はてなキーワード: 出家とは
1年くらい前までは頭の中が欝っぽい考えでグルグルに回ってても「それでも働かないと生きていけないし」などと言いながら過ごして
まだ20代なんだけど、若いながらも死にそうになっていた。親類が死んだこととかも関係して精神が滅入ってたのもある。
元々病みやすい部類には入っていたのかもしれない。
よく病んだとか言ってたし。今だったら10代の娘とかでも、「ちょー欝なんだけどー」だなんだの言ってない?
そういう悩みから解放されたい一心で、例えばカウンセリングに行ったりとか、まぁ各種様々な方法を探しまくった。
自己啓発とかそんなんに頼ろうが、もう身体が辛くてどうあがいても生産性が上がらなかった。だから直接的に効く方法を探しまくった。
でも効果がそもそもなかったり、一過性であったり、副作用があったり、なにぶん辛いことが多かった。
「金と時間と気力を消耗する」ものばかりだったわけだ。んな方法が続くわけない。
もしかしたら体質でどうにもならないもんなのかと思っていた時に出会ったのが今回ご紹介する「ヴィパッサナー瞑想」。
最近はテレビなんかでも出ているときがあるので知っている人がいるかもしれない。
それなりに有名になってきたのだ。この記事を読んでからでいいんで、googleで「ヴィパッサナー瞑想」で検索してください。
俺が絶対的に要望としてもっていたのは
1.金がかからず、高い質
2.気力がいらない
精神の悩みでいうと
1.胸のつまり(なぜつまるのか、よくわからんが、呼吸するのが辛かった。生きるのがむなしかった。)
2.心の疲れ(潤いがない。乾きまくり、人間にとって優しさが大事とはよく聞いていたけど、なぜかそれを心でよく感じていた。イライラがしんどかった)
3.頭ん中グルグル回る悪い想像(これは今思うとこれに振り回されていたんだなという感じで、重くて、辛かった。)
の3つ。今思うと、よく↑で仕事していたと思うわ。過去の自分を振り返って、自分で自分を尊敬もするが、もっと早くヴィパッサナー瞑想を探せよ!という気持ちにもなる。
「ヴィパッサナー瞑想」は、簡単に言うと今という瞬間に完全に注意を集中するメソッド。俺が最初に読んだのは「意のままに生きられる―ヴィパッサナー瞑想法 」という本だった。
アマゾンの評価も高かったので、買ったのだが、この本が今思うと当たりだった。
開発者のブッダさん自身のむなしさから抜け出すために作られたエピソードとかが載っていて、意欲をかき立ててくれる。(DVDがついてないのが、惜しいけど。)
瞑想法自体はとにかく簡単だった。何しろ一番始めに乗っていたのが歩くままやる瞑想法だったから。
さらに「イライラが止まる」やら「頭の中のガラクタがなくなる」やらの効果が書いてあった。
「本当に歩くだけの瞑想法でこんな効果あんのかよ!?」と思いながら、本を読みながら部屋の中を歩いて、「歩く瞑想」をやったのだった…
「左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、
「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。同様に右足も、足の感覚を丁寧に感じながら、ゆっくり歩く。
このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続ける。」
というのがやり方。実に簡単。
で、これがめちゃくちゃ頭の中でうずまく妄想を止めるのによかった!
寝る前に座る瞑想法も試してみたのだが、同じようにからだの感覚やこころの感覚を、実況し続けたのだが、いつもはなかなか寝れないのにそのまま寝ちゃっていたのだ。
そして爆睡。ほんとは寝ちゃだめなんだけど。
子供の頃なんて毎日爆睡だったけど、大人になってからは、そういう感覚ってなかった。それが1日にして蘇った。
朝起きたとき「え?……あぁあの瞑想して寝てしまったのか」という感じでぽかんとしていた記憶がある。
で、いつもだったら起きたくないなぁ、あれやらなきゃなってふとんの中でグズグズ妄想が頭ん中を回るんだけど、それに気づく。
あぁ、いつもこの頭の中を回るガラクタに惑わされていたんだって気づく。
精神学者の名越康文も朝の自動思考について仏教を例に説明している。http://igs-kankan.com/article/2011/08/000476/
1日にして「ヴィパッサナー瞑想法すっげえええええええ」となったのだった。
んでその後は、買った本に乗ってある奴を徹底的にやった。歩きながら瞑想するのは体と心が同調されていい。
とにかく気力がいらないという点がよかった。つまり、今に集中しろ、現在に気づけ、観察しろ、ただ知れってことだから。
つまり、"Don't think, Feel!!!"というブルース・リーが説く状態に持っていくということ。
1週間くらいしたら、こころの状態がすこぶる良くなっていた。身体が新しくなった感じがして、呼吸するのが気持ちよかった。
心の疲れはちょっと残り続けていたのだが、3ヶ月くらいやってたら、気付いた時には「あれ、心がなんか静まってる」となってあの重い感覚は7割方消えていた。
怒りも静めることができるようにもなった。
で、今ちょうど1年くらい経ったんだけど、すこぶる調子が良い。歩くのが楽、呼吸するのが楽、良く笑うようになった。このヴィパッサナー瞑想法との出会いが間違いなく自分を変えた。
心の調子がよくなると、体の調子が変わるのは確か。「なんか悟り開いたみたいだな」とよく人から言われます。前までは悟り開いてなかったのかもしれない。
俺のオススメはスマナサーラ長老と小池龍之介。まあ前者の方が俺は好きかな。
大抵この2人が今の瞑想入門の売れっ子って感じ。(他にも色んな入り口があるってことね)
