずで本当にただ粛々と信仰してる分にはそもそも家庭崩壊レベルの献金なんて要るわけないし、宗教を信じる自由って本来そういうことなんじゃねえの?って。
マインドコントロールって言葉は1990年代に一度脚光を浴びたけど、改めてもっと周知されるべきだしそのヤバさに社会の側もちゃんと対策を取るべきだと思う。
【追記】
「実態と違うこと言って」ってのがなんかちょっと紛らわしい言葉だったので、「実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って」に変えました。
1. 白装束に着替え、儀式での作法を覚えさせられる。「南無阿弥陀仏」と10回唱え、独自の拝み方を
覚える。信貴山朝護孫子寺の張り子の虎のように、首を振って頭を打ち付け眉間(白毫)の第三の目を開
2. 儀式は仏間で行われる。手を消毒薬で洗い、口を塩水でゆすぎ 再び手に塩をつけて流す。一人ずつ
順番に並び、仏間に入る。目をつむり、胸元で死人の様に両手を組み、襟をつかむ。合図で前にある打敷
きに頭を打ち付ける。
「よし」と言われ、信心決定となる。お礼で、五体投地と「南無阿弥陀仏」を唱える。
3. 仏間は暗い布で囲われ、祭壇と阿弥陀如来の掛け軸がかかっている。 日光菩薩、月光菩薩と一体に
なる儀式。善知識と対面して座り、片手を合わせる。善知識の「南無阿弥陀仏」を復唱した後、強く息を
吹きかけられる。口をつけた盃の水も飲まなければならない。日光菩薩は10回、月光菩薩は5回行う。
4. このことは絶対に他言してはいけないと宣誓させれれる。順番に、鈴を鳴らし、「絶対に他言致しま
せん」と誓約。
5. 次の日は、朝早くから白装束で仏間に入る。その後、菩薩となった証を見せ
るとのことで、黒法衣で外に出る。太陽を直視することができるようになったとのことで、太陽の輪郭が
はっきりと見える。太陽を見た後でも足元の暗いところがはっきり明るく見える(日想観という)。
6. 儀式を受けたので、死して六道輪廻に入らず、阿弥陀のもとに行ける身となったと説明。そして、
7. もうひとつの証は、化仏化菩薩を見ることができる。また外に出て、黄法衣の方に見方を教えて
もらう。方法は、青空を見上げ、眉間の20cm程前に焦点を合わせていくと、空中に白い小さな光が飛
び回るのが見える。眼鏡をかけても見える。背景を白い壁に移しても見られる。
【参考:ブルーフィールド内視現象】 http://nenbutsushu.blog.163.com/blog/static/192499239201171183815163/
8. このほかに月を見ること(水想観)もある。日想観・水想観・化仏化菩薩、この三つが重要であ
る。最後に「南無阿弥陀仏」と写経した紙を仏間に供え、線香をあげて経を唱える。そして、写経した
「南無阿弥陀仏」の紙は、家に帰り、夜中12時前にへその上に貼って眠った後、早朝、近くの川に流し
に行く(御六字)。
なわとび:600回
ボクシング:157kcal
徒歩:98.9kcal/3333歩
こないだちょっとでかけるんでその準備と後片付けでごたごたしてたらあっというまに一週間以上経過してた
今のところまだこれといったのはない感じ
ゴジラとかグリッドマンのとか録っただけでまだ見てないのも多いけど
ひげを剃ると恋と呼ぶにはきもちわるいがどちらも相手役が最初に身体の提供を申し出る話だった
オッドタクシー、なんとも言えない味わいがある
お笑い芸人が色々出てるみたいだけど特にお笑いでもないみたい?
セブンナイツレボリューション、よくあるスマホゲー前日譚っぽいけど、ゲームのビジュアルとシステムをそのままアニメにもってくるとなんとも言えない陳腐さがでてくるので、適宜アレンジしないときついよなといつも思う
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教の需要がなくなっているのは仕方がない。
もともとの仏教は、個人が出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代や中世の時代にはそうとも言えない。
古代や中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教の教義を知ること自体が困難。
そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間だけが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識から生まれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代や中世において庶民を救うには必要なことだった。
だから、現代の視点から大乗仏教を宗教の堕落みたいに言うのは間違ってる。
ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教の聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。
以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。
→浄土宗
ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。
でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。
はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう
法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ
おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!