はてなキーワード: 共産主義とは
個人事業主がストっておかしいだろ、下請け会社が客に対して「発注条件を改善しろ!発注を続けろ!」ってストライキ起こすようなものだぞ。労働者の権利が欲しいなら個人事業主の権利を捨てろよ
このあたりの土人っぷりがすごいw
いったいこの人たちは中学高校の世界史とか倫理の授業で何聴いてたんだろ・・・
寝てた可能性が高いな。
教養を放棄するとこういう人材が生まれるのだな分かりやすい指標。
しかし「契約で決めれば何してもいいでしょ」が成り立ったら社会が成り立たん。
19世紀にすでに資本家に過剰な有利すぎる契約の問題が分かったので、労働法やら工場法、最近では下請け法につらなる法規制ができたわけだ。
そうしなきゃ一方が有利になりすぎて人類が成り立たんって気づいたわけだな。
そういう歴史を知らずに資本主義は自由でうんたらとか断言しちゃう若者感がなんだかほほえましい。
「嫌ならやらなきゃいいだけ」って業務を続けたいのに打ち切られたって話でしょうに。下請けは自分たちの権利を主張しているのであって文句を言っているわけではない。
まあ要旨としてはこの人が書いている通りなので付け加えることはないわけだけど。
上の教養がない人たちは「権利」とか「自由」の本当の意味がわかってないわけだ。
『オッペンハイマー』観た。
元カノが死んでから自分を責めたり、実験の爆発を目の当たりにしてから水爆反対への心変わりに向かっていったりと、オッペンハイマーには自分のやってる事への当事者意識の薄さみたいなのがあるのかなって感じがした。
「絶対悪」のナチスドイツなき後にもまだ(瀕死の)日本がいるじゃないかと研究を続けて、いざ実験が成功して投下した後になってから果てしない核軍拡競争への憂いで気持ちが揺れ始める。赤狩りの時代が強調されてはいたとはいえ、水爆はソ連への牽制だという言い分にもあまり強く言い返せない。
ストローズの「奴は瓶から出した原爆の魔神を元に戻そうとしてる」みたいな台詞は、オッペンハイマー憎しで出た言葉かもしれないけど彼のふわふわした感じを端的に表していたような気がした。トルーマンに腰抜けと一蹴されたのも。
学生時代に病んでたのは、物理学なんかやってると唯物論的な方面で実存的不安を抱えるようになるんだろうか。ピカソやストラヴィンスキーに触れるシーンでそう思った。それに対してセックス不足だろと言われてたのも、そういう抽象的な事ばかり考えずに地に足つけて生活したら、的な意味だったんだろうか。共産主義と唯物論は結び付けられて語られるようだけど、活動に傾倒していったのもそういう事なんだろうか。
日本にまつわる描写が淡白だっていう感想もあるらしいけど、自分は投下後に言われていた「国内で抗議が"起こらない"のが心配だ」みたいな台詞が結構印象的だった。
劇中で何度も鳴り響くオッペンハイマーの功績を称える足音は軍靴の音に重なるものがあった。
実験シーンで爆破音を大分遅らせる演出は、まあそうなるだろうなあと思わせる猶予になってしまったけど、それを補って余りある ほどにオッペンハイマーが抱いたであろうアンビバレントな感情を思わせられた。
「ほぼ0%」だからまあ大丈夫だろうと研究を続けたり、爆破の直前に賭けをしてたり、防護服を着る事もなく目視で爆発を眺めたり、実験が成功すれば無邪気に熱狂する辺り、研究者達からはどこか呑気さを感じる。
それはしばしばハリウッド映画で非難されていた核兵器への認識の無頓着さへによるものではなく、むしろそういったものに関して意識的に描いているんだと思う。思いたい。核兵器が実戦投入される以前の出来事を描いたシーンでもあるし。
ローレンスやラビは出会いからの関係が比較的重点的に描かれてたけど、他にも色々と博士や政府の人間が出てくる中で、それ誰だっけって人名が飛び交ったりして分かり辛い部分も多かった。
証人に呼ばれたローレンスと廊下で鉢合わせて、結局彼が来なかったシーンもいまいち意味が分からなかった。冒頭の1. 核融合 2. 核分裂も何か象徴的な事を言っているのだろうけどいまいちよく分からなかった。
ただ3つのパートが徐々に絡み合っていってオッペンハイマーの人生が語られる感じは、テネットとかインセプションに比べたら大分と分かりやすかった気がした。