是非、オススメなので、ヴィパッサナー瞑想法知って下さい。大きい本屋にいくと、ヴィパッサナー瞑想コーナーがあったりします。店員さんに聞くといいです。
ちなみに日本テーラワーダ仏教協会というところに載っていました。無料で見れます。http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html
余談だけど、このヴィパッサナー瞑想法を開発したブッダさんという人は、凄まじく天才なんだそうだ。
若いときは、王国の王子として生まれて恵まれた生活を送ってたんだけど、生きることのむなしさを感じて、出家して、悟りを開く(笑)
で、仏教っていうの教えるんだけど、それは神やら儀式やら主義じゃなくて、内なる現実をありのままに観察することによって、その本質を理解しろよって言ったんだ。
話が、本当かどうかはこの際どうでもいい(俺は本当だと思うけど)。ヴィパッサナー瞑想法が効果あるのは間違いないのだから。
匿名ダイアリーは巨大ブログだと誰かが言っていた。是非、ヴィパッサナー瞑想法を拡散してほしい。
ちなみに仏教団体(色んな怪しい人達もいるから気をつけてね)の回しもんじゃありません。とにかく良いものには広まってほしいと思う一心です。
勝手な言い草だけど「ヴィパッサナー瞑想法合わない」なんて言う奴は、この世にいないと思う。万人向けに作ってあるから。
というか、西洋人でも瞑想を生活に組み込んでいる人がいるのに、日本人が正しいやり方を知らずに実践していないのはマジでもったいないと思う。
好きなものをその時々に応じて「価値がある」とか「美しい」とか「建設的だ」とか自分勝手に賞賛する
…いやごめん、それは憶測かもしれん。
でも高確率で人は好きなものを自分の周りに置こうとしたり、追い求めたりする。
わざわざ自分の嫌いな曲を集めて聴く人なんてまずいないし、
苦手な人と付き合うという人も…いるかもしれないけど苦痛だと感じているかもしれない。
(自分が何かを嫌うという「対象への嫌悪」それ自体を好む人はいると思うし、実際にいる)。
ネガティブな発言は人を不幸の方向に導く。
不幸せになりたい人なんてのはほとんどいなくて、みんな自分が幸せになりたくて必死だというのが現状だ。
金がほしいし、
恋人がほしいし、
仕事したくないし、
気ぃ遣うの疲れたし、
時間がほしいし、
休みたいし、
あのボケナスの脊髄ひっこぬいてフニャフニャにしたろかっておもうし、
あー遠いなー 幸せって。
だからまあ、どこの誰かも知らん人のネガティブ発言を聞いてるヒマなんかこれっぽっちもない。
ストレスばっかりたまっていく。
もうちょっと説得力のあるというか、全体の最大幸福のための話だと、
要するにネガティブな発言を吐いても、主体も客体もだれも幸せにならない。
(私はいいけど)他の人が迷惑するからやめろ、という感じで主語が大きくなる。
ネクラではない「明日が楽しみな人たち」は、自分が幸せだと周りも幸せになるということを知っている。
その逆の発想で自分の不幸を拡散すれば周りも不幸になってしまうじゃないかとかなり注意勧告される。
更に明日が楽しみじゃない人たちにとってもこの説はけっこう支持される。
糾弾されるのはネクラでネガティブ発言をやめられない人たちだけになってしまった。
(ベテランのネクラになると自分をネガティブな気持ちに落としこむことですら快感になったりする。
それでもネガティブな発言をする人はあとからあとからどんどん増えていく。
仕事場や学校でたまるストレスを愚痴として発散するのと似ている。
みんな人生という仕事場でたまったうっぷんをちょっとでもごまかしたくてネガティブ発言をする。
「イヤなら見るな」と言われてもムリだ。
あーじゃあ、そういうネクラな人の心理状態を鑑みて、慎重になってネガティブ発言は見逃してあげるべきなんだろうか?
友だちのグチを聞いてあげることは許して、ほかの人のグチは聞かないし許さないだなんて不公平なのかも?
そんな誰かが割を食うような解決方法はイヤだなあ。
ネクラな人だって「我慢してやってんねんぞ」みたいな態度を感じると気ぃ悪いわ。
できればwin-winの関係がいい。
もうちょい考えを深めてみよう。
論争が起こることのそもそもの疑問が二つある。
ネクラな人たちにとってこの世界は、悲しみとか怒りとか醜さとか無意味とか悪に溢れているように見える。
しかし、もっと冷静になって考えるとそれは世界の一側面でしかないことに気付く。
ネクラな人たちが見る世界と同じくらい、そこには楽しみとか喜びとか美くしさとか価値とか善がある。
実際、自分を劣悪な環境に置いていれば、どんどんネガティブになっていくけれど、
ちょっと笑える話を聞いたり、
お酒を飲んだり、
気の置けない友だちと話したり、
引越ししたり、
仕事をやめたりするだけで、なんかちょっと楽しくなる。
環境の改善する度合いが高ければ高いほど(つまり劣悪な環境から離れれば離れるほど)、
(世界が変わるのを期待して待っていても、その前に狂うか死んでしまうかもしれない、
もっと悲惨なのは、より悪い方に世界が変わっていくかもしれないということだ)。
ぼくの書いたことがもし正しいとすれば、ネガティブな発言を我慢するだけでない、もう一つの道が見えてくる。
世界のことをよく知っている人がいるならば、この世界はどうしようもないと思っている人に向かって
と教えてあげることである。
これがやはり根本的な解決となる。
できれば言葉で教えるだけでなく、一緒に楽しいことをするといい。
言葉による理論ではなく体験による感動で理解してもらうといいんじゃないかな。
人にはその避けがたい特性があるから、誰か忍耐強い人が世界の素晴らしさを説く前にケンカが起こってしまうのだ、
たぶんね。
しかし、だからといって個人的には「対象が嫌いだ」という感情を封殺してしまいたくはない。
人はなるべく朗らかに、全てを愛する博愛主義者のように生きたほうがいいんだろうか?
