はてなキーワード: 身延とは
なあ、なんでメインキャラ全員大卒でストレート就職なんて設定通したんだ?
いや、例えば舞台が東京志向が強い大月、百歩譲って甲府あたりだとか、原作でみんな実家が金持ちみたいな描写あったらまだわかるよ
でもゆるキャン△の舞台って身延とか南部町だぜ?高校生の半分は専門行くし何なら高卒も珍しくないぞ?
確かにみんな挫折してますとか誰一人夢かないませんでしたとかみたいな設定出されても困るし、学歴とかで田舎の陰湿さ出されても誰も喜ばないのは俺も知ってる
実際高齢犬のちくわですら設定上は生かしてるんだしマイナスの面は出さないように制作側も気にしてるんだろうけど、ただキャンプ場作るだけの話が全員大卒ストレート就職設定じゃないと成り立たないわけじゃねえだろ
東京じゃ大卒以外人に非ずかもしれねえけどな、東京の感覚で作品作るなら初めから舞台そっちにしてくれよ、クソ田舎なめんなボケ
単にメディアとインターネットで起こっている現象が面白いなあと思っているという、ただそれだけの話なんだけど。
10年くらい前から、あるブロガーさんがごく個人的にはじめたオフ会に参加していた。
それは年1回開催されるわりとマニアックなオフ会なのだけれど、そのジャンルではそこそこ名の知れた存在で、
毎回、どこからともなく50人以上がやってくるイベントとなっている。
で、そのオフ会の初期のメンバーにマンガ雑誌の編集者さんがいて、その人自身もその分野でとても熱心に活動している人だったので、
しばらく後に趣味と実益を兼ねたマンガ作品が登場してそこそこ人気を博し、さらに後にアニメ化され、そこで多くの若い世代の注目を集めた。
ムラ社会になりやすいニッチな世界で裾野が広がるのは素直にとても素晴らしいことだと思う。
その作品の中では、古くからのメンバー(マンガやアニメとはほとんど縁が無い、その趣味の世界の人達)が
ごくローカルな行きつけにしていたお店がまんまそのまんま実名のまま登場し、私達にも馴染み深い街や川や山が描かれ、
そして、そのオフ会が「元ネタ」としてやはりまんまそのまんま実名で登場した。
古参(というか実物)の人たちの内心のすべてはわからないけれど、とても愛着があってリスペクトのある表現が為されており、
作品としての評価は置いておいて、好意的に歓迎されたなかなか幸せなコンテンツであると思う。
すると、今どきの出来事として当然、作品に登場した場所は「聖地」となる。
おじさんたちのオフ会は「作品で描かれたイベント」として、コンテンツとして認知されていく。
大洗とか身延のような大ヒットということにはならないけれど、身の回りでもグッズを身に着けた人たちを
ちら、ほらと見かけるようになって、オフ会に作品を見て飛び入りでやってきる人たちがちら、ほらと増えてきた。
そのまま皆で話し、気が向いたら飲みに行く。正直に、とても素敵なことだと感じる。
※ただ、「女子高生や女子大生がたくさん集結しているはずなのに!来てみたらおっさんしかいない!訴訟!!」
みたいなことになってるんじゃないかという一抹の不安はあるのだけど。
一方で、こうなってくると、元々オフ会を主催した人たちとは全く関係なく、
ネット上では「聖地」としてこのオフ会の名前が語られるようになり、もちろん「元ネタ」を知らない人たちが
オフ会を語り、聖地巡礼という形で「参加」し、知り得ぬところで新たな「イベント発起人」が結成されていたりという、
私はそれでもいいと思うし、たぶん最初にこのオフ会を始めた伝説の個人ブロガーさんもそれでいいと思っているし、
世界ってそうやって広がっていくのかなあ、なんてことを考えたりもする。
もっと大げさな話になってくると著作権とか肖像権とかそういう話も出てくるのかもしれないけれど、
今は純粋に、元ネタとは乖離した場所で私達のリアルな世界のパラレルワールドが展開し、
自分が参加しているはずのイベントが別の日に「開催」されていたり、
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130121001007
で id:alloreverything が、
宗教はほとんどライフハックみたいなものなのに、ネット上にレビュー記事が少ないなあ。誰か「○○教に入信してみた」とか「××教が△△教より優れている5つの理由」とかってエントリあげてくれないかな。
と言ってたのでリクエストの答えてみたよ。
キリスト教とか仏教以外の宗教は今世のことばかり考えて他者に救いを求めてるよね! でも輪廻と因果の理を説いて過去世や未来世のことを考えないと世界を説明したことにはならないよね。だから仏教以外はここで落選!
小乗仏教の人たちは自分が悟りを開いて解脱することを目的としてるけど、大乗仏教は仏陀となって世界を救うことを目指してる。どっちがいいかは明らかだよね? 上座部のみなさんはここで脱落。
仏典はたくさんあるけど法華経が一番なんだ。なぜかって、おしゃかさまが最後に書かれた経典だからね。その他の経典では明かされなかった秘法があるんだから、これを最上のものとしなくてどうするというのだろう? 日蓮宗や天台宗以外のほとんどの宗派の皆さんは、ここでさよならだ。
「ウソも方便」って言葉は知ってると思うけど、法華経にも方便があるんだ。それが前半の14巻。特に2巻なんかはそのまんま「方便品」って名前だからね。方便は大事だけど、本当の教えと仮の教えとどちらが大事かは言うまでもないよね? 日蓮宗一致派のみなさん、残念でした!
末法の衆生には成仏をする機縁がないから、事の一念三千である御本尊に題目を唱えることによってしか成仏ができないんだよ。そうして下種を受けていない衆生はゴールが見えているけど道順が分からない迷子のようなものだね! え、何を言ってるのか分からないって? つまりおしゃかさまは末法でオシャカになっちゃった、ってことさ! 日蓮大聖人を末法の本仏としない日蓮宗身延派のみなさん、惜しかったね!
あと、現状の日蓮正宗は血脈が途絶えているから、大変残念なことになってるよ! そうなると、もう創価学会に入るしかないね!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE