はてなキーワード: 主観とは
実際アレが本当に大元の元増田の肉付けだったとして、ではその肉付けをした上で増田に書いた意図を考えると、
「自分の性格」を理由に「子どもを作らない」ことは正しい判断であるっていうのを他人に肯定してもらいたい
という期待があったのでは? と考えられる
その場合、
「子ども持つかどうかは人それぞれの判断だし、今の時代子どもなしでも楽しんで生活できればそれでいい」
みたいな流れは、母親に孫の顔を見せないという復讐を正当化することにも繋がるので元増田的には一石二鳥で大歓迎となる
逆に「孫の顔見せてやれ、恩返ししてやれ」という助言に対しては、「なに的外れなこと言ってんだ」と怒りをたぎらせ、
「自分はこんなに抑圧された、こんな過程があってこそのこの結果なんだ」と切々と真意を訴えることができる
(実際にはその真意を示唆する描写があるので正面からは訴えなかったかも)
ところがここで、子ども持つか持たないかの判断の源すなわち骨の部分である恨みやトラウマにまで切り込まれてしまった
その際まるで自分の恨みや憎悪に無自覚であるかのように扱われたのが(なぜか他人である解説者らの)癪に障ったのだろう
当然だ、真意という骨に肉を巻いて意図的に皮肉に仕立てていたとしたらその憎悪と恨みに苦しんでいないはずがない
いわば傷口に塩を擦りこまれたも同然の指摘記事がついたのである
かくしてわざわざ他人のネタを懇切丁寧にネタばらす人が出現したのであった、とっぴんぱらりのぷう
解説者のいう「文章として面白みがないから肉付けを行った」という解釈はあまりよろしくない
面白いかどうかは主観の問題なので退けるとしても、肉付けを行ったことで背後に隠された「骨」が新たに展開しているかというとそうも言えない
骨すなわち真意が展開するとは、書き手の中でその恨みやトラウマがどのように昇華したのかが示されるということを指す
元記事において恨みやトラウマはまったく昇華してはいない、元増田は依然として母親の「教育」の影響下にあり、意趣返しこそ為したが何ら救われていない
「文章として」楽しむのならばそこで救いを生じさせ、感動を生むことを狙うのは定石である
この文章は定石を打っておらず、また定石を超えた独創的な結末を持っているわけでもない
よってつまらない。つたない。肯定的な評価を与えるための理由が無い。
骨である恨みつらみやトラウマをそのまま露出させれば得られたであろう「生々しさ」という面白さすらない。
例えばブコメにも「のろいがえしー」のような読みが普通に転がっているわけで、やっていることは増田記事での指摘と同じなのに、
何がどう琴線に触れてこんな大爆発に至ってしまったのかは不明。しかもその琴線の主は解説者であって元増田ではないときた。もう何が何だか。
ああ。ひまだな、自分。
光の当たり方と見てる人の立ち位置で同じものが違うように見えるのと同じで
お前の主観と状況によって、お前の正しさは嘘と本当の領域を行ったり来たりする
お前の主観があるかぎり、どこまでいっても自己肯定だし、自己否定だ
お前が欲しいのは、矛盾を解決する手段か
それとも楽でいれる姿勢なのか
お前の矛盾を解決した所で、楽になれるとは限らない
楽でいられる姿勢を確立した所で、矛盾は解決しないかも知れない
理想が高いんだ、人の手には余るほどに
それを許せるか、それとも諦められるか
どんな決着をつけるにしろ、お前はもうバランスを崩している
元増田さん
Aさん(とする)
それぞれ全く別の論点であって
当然「どっちが重要」などと軽重をつけられることではない。
Aさんの言ってることは当たり前だよね。
同じ論点上なら「こっちが重要」って言える。
違う論点だったら「こっちが重要」は有り得ない。
別々の論点のどっちを重要と思うか、なんて個々人の立場や主観だから。
例えば「町内のハトの糞害をどう解決するか?」っていう論点上なら
効率や糞害発生経路を精査していけば多分答は出るし。
でも「ハトの糞害をどう解決するか?」と「一番好きな鍋料理は何?」という別論点同士や
「ハトを実力排除する」と「キムチ鍋」という別論点上のタスク同士は、
これは比べられない。
どっちが重要とかそういう話や順位付けは成り立たないよね。
…っていうのが元増田さんとAさんのやりとりで、
元増田さんも「そうだね、これは例が悪かった」と返答して円満に解決してる。
失礼だけどあなたは上記の2人のやり取りが内包する論理を一切理解できなくて
ただ「物事の優先順位をつけるべきだ!」みたいな
掘り下げの浅いところで話をしてる。
なんかここんとこ増田で、専業主婦の嫁が自炊に興味なくて困るとか鬱の嫁が休んでいてくれなくて困るとか読んでいた。
話に加わる気になれなかった。
なぜか。
私はとても羨ましいと感じていたからだ。
どちらの元増田も、きっと真面目に深刻に困っている。でも私は、それが羨ましい。
だって、君たちは守るものがある。頼ってくれるものがある。それは、君たちを強力に現世につなぎ止め、君たちを君たちの主観で強烈に承認するものだ。
君たちは勇者で主人公だ。君たちがいなければ、二人の専業主婦の命が危ない。それはセカイの危機だ。
そして、本来優秀な嫁が社会に再進出したり、鬱な嫁が寛解したりするのが君たちのストーリーで、嫁の役割はそれまでは穀潰しだったり等身大ドールだったりペットだったり病人だったりするわけさ。
ところが私は、大変に存在が軽い。唯一仕事だけで社会と繋がっていて、今の仕事に別の担当が就いたり会社が無くなったりしたら、財産が尽きて路頭に迷う前にまず自分の存在意義が無くなる。「xx担当の増田さん」でしかない直結した存在なのだ。
私はこれが大層怖い。
勇者な増田はきっと私みたいなのを見ると苦労を知らない癖に馬鹿なことを言っていると思うだろう。確かにそうなのかも知れない。
でも私は、今の身軽すぎる自分が恐ろしい。
だから今すぐにでも、足手まといが、欲しいのだ。
それってただの優越感じゃないのか?
元記事の、(世の中には~な人もいるのに)を(もし自分が~だったら、もし~がなかった・いなかったらと思うと)に置き換えてみ。
それは家にお母さんが居て、お母さんが料理を作ってくれる人だったからだ、
食べ物に困らなかったのは、お父さんが家計を支えてくれていたからだ、
気が滅入っていた時に嫌な事を忘れられたのは、彼女がいつも通りの明るさで接してくれたからだ、彼女がいつも明るいのは彼女の親御さんや友達の影響だ、
身勝手で打たれ弱い自分を許せたのは、あの時彼女がキレて、そして許してくれたからだ、
等々、実在する不幸な人との比較なしに、自分の境遇を幸せに思えるはず。
「世の中には~な人もいるのに自分は(貴方は)...」って言い方がよくされるのは、自分より辛そうな状況の人を見た時に、世の中ではそんなことも起こりうるのかと、自分の現在の境遇を再確認する人が多いからだと思いたい。
そこには差別意識はない。ただ未知の事例に驚いて、自分の生における奇跡を感じているだけだ。
自分の価値観では辛いことが、ある人の価値観では幸せだったりする。
アイドルに恋い焦がれてヲタ芸に走った結果童貞のまま死んでいった男とか、
ホストに金をつぎ込んだ結果借金地獄に陥った女が、必ずしも「不幸」とは言えない。
個人の嫉妬やら高慢やら下らない執念やら疑心暗鬼やら言葉の綾が絡み合って増幅したせい。
やれあいつよりはマシだ、
やれ俺こそ至上・異論は認めないだ、
やれあの方は私を見下してこんなこと言ってるんですよ!だ、、、
貧困も格差も原因を突き詰めていくと、土壌や遺伝子や情報量の違いで、各人の罪ではないんじゃないかと思う。
本当は各人の違いを尊重して単純に助け助けられしながらわいわいできたらいいのに。
日本の文学史で、純文学と大衆文学の論争が起きたときも、同じ理由だったんじゃないかという気がする。
「純文学が“ありのままの真実を書いている”って、検証不能じゃないか。
また本当に起きたことであっても、書いた人というバイアスを通った以上、その人の主観になる」
に傾き、そして「純文学と大衆文学の境目が薄れてきた」現実で論争は終結した。
今の時代は「小説なんて作り話じゃん」が常識だけど、昔は「事実・真実でないとダメ」と言っていた人が、
かなりの数いたんだよ。
それより「嘘がソースの話は信用するなボケ」をもっと考察した方がいいと思う。
なぜ多くの人は、言われたことをそのまま信じてしまうのか?
荒俣宏はそれを「アホの力」と名付けた。(と思う)
漫才で片方が何かを言うと、相方が「そうそう、○○ですね~」と復唱する。
疑わない、否定しないお約束なんだけど、(もちろんネタの核心部分に入ったら捻りが出てくるが)
いやちょっと待てw
一つ上で書いたことは今回のディズニーの件とは関係ないですよ。まず、著作権が存続している間は著作者人格権どうこう以前に著作権上の問題が当然存在しますから、同人活動は決して合法ではありません(多くは親告罪ですが)。また、商業キャラを用いて利益をあげた場合は商標権の侵害となるケースがほとんどだと考えられます。
一方で、著作者人格権を根拠として商業/非商業問わず創作活動を制限するケース、つまり「俺のキャラの性生活を勝手に描くなんて侮辱だ!やめてくれ!」というような法的主張はあまり聞かない気がします。その辺まだちょっと詳しくないですが(※1)。著作権や商標権のみならず人格権についてもきちんと主張しておかないと、何十年後か、著作権の切れた自分のキャラクタが合法的に好き放題レイプされてしまうかもしれません。
また、あくまで一般的「エロ」表現の話をしたのであって、「首を刎ねて殺す」という表現は全く別ですよね。
他人の著作物を虐殺するなど常識で考えて許される表現ではない、どうあれ侮辱的な表現であると私は思うのですが、その認識がどんどん薄らいで今回のように「ディズニーが訴えないならミッキーの首を刎ねても悪くないよね、作者さん叩いてごめんね」なんてめちゃくちゃな認識が広く蔓延してゆくと、いつか本当に「自分の作ったキャラクタの首を刎ねられたくない権利」が消滅してしまう可能性も考えられるのです。だから我々は、断固として「そういう問題じゃねえ!」と叫ばなければいけません。
ありましたね。
性描写がない作品を元にして、性描写を内容とする作品を作成、販売したことを理由に、同一性保持権の侵害を認めたケースがあります(東京地判平成11.8.30「どぎまぎイマジネーション」事件)。被告は、同人文化の一環としての創作活動であり、違法ではないと主張しましたが、退けられました。
同一性保持権については著作者の『意に反して』とされ、著作者の主観的意志がキーポイントになります。著作権者死亡後の争いにおいては、その意志を推測するしかありません。故に、うっかり事実上黙認したまま死んでしまうと、別に意に反してなかったよね!という既成事実が形成され、同一性保持権を失ってしまう可能性があるでしょう。
一方、名誉声望保持権ではその名の通り著作者の『名誉又は声望を害する』行為について禁じています。よって、著作者の死後、該当行為は特に名誉を傷つける行為ではないという認識が一般的になれば、社会的状況が変化したと見なされ権利が消滅する可能性があります。
しつこいようですが、知財関係の権利はきちんと行使しないで黙っていると、権利を失ってしまうということが往々にしてあるのです。
主観以外に何か書くべき事でもあるの?
それは君の主観であり、関係ないのでは?
http://live.nicovideo.jp/watch/lv77506187
50分から70分までの内容。
文字書き起こしではありません、主観を混ぜて恣意的に編集してます。ニュアンスも微妙に違っていると思います。
(カッコ部分は岡田さんは言ってない部分です。私が勝手に付け足しました。明確に私の意見であるとわかるようにしてます。)
「勝利のイメージを持たず、勝算を考えず、勝算が低いとわかってもその活動にこだわろうとするのは、運動自体がやりたいからだよ」
経団連と交渉して就活のルール変えていきたいっていってるけど、
そもそも今の就活のルールは経団連の責任なの?経団連さえ変われば就活は変わるの?
それを受け入れてる学生側の意識に問題はないの? 変えていくのは学生の意識が先じゃないの?
経団連がどんだけ強いのか知らないけど、経団連に関係ない企業が95%以上あるよね。
経団連がアホなことばっかり言ってるならそっちには行かないって
みんなが言うようになればいいんじゃないの?
「経団連に左右されてるだの影響力が多いだの」っていうのは主語が消えてるよね。「学生が、影響されている」だよね。
まずそれを取り違えてない?
別の話で例えよう。
ジャニーズみたいなイケメンが5%、それ以外の男が95%として
「女が、自分はイケメンに選ばれないから不満だ。自分がイケメンに評価されるようにルールを変えてください」って
女が交渉したらうまくいくと思う?
それって個人だから聞いてもらえないけど団体交渉にしたらうまくいくって類の話だと思う?
この場合だったら変えるべきなのは、女の意識じゃない?イケメンにこだわらなくてもいいって考えを押し出すべきでしょ?
・・・ほらそこですぐ「イケメンに訴えかけつつ、女性側の意識も変えていきたい」って言わない。
(今は両面選べないって前提で話をしてるんだ。わかりやすい例えまで出して選択を求めているのにそうやって問から逃げるのは卑怯だよ?)
戦い方として考えた時にも、単に団結して交渉しようってのはおかしい。
労働組合に意味があるのは、運動しているのがいなくなったら困る人だからだよ。
たとえきみたちが頑張って10万人集めたところで、
交渉したいんだったら、まず相手をよわめて自分たちを強めないと。
経団連の影響が弱くなる状況を作らないと。
「経団連の影響が強いから直接経団連に訴えかける」っていっても
向こうとしたら交渉のテーブルに座る必要すらないよね。
君たちがやるべきなのはまず
「相手は間違ってるから私たちのいうことを聞くべきだ」なんて
真正面から突撃することじゃなくて(というかこれただの自己満足玉砕だよね)
ハッピーになれる人たちといった現実的なイメージを数多く作って
というルートを作っていくことだよね。
(あととにかく「学生が」「親が」って言うのは一旦やめろ。
まずキミはどうなの?キミは95%に興味がないの?大企業に就職したいってことでしょ?
社会運動って言ってるのにその中心であるキミ自身の考えをいろんなもので代弁してごまかしてるようにしか見えないよ?)
君たちの活動が盛り上がらないのは、他の学生が参加できる、したくなるような明確なサクセスストーリーがないからだよ。
「就活活動をしないで多様な幸せ像」を提示していく必要がある。お金がないとか広報する手段がない、っていうよりまず中身を詰めなさいよ。
厳しいこと言ったけれど、僕(岡田)は今の就活、特にリクルートのやり方が正しいとかは全く思ってないよ。
リクルートが学生や就活を対象としたプアビジネスに目をつけてそれを続けた結果として、洗脳が完了してるってのが今の状況だろうくらいに思ってる。
パ○ンコとか就活産業は社会的正義ないと思うし、日本の恥だとおもうんだよね。
社会にあるものは誰かに必要とされてるのは認めるけど、そろそろやめようよって言いたい気持があるよ。
でも潰れろっていっても潰れないでしょ?デモしても受け入れてもらえないでしょ。
それよりは「就活リテラシー」がない人が食い物にされてるって問題に注目して
この人達の就活リテラシーを上げて、支援するためのサービスやんなよ。
今はリクルートが用意した呪いの剣と呪いの鎧しかないわけじゃない?