そんなせまっ苦しい考え方のために人が生きているとは思えないし思いたくない。
人はもっともっと多様な価値観や考え方を持っていいと思う。
ニューギニアの島では弔いの儀式として食人の文化があった気がする。
今はない?
かならずしも弔いのために用いられた儀式ではない?
それを野蛮で邪悪な悪習だと言えるのは現地人でない人だけである。
アフリカの牧畜民ヌアのコミュニティでは、不妊の妻にかわって姉妹が夫の子を生んだり、
またその逆や、あるいは夫が子を持つ前に死ぬと兄弟が亡兄の妻との間に子を作ることがある。
前者の場合は夫の子であり、後者の場合は弟の精子で宿った命でも、亡き兄の子どもということになる。
この社会でいう夫とは、彼らの生業手段である蓄牛を婚資として支払ったものだ。
日本では親子関係は血のつながりなんだけど、彼らは牛のつながりであって、
ぼくらは彼らをバカにする時、彼らはぼくらをバカにするのだ。
「血のつながりってwwwwwつながってるわけないやろwwwwww」
ある事象に価値があるとかないとかって判断してしまうのは多くの場合、
特定のコミュニティ内でしか成立しない狭い考え方による独断と偏見でしかないのかも。
あれ?ちょっとまてよ…。
ぼくさっき”個人的には「対象が嫌いだ」という感情は封殺してしまいたくない”と書いたよねえ?
んで、
今その理由を書いたよねえ。世界にはいろんな価値観を持った人がいて、
それを認め合っていいんじゃねーの?みたいな。
「みんなちがってみんないい」論法。
でもちょっとまって。
ネガティブな発言をする人は、世界を(あるいは自分を)嫌悪している。
バーロー「あれれー?どっちの人たちも{きらい}って感情は同じだねー。」
そうなのだ。
ネガティブな発言というのはポジティブな感情ではない。絶望とか嫌悪感の表出なのである。
ネガティブ発言を許せないという人は「○○が嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている。
これはなんともバカバカしい話だ。
自分の嫌いは認められても、他人の嫌いは認められないと言っているのだから。
ぼくは個人的にはみんなちがってみんないいと思ってるんやけど、
その前提が成り立つことを許してもらえるなら、
「自分の嫌いを認めるなら、他人の嫌いも認めていいんじゃないか?」
ってことになる。
そうじゃないと「ネガティブ発言やめろ!」と言うたびに自分のクビを絞めてることになる。
ブーメランが飛んですぐに返ってきてる。「あんたがやめろよ…」と。
このバカバカしさは「ネガティブ発言をするな」という注意喚起のけっこうな抑止力になるかもしれない。
わーい!ぼくらは誰のことを嫌いと言ってもいいんだぞー!
○○のバカヤロー!!必死に走って間に合わずに目の前で電車のドアが閉まってしまえー!!!
というわけで
これでみんなハッピー?かな?
間違ってるかなあこれ?
2つ目は若干強引な感じもするから、もっといい方法あったら教えてほしいな~◎
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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追記
現段階で寄せられたコメントにできる限り返答していきたいと思います。
どうしても批判のほうに目がいってしまって精神的にキツいです。
お前が一番ネガティブなんじゃね?って誰か突っ込んであげるべきだと思うの
ぼくはたぶんネガティブなんだと思います。ポジティブそうに見える書き方になっていますが、
ネガティブさを排斥しようとする状況が見るに耐えられないのです。
せめて「死にたい」ぐらいは言わせてほしいのです。ほんとに死なないために。
そういう人がたくさんいると思うんです。たぶん。
殺したくないんです。
ごめんなさい。生きててすいません。
生きてるんじゃなくてまだ死んでないだけのような気がしています。
ぼくはあなたのような人と共に生きたい。許しあいたい。強い人が怖い。
よかったらぼくのブログを読んでください。
http://d.hatena.ne.jp/yukkun1986/
新人の頃、意識的なマイナス思考が仕事には重要だと教わった。物事のいい面よりも隠れた危険性を常に考えろという「かもしれない運転」的なやり方
建設的なマイナス思考ですか。たしかにそれはいいのかもしれないですね。
未来という不確定性を検証するための思考はプラス・マイナス関わりなく可能性の一つとして考える余地があるのかもしれない。
ぼくはなんの役にも立たない(かもしれない)マイナス思考も封殺したくない。
あとでよむ
お願いします。
そうだね~、「いけない」ていう義務的じゃなくって、「いいたくないなぁ」ってね、うん。
誰も傷つけたくないのですが、それよりも自分が傷つくことのほうが怖かったりします。
これに関して自分は結論がまだない
ぼくもたくさんの意見をいただいて、
これで終わりにすべきではないと思いました。
そうなんです。相手の気持ちを考えることができれば、ぼくらは少しは寄り添えると思います。
問題は、双方にその余裕があるのかということです。
個人的にはぼくたちはもうちょっと相手を褒めたり、甘やかしてもいいんじゃないかと思います。
もうこれ以上人が病んでいくのは、堕ちていくのは耐えられない。
結論は俺も同じ考え。
現状が少しでもラクになればいいんです。
死ねばラクになれる、みんながもっと優しくなってもきっとラクになれる。
ぼくはどうせなら後者のほうがいい。
わーい。ネガティブ発言してもいいんだー(違)
ぼくはそれを咎めません。咎められません。
でも彼らを嫌いになれないのです。
ぼくがもうちょっと社会的に弱い立場だったら、
その立場を利用して言い返すこともできたのに、だなんて
【一番いけないのは、お腹が空いていることと、一人でいること】という話。
どこかで泣いている人がいたら、笑わせるんじゃなくて
バーローww
ちょっと悪ノリが過ぎたかも知れません。
でもあなたが喜んでくれるなら、それはよかった。
注意喚起くらいなら別にいいよ。強制力もないし、カウンターできるし。ポジであれネガであれ、みんなで同じ方向向いてるのが一番キモい
カウンターできません。
ぼくが正しいとか間違ってないなどとは思えないのです。
ちきりんさんが最近おすすめしていた「若者殺しの時代」という本の中では
バブル経済のことを「国中上げて間違ったことはやってないだろうと思っていたのだ。」と表現していました。
ぼくが合ってるとも思えませんが、じゃあ世の中の望むべく方向が合っているのかと考えると、
ポジティブ思考のイケイケで日本は負けただろwww / 「文句言う前に努力しろ」の一言で様々なデモが潰れちゃってるんだよね、それ一番言われてるから。
ぼくはネガティブで、基本的にネクラだと思います(たまにはポジティブにもなりますが)。
「文句言う前に努力しろ」の一言でいったい何人が死んでいるのだろうと思うと、ほんとうに恐ろしい。
暗い人は四六時中年中無休で暗いわけではなく、暗いことを言う確率が高いのでは。明るい人も同様。10回会って7回暗かったら70%の暗い人確率/キャラってやつなのかしら
そうだと思います。
ネガティブな発言が少しでもその人の気を紛らわせることができているのなら、
それでまだ死なないでいてくれるなら、死んでしまうよりははるかにマシだと思います。
ネガティブな発言をしている人間はネガティブ志向と解釈してしまう時点で説得力が無い。ネガティブな事をいう奴は人生を面白がっている奴も多い。ポジティブバカのように人生を楽しもうとはしてないかもしれないが。
これはたしかにそうだと思います。ネガティブ発言を風刺漫画のようにコメディに昇華する人はいると思います
(その喩えが適切かどうかはわかりません)。
読みにくいけど、今抱えてる問題意識に近かったので読んだ/かくして、「そんなネガティブ発言してると、世間からうざいやつだと思われちゃうよ」という太宰メソッドで注意勧告する羽目になって自己嫌悪するわけよ。
人間失格にある
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
自己嫌悪するしかないほど逃げ場がありません。もう首を絞めつくしました。
ぼくはそれをどうにかしたい。
何かを貶める発言をするなら逆の考えの人達から反感を買うくらいは覚悟してないとそれは甘え。反感を買ってでもする意義があると思う発言だけすればいい。
甘えたいです。ごめんなさい。
ほんとは人をイヤな気持ちにさせたくないです。ごめんなさい。
自分にウソをついて「大丈夫です」と言う度に、自分が嫌いになっていく。
皆でネガティブ言い合って皆でそれを嫌い合う。それが公平なのかも。どちらかが我慢するのはどうかな?/寛容さは大切だと思うけど。。
例えば、学校でデブな同級生に向かって「やーいデブ」と悪態をついて、
ひるんだり、へこんだりせずに「デブで悪かったな!」と言い返せることが対等で良い関係を作るのかもしれません。
乙武さんはそういうことをやっているので、みんなが彼のように強くなれればいいなと思いますが、現実はそうはいかないですね。
メンタルの弱い人に救済を。
あなたは素晴らしい人だと思います。あなたのような人が救いになるんじゃないかと思います。
出家するべき
今も思っています。
「ネガティブ発言を許せないという人は「○○が嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている。これはなんともバカバカしい話だ。」…「フジテレビが嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている人は多いね。
誰のこともあまり嫌いになれない(苦手な人はいます)ので、嫌いだと言ってる人に遭遇すると混乱してしまいます。
長期的な幸せを望みます。それと同時に短期的な不幸・死の連鎖を止めたい。
それらが同時にこなせたらどんなにいいだろうか。
何が間違っているのかぜひ教えていただきたい。
前にポジティブシンキングだかの企業が倒産したような。見えてる世界で綺麗醜いを言うことはプラスマイナスはないのかな。それをどう思って聞くか言うかでかわるのかな。
解釈の違いで人の反応は変わるかもしれません。
そういう人たちは怖いですが、ぼくには彼らを叱りつける権利がない。
しかし、気に入らないという思いが誰かを殺しているのかもしれないならば、