プロジェクトX、よりは粛々と進むマンハッタン計画、胃が痛くなるような小部屋の尋問、ストローズの閣僚入りに向けた公聴会、というそれぞれのシーンの要点を抑えた上で2度目に観たら前半の印象も大分鮮明になってより分かりやすくなった。
今の所世界は滅んでないけど核兵器も滅んでいないらしいし、これからどうなんでしょうねえ。この手の作品を観て大量破壊兵器はよろしくないですねえ、平和は個々人の意識によって作られるものですよねえ、というポーズを取りつつ、まあ言うても別にボーッと生きてたって自分の生きてる間くらいは大丈夫っしょ……って思ってる自分がいますねえ。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
ネタバレあり。
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オッペンハイマー、まず理解するのにアメリカ人の伝記物なので当時のアメリカの歴史を知っておく必要がある。さらにノーランのあまり説明せず、時間軸をぶった切るスタイルがすごいのでよりわかりづらくなっている。
話の流れとしては、1954年(カラー)と、1959年(白黒)の話の二軸になっている。
1954年、当時のマッカーシーの赤狩りでオッペンハイマーがソ連のスパイ容疑かけられて狭い部屋の公聴会で責められて、最終的に公職追放されるまでのところがメイン。その中でオッペンハイマーが自分の過去を回想するという形で原爆開発の流れが示される。
そして、ややこしいのは白黒で示されるストローズの話。あの白黒の場面は1959年のことで、オッペンハイマーは出てこない。当時ストローズが商務長官に任命されそうになり、公開の公聴会がひらかれている。アメリカでは長官に任命されるときに公開の公聴会が開かれてどうするか決めるというのを知っていないとあのシーン自体が何をやってるか全然わかんないんだよな。そしてその公聴会でストローズはオッペンハイマーを陥れたことを追求され、反対が多く長官になれなかったということが表現される。
このオッペンハイマーとストローズ2人が一番絡まるシーン、湖の畔でストローズがアインシュタインに無視されるところってのは映画では一番最初に出てくるが、戦後の話だってのもまぁわかりづらい。
それで、そういうことを知った上で見直すと、映画オッペンハイマーはオッペンハイマー自身と、ストローズという二人のキャラの話を混ぜているとわかる。
オッペンハイマーは天才で破天荒な女性関係が滅茶苦茶なのかとか、自分がどういう立場なのかわかっていながら共産主義関係者を積極的に絡ませたり…それこそ弟誘うの駄目だと思うんだけど…とか、そういうの。自分が大学院のころに世話になった教授が似たような超天才型で、それに振り回された経験があり、あー天才ってこういうところあるよね…自分勝手に好きにやるよね…って思った。そういうのもあって、本人に感情移入しづらかった。
そして、オッペンハイマーの原爆への後悔は、確かに後悔しているんだけど、後悔している自分に酔ってる、可哀想な自分が可哀想てのを表現している感を感じてしまった。これは愛人が死んだときの態度で表現されているようで、あそこも自分のせいで人が死んだこと自体は後悔してるけど、こんなに後悔してます!自分が悲しくて泣いちゃってます!慰めて欲しい!っていうオーラがすごい。
でも、自分かわいそう感の強さにうーんって思ってたら、作中でもトルーマンには馬鹿にされて、ストローズには後悔なんてしてないっていわれて、奥さんからも殉教者になる自分に酔ってるだろみたいなこと言われてるから、意識的に表現してるんじゃないかな…と深読みした。
それで、正直、オッペンハイマー自身よりも、ストローズの方がすごく魅力的に感じた。RDJの演技がすごい。まぁ政治家って時点で普通の人間ではないのだけど、人間性がずれてる天才と比べる形で一人の人間を表現していた。小物さ、狡猾さ、天才とは違う尊大さ、そういうところを会話や態度で表現していて、とても魅力的だった。もう一人の主人公…というか主人公が2人いると思ったし、この映画はオッペンハイマーを舞台装置にしたストローズの話なんじゃないのかって思った。
とにかく、すごい作品だった。見て良かった。