ぼくはこのケンカをやめさせたい。
ぼくもそう思います。
もし、将来ネガティブにならざるを得ない状況がひっくり返ったとしたら(つまり誰もが「明日が楽しみな人」になったら)、
根本的な解決になるかもしれませんが、その分ネガティブ発言への風当たりの厳しさは増すだろうと憶測します。
だから、やっぱり「それでいい」ということにしたい。
ぼくはもっともっと慎重になりたい。
間違ったことをしたくない。だから、
しかし、農家の出の俺がアドヴァイスしてやろう。よーく聞いとけ。
基本的に、そーいう家の女ってのはだな、長男の嫁以外に人権が与えられない。いや、長男のヨメでも相当怪しい。
これ重要、赤線引いとけ。農家ってのは世界人権宣言に批准してない。マジ土民。
その上、「マトモに稼げない実家パラサイトのダンナにくっついてきた嫁」なんて、最早人類として遇されない。
俺から見ると、「三男に農家の実家」ってのは超ヤヴァイレベルの粗大ゴミだが、
そこにあなたが出向けば、あなたは「生きてるだけで害悪」レベルの有害ゴミとして遇されることは確定的に明らか。
そりゃ、もちろん例外はある。どっかに例外はあるかもわからん。俺の世界ももちろん狭い。
しかし、俺が飛び出して来た農村コミュニティというのは概してそーいうモノだった。周囲から聞いた話も概してそうだった。
そんな俺の経験に即して。
「農家の三男(稼ぎナシ、主夫)」の実家に嫁入りなんて、人生賭けた罰ゲームはマジやめとけ。
最近、ひっきりなしに悪徳不動産業者からの勧誘電話(リダイヤル・逆ギレタイプ)が職場にかかってきます。
その都度、気分はどん底に落ち込みます。
仕方なく、セルシンとデパスの混合服用で誤魔化そうとしている。が、なんの解決にもなりゃしない。
電話が来るのは止められない(こんな悪徳業者が法律を守るはずがない)。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。ソレが嫌なら目を閉じ耳をふさぎ、口をつぐんで孤独に暮らせ」
これを聞いた時は、もっともだ、と思った。
周りを変える事は出来ない。
出来る事は「自分を変える」だけ。
薬では解決は出来ない。
如何にこの「嫌だな」とかわき出てくる怒りをどうするか、が最大の課題。
せっかく、鬱から脱出し、寛解に向かいつつあり、持ち上げようと努力しているのに、この【人災】が蹴落としていく。
これが恐くて、職場にいる事自体が苦痛・恐怖になってきた(それでなくてもパワハラ職場にいるというのに)。
嵐が来るのは避けられない。
しかし、嵐はいつかは通り過ぎるもの、というのも分かっている。
こういう電話も数分~数十分過ぎれば通り過ぎるというのも分かっている。
でも、嫌な気分・怒りはどうしてもわき出てくる。
「被害」と思うからいけないのであって、「こんな嫌がらせはスルー」というくらいの心持ちが必要なのだろう。
無理にこの感情を処理しよう・コントロールしようと意識するから、嫌な気分が増幅するのも分かっている。
「森田療法」のように、それを受け入れ、時間が経てばひとりでに治まっていくのを感じ、慣れていくしかない。
こんな心労を抱えて暮らすなら「孤独に暮らす」のも良いのかもしれない、と思う事もある。いわゆる「ひきこもり」だな。(宗教に出家という手もあるかもしれん)
もっとも、金銭的にそれは許されないが。
いくつか、森田療法の本を読んでみた。基本的には入院療法なのだが、日記をつけて医者と交換するとか、通院でやるとか、色々方法はあるらしい。
でもやはり、医者のサポートが必要なのかもしれない。自助グループも存在するようなので、探してみよう。
しかし、森田療法の真骨頂である「あるがまま」を理解するのは、実のところ、もっと時間がかかりそうだ。
まぁ、悪徳勧誘電話が怖いというのには、別の理由もある。
どの程度相手が情報を握っているかが分からないからだ。実はそれが怖い。こいつらは法律違反してる事も、他人が嫌がる事をやっている事も百も承知でやっている社会の底辺だからだ。即ち、自分からすると「こいつらは何をしでかすか分からなくて」怖い。
職場に電話がかかってくるという事は、職場のダイヤルインと会社名、名前(氏名)は握られているのは確定している。自宅の住所や電話番号はどうだろうか。こっちには電話がかかってきた事は無いし来た事も無いから、もしかするとそこまでの情報は持っていないのかもしれない。希望的憶測でしかないが。
リダイヤル攻撃してくるのも常だが、1日何百件も電話をかけないとならないのだろう?この底辺共。放置・ガチャ切りされてる相手にリダイヤル攻撃してるくらいなら、次から次へと対象を移していった方がいいと思うのだが、それは我々民間人の論理なのかもしれない。この手の底辺共の考えでは、リダイヤル攻撃をし、精神的に追いつめて契約またはアポを取らせるようし向けるのが目的なのかもしれない。
ところが自分、スパムメールに関しては、何の痛痒も感じていない。同じ自分の望んでいないスパム系でありながら不思議な感じがする。架空請求のメールが届いたりする事はあれども、悪徳勧誘電話ほど恐怖感は覚えない。むしろ、何も感じない。スパムメールは機械(またはボット)がやってるからかなぁ?というのと、自分がネットワークの仕組みを知っているから、なのかもしれない。
まぁ、その他、リダイヤル攻撃を喰らうと、職場内の電話が全滅してしまう事や、取り次ぎする同僚に手間をかけさせてしまうのが申し訳ない等、あるんだけどね。
せっかくアルゴリズムを考えてプログラミングに集中している最中に悪徳勧誘電話がかかってくると、嫌な気分になるし、何より、考え中だったりまとまりかけた脳内作業が雲散霧消してしまうのがムカツク。
警察は、実際に被害が発生しない事には動いてくれないので役に立たないし、消費者生活センター等ではテンプレートが用意されているだけで、全く機能しない。「毅然と断り、電話を切りましょう」とかなんとか書かれていて、法律では「再勧誘の禁止」が定められています、とか、個人情報保護法による対応等、テンプレートが用意してあるが、実情は、電話を切れば、この社会の底辺共は、実際にリダイヤル・逆ギレ・恐喝はするし、社名、担当者名を変え、あの手この手でしつこく電話をしてくる。
そりゃぁ、希望を言えば、こんな底辺共の事務所など、航空自衛隊の支援戦闘機から500ポンド爆弾を投下してもらってこの世から消滅させて欲しいと思う。
が、実際問題、悪徳勧誘電話がかかってくる事は止められない。行政も官公庁も何も出来ないのだから。
前述した通り、自分を変えるしかない。如何に早く気持ちを切り替えて持ち上げるか。トラウマの処理をしてからじゃないとだめかなぁ……。
漏れは37歳だ。その娘は19歳だ。知り合って2年だ。援交じゃないぞ。
年に2、3回会うぐらいの仲だ。だからそんな関係になるとは考えてなかったので、
既婚と言ってなかったら、独身てことになってたぞ。
こないだ会ったとき、「私は相手に告白させるですよ」とか「思い意味じゃなくて、愛してます」とか、
(わーモーションかけてくるなー)と思ってびくびくしてたら、
とうとう「例えばですけど付き合って下さいって言ったら付き合ってくれますか」「難しいです」って言ったのに、
「何故ですか」「年齢的にです」「年齢は関係無いです」って一方的にって言ったら悪いけどボルテージが上がっていて、
「久しぶりに乙女の心を取り戻しました。私は15歳の頃から乙女を封印していたのに」「胸がきゅんきゅんします」とかキラキラしてるのを見てると、
本当に本当に「結婚してるんだ(でも月末に離婚するんだけどね、多分。)」って一言が言えない自分が、
嫌で狡くて卑怯で、またそれを言っちゃうと落胆するであろうことがわかってまた言えなくて、
死ね死ね死ね爆発しろ漏れ雑魚キャラに志願します!とか死にたくて、死ぬべきで、
出家しようと思ってもしても罪が消えるわけではないし、優しくなら殺して欲しい気分で、
でも言えないので伝わるように心の中で(ごめんなさい。結婚してます)と100回強く強く念じたら、
酔いに酔った彼女は全てを察して仕返しのように意地悪になって「お前絶対今度犯してやるからな」とかSキャラになりました。
エロゲではありません。上に乗っかって首絞められたらこの罪だけで死んでもいいほ強く自分を責めました初めてでもないくせに。
何人もの人を同時に好きになってもいいけど、最初に言うべきだってわかってるけど、
別れ際、わたしからハグのつもりで抱きついたから、自分から誘ったと言えばそうかもしれない。
はじめてだった。
少し酔っていたせいもあって夜は平常心だったけど、その後、ホテルの窓に降り注ぐ朝日がまぶしくて、お天道様の下、急に自分のしたことについての喪失感とおぞましさがどっと出て大泣きした。「わたしは子どものままでいたかったんだ」と彼の肩に抱きついて訴えた。本当に、わたしは子どもでいたかった。何も知りたくなかった。でももう手遅れで、そんなの分かってた。
その次の週はずっと(こんな恐ろしいことをして大人として生きるなら、いっそ何もかも捨てて出家しよう)と、けっこう真剣に考えていて、でも同時に、彼の大きな手に抱かれて眠ることの安心感にうっとりしていた。その気持ちよさたるや、まるで赤ん坊に戻ったみたい。「大人」って、こんなにうっとりとした、すてきな思いをしているのかとも思った。
大人になるって、誰かの前で子どもになれるってことなのだろうか?
わたしは恋をしているのだろうか?
あ~よくわかんない。
齢27で、こんなこと、誰にも言えやしない。彼にはもちろん打ち明けたけど、彼以外にはぜったい秘密だ。
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
ばあちゃんに、
「もっと世渡りがうまくならなな」と言われた。
ばあちゃんは、むすめの時分から日記をつけてる。
けどそれは帳簿だった。
帳簿が日記になってる。
妹には、名前を呼び捨てにされる。「増田くん! メシつくって」
オマエにミルクを飲ませたのは、オレだぞ! あ、だからか。
ふられた。
「わたしはオモチャじゃない」「女の子はみんな、お姫さまなのよ?」
なんじゃそりゃ!? わからぬ。
オレか? オレが悪かったのか?
もう出家しよう。
ブックオフの100円コーナーで、『完全自殺マニュアル』を買う。
次の世紀末まであと90年ヴァージョン、のマニュアルが出ないかな。
気になるのは、これの前の持ち主だ。
自殺を思い止まったのか?
オレもやったことあるけど、
遺品って、大切な思い出が詰まっているような気がするけど、それは錯覚だよ。
売れないし、しかも量だけ異常にある。整理に何週間もかかるよ。
オレは、ばあちゃんの持っていた、ミシン糸をもらったよ。赤い糸だ。
かさばらないところが気に入っている。
弔い問答 その2
ttp://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2010/03/post_82b7.html
南 もっと問題なのは、おそらく『クレヨンしんちゃん』以降には家族マンガはでませんよ。だってここから先、一人しかいないもの。あれは大変な問題なんです。
家族マンガというのは、およそ三十年間近く『サザエさん』が独壇場だったんですよ。ところがその後、一九九〇年代に『ちびまる子ちゃん』が出たんですよ。この二つの決定的な違いは、じいさんの存在感なんです。波平さんと舟さんは家長としての存在感を持っていますが、『ちびまる子ちゃん』のじいさんは、からかわれる道化みたいな役になっています。でもまだ一応三世代なんです。事実上、核家族ですが。
ところが次の『クレヨンしんちゃん』が団地住まいの三十歳前後の夫婦に、五歳の手に負えない息子がいるという完全な核家族。ここから先に家族はいないですよ。
『サザエさん』には構造的に非常に優れたところがあって、あのマンガは、日本人が必ずどこかに自分を位置づけることが出来る。そのポイントは、マスオさんです。マスオさんは婿ではない、フグ田なんだから。だけど、あたかも婿であるかのように振舞っている。ということは、婿入りした男は全部そこに引っかかっている。『サザエさん』には、じいさん、ばあさん、親子関係、兄弟関係もあるが、実は叔父や姪と甥の関係もある。タラちゃんは弟じゃない。すると日本の家族構造として必要な要素が、全部そこで見えるようになっているんです。これはもうないんですよ。そして『クレヨンしんちゃん』の先はない。
『サザエさん』に対応していたのが、日本仏教の伝統的な教団で、おそらく事実上の核家族である『ちびまる子ちゃん』と『クレヨンしんちゃん』の世代に対応したのが、たぶん創価学会や立正佼成会などの新宗教ですよ。
その後、家族がなくなったところ、つまり単身者みたいなところに、もろにコミットしてきたのがオウム以降です。オウムの特徴的なのは「出家」と言うでしょう。鎌倉時代以来初めて、日本の宗教者が出家ということを真っ向から言った特異な例なんです。
私はオウム問題を、未だに完全に処理出来ていないんです。とても重要な問題で、日本の仏教は逃げまくっていると思いますからね。「オウムは仏教じゃない」と言っただけではダメなんです。「仏教じゃない」とは言いがたい側面があるから、ちゃんと処理しないといけない。
しかも特徴的なのは、「出家」を言った指導者が、出家者じゃないというのが日本的なんです。麻原は在家修行者です。人を出家させても、彼は結婚して、子供をつくっている。非常に日本的なんです。一方、同時に出た「幸福の科学」というのは、全国統一神理学試験というのを教師の選抜にやっていたんです。あれは共通一次テストがモデルです。学生みたいな人間を信者に想定している。つまり学生とは何か。家族を持たない世帯者ですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20091117080828
埃がつもる(ほこりがつもる)とは、今の多くの天理教信者、天理教組織の状態。
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E5%9F%83%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%82%82%E3%82%8B
756 神も仏も名無しさん[sage] 2008/10/23(木) 17:48:33 ID:Y/nDKKn6
天理教でよく使われる概念として、「因縁」というものがある。意味は言葉どおりである。悪い「因縁」を良い「因縁」に変えることが、信者の目標である。
2ch 真如苑63 701-800 - 真如苑 被害状況 まとめページ - livedoor Wiki(ウィキ)
http://wiki.livedoor.jp/semicircle/d/2ch%a1%a1%bf%bf%c7%a1%b1%f163%20701%2d800
悪い「いんねん」を良い「いんねん」に変えることが、信者の目標である。「いんねん」は生きている間にも増える。これを「埃がつもる」という。
http://atpedia.jp/matome/%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%93
まず第一点は、人間というものは生きている限り埃と無縁ではありえないということです。「新建ちの家」とはまだ人の住んでいない家で、このような家にも埃がつもるということは、人間が何もせず、じっとしていても心に雑念が去来してくる、人の住んでいる古い家ともなると、つまり人間が一日中忙しく行動していると、どれだけ多くの埃をつむかわからないということ、また「新建ちの家」は埃のない家ですから、それを聖人君子、悟りを開いた人、解脱した人と考えますと、そういう人でも埃とは無縁ではないことを教えられているように思われます。また「目張り」は外から埃が入らないようにするためのものですから、「目張り」をするということは、人間の心を誘惑する物、財産、名誉、地位等から離れること、つまり出家して俗世間との接触を一切たつことが意味されていると考えますと、「目張り」なしで生活をする、社会において人、物にとりかこまれて生活すると、どれほど多くの埃をつむかわからないということを教えられているのではないでしょうか。
これは正しい説明だとして、
この説明が誰の発言なのかが不明。
オレは片目が見えなかった。
残りの目もそれほど視力はよくなかった。
その頃、目が見えない障害のある人間には選択肢はほとんど一つしかなかった。
鍼灸師になることだ。
それについては迷う余地がなかった。
オレは周りの人間に勧められるまま、というか選択しようとせずに鍼灸師の道を目指した。
楽そうじゃないか、と思った。
だが、オレは鍼灸師には満足できなかった。
なんとかして金を儲けたかった。
社会的に高い地位につきたいと思っていた。
そのためには何でもしようと思った。片目が見えないことなど問題ではない、と世間に知らしめてやるつもりだった。
だがオレはくじけなかった。
大きなきっかけになったのは、宗教団体に入信したことだ。
オレはここで宗教団体のテクニックを学んだ。
まったく別の価値観が支配していた。
宗教ならオレのような底辺の人間でも社会的地位の高い人間と対等に渡り合える。
宗教なら、オレの望みを叶えてくれる。オレにはそう思えた。
どのようにすれば人を宗教的な集団に取り込むことができるのか熱心に考えた。
最終的にはかなり強力なテクニックを作り上げることができたように思う。
一種の洗脳で自己啓発セミナーや宗教団体がよくやる内容だが、効果には間違いがない。
このテクニックは予想以上にうまくいき、順調に信者を増やすことができた。
出家を推奨し、出家した信者からは財産をすべて巻き上げることができた。
いつしかオレは「自分にできないことはない」といった気持ちになっていた。
今から考えると慢心だが、当時は信者からの献金がとてつもない額になっていたので、
本当になんでもできるような気になってしまっていた。
国政に関わるつもりだったので立候補もしたが、票が集まらずに落選した。
選挙区民全員を洗脳できればよかったのだが、そこまではさすがに無理だった。
さらに信者を増やし、勢力を拡大するつもりでいた。
しかし、あるときからオレの身辺に警察の手がまわりはじめた。
我ながらアホだとは思うのだが、どうも自分には遵法精神というものが先天的に欠けているようだ。
原因は組織にとって不都合な人間を黙らせるために荒っぽい手を使ったせいだ。
これが警察との泥沼の戦いに引きずり込まれる鍵だったとは当時は気がつかなかった。
最後にはオレ自身にも手がまわりそうになった。
結局我々の敵は警察組織、ひいては日本国家だということになった。
そうであるならば、潰すか潰されるかだ。まだ相手が油断しているときに先手を打つべきだ、というのがオレの判断だった。
初撃で致命的なダメージを与えれば反撃できないだろう。
一か八かの賭けだが勝算はあると踏んでいた。
証拠がなければ逮捕できない。テロリズムによって警察を混乱させ、かつ力を奪い取ることができる。
結局のところ、これは失敗だった。
オレが指示したことが結局はバレてしまった。
オレは賭けに負けた。逮捕され死刑判決を受けた。あとは死刑を待つのみだ。
もっと本当に大きな力をつけてから警察力に立ち向かうべきだったと思う。
正面から立ち向かわずに、裏からなんとかすべきだった。
すでに政界に進出している宗教団体がやっていたのと同じ手段を使ったほうがよかった。
冷静な判断ができなかった。
都合の悪い人間を消すときももみ消す準備を先にしておくべきだ。
いいアイデアだと思う。ぜひそうしてくれ。
それ俺じゃねーし
俺どちらかというと少しでもおしゃれすると異性(男)から「何お前wwwブスが何やってんのwwww」「きめぇwwww鏡見てこいよwwwwwwwwwうけるwwwwwwwww」「出家する前最後にあそんでみたくなったの?wwwwwwwwwwww」的なこと言われるタイプで同性にはかばわれるんだが、それでもその増田が言うことはそんなに変ではないと思う。
女の場合化粧ですら結構ハードルが高くて薄い化粧してても言われる時は言われるしな。努力しなくて「何それwww努力しても無駄ですからwwwwwwww」攻撃を避けるためには風呂入らないレベルにまで自分を落とさなきゃいけないわけですよ。そして諦めきった人の中には時々そういう人がいて、そこまで珍しい話でもない。容姿に関しては女のほうがシビアだし差異に敏感だし、すこしでもカーストを破ろうとすれば異性もしくは同性(どちらかかどちらもかはひとによる)からひどく叩かれるんだぜ。それでも俺たちはせめて風呂に入れる生活を守るためにあきらめないんだぜ。カーストの最下位に落ちないように笑顔を作るんだぜ、ダイエットするんだぜ、髪の毛の手入れをするんだぜ。それだけでもいいからすることで雰囲気を変え印象を変え、いつかはカーストから解き放たれようと日々闘っているんだぜ。だから生まれ持った造形以外の要素が付与されるならウェルカムなんだぜ。たとえそれがマイナス点であるにせよ、その点を改善すればプラス点もしくは0に戻すことはできるんだからな。ポジティブ思考にでもなっとかないとぶすかぎょうはつとまらないんだZEEEEEEEEE!!!!
なんか色々しんどくなった。すまん。寝る。
男も女も「合わない」だとか「一人がいい」とか言って一人飯だったり、サークル無所属。
女でも彼氏が出来て、彼氏とべったりしてたら女友達とは疎遠になって結局一人同然とか。
お前ら何してるんだと。
大学は学問を学ぶ場ではあるけど、同時に人間関係の修行場でもあるんじゃないのか。
大学って下手に一人でも過ごせるからそうしちゃうんだろうけどさ。
それは人生を投げている行為であると知れ。
友達いない奴はこの先就職でもなんでもうまくいかない。
自分の可能性の全てを「他人と関わること」から逃げたために全部潰したのだから。
実に愚かな行為だ。
変に傷つきやすい痛い子といい、ぼっち学生といい、
それでいて将来は「やりたいこと(だいたい漠然としたもの)」があるだとか、
もっと近いところで言えば、成績が心配だとか。
身の程知らずのいい子ちゃんが多すぎる。