鎧は重くて体力奪われるし、剣も切れ味悪いよね。しかも高い、と。
呪いを解く教会と、適切な価格でちゃんとした武器防具を提供してあげればいいよ。
すごく話が盛り上がっていたんだけれど、このあたりでいきなり生放送が切れてしまって復帰しなかったため(リクルートの妨害?)
残念ながらここまで。「就職肉食系をやめて草食系スタイルで行こうよ」ってテーマでかなり興味深かったんだけどなー。
ここから感想。就活ぶっ壊せデモの学生側の言葉は全く響かなかった。迷走ってレベルじゃないわこれ。同じ年の私から観ても子供のお遊戯。
私も大学3年生で就活を控えており、彼らがそれなりのビジョンを持ってるのかな、と期待して話を聞いてみたんだけれど
とにかくピントがぼけまくりな上に、唯一明確な行動方針が「人数集めてデモしたい&経団連とルール交渉していこう」ばっかり。
現実性が全くなかったうえに、代替案があんまり考えられておらず、岡田さんの問題指摘についての反応が鈍いなど柔軟性にも疑問があった。
あと、リーダー?が宮内という人2ちゃんねるでよく見かけるバーチャルな人格がそのまんまリアルに出てきたみたいでかなり気持ち悪かった。
妙に上から目線だし、岡田さんがアドバイスしたら「じゃあ岡田さんが協力してくださいよ」とか「それは岡田さんのビジネスになりますね」とか返す。
それでいて、主張にしてもいちいち「マクロ的にこうだから」「みんなそうしてるから」「経団連がー」というのが多くて
彼自身が、彼自身の責任で、自分の主張をするのを避けているのが、ものすごく不愉快だった。
我が強くて自分の意見をゴリ押ししたがるくせに、自分の意見について責任を取らないって最悪じゃね?この人と一緒に仕事したくないな、と思った。
それでも・・・空気読めないにしても、岡田さんにさんざんダメだしされてもひるまずにしゃべり続けたって度胸はほんとすごいと思う。
こういう感じで怯まずにいろんな人達から色々話を聞いているうちにちゃんと目標が定まって、何かやラかしてくれるかもしれない。
途中でボツ。 もうちょっと具体的事例とかわかりやすさとか考慮シないといけない。私自身勉強が足りない。
橋下さんは学者の意見を実効性がないとか現場を知らぬ机上論といって批判するが、学者が機能できないのはあなたのせいです
森岡孝二が6年前に出版した『働きすぎの時代』にたいして、「働きすぎの要因の考察については「よくわかる」が、働きすぎ防止の指針については「実効性に欠ける」という」批判があったという。本書にたいしても、同じような批判があるかもしれない。しかし、それを大学の研究者に言うのは酷である。「実効性に欠ける」のは、そもそも就職協定を守らない、企業のコンプライアンスの根本が問われるようなことを考慮に入れなければならない現状があるからだ。多少なりとも「守ってくれる」なら、研究者としてももっと違った対応の仕方がある。
このチェックを受けることを拒否し、はなっからルールのことなんて考えずに好き勝手に振る舞う政治家に学者ができることなどない。
もしそれに置いて役に立つ学者がいるのだとしたら、それは学者という肩書きだけ持ってるが、学者としての仕事をしていない人である。
ルールを守らないモヒカンにどもが「ルールの話なんかいいから野球やろうぜ!」と言われたら、審判は仕事などできないのだ。
御用学者を好む人間には、まともな学者など何の貢献もできないし、原則としてゃ領分を越えてルール無視に加担すべきではない。外側でみんながルールに気づくのを待つしかない。
そもそも繰り返される現場重視のフレーズが、典型的に日本人ビジネスマンの勘違いにうまく便乗していていやらしい。
「現場力」やら「現場第一主義」という言葉に対する根強い誤解は何とかしなければいけない。
日本の、この手の勉強に熱心でないサラリーマンは、文字ヅラだけ観て、あるいは自分たちに有利だからと積極的に誤読をする。
現場主義って言葉の意味を聞いたらどういうふうに解釈するか100人にアンケートをとってみたら
「トップは現場を知らない。そんな奴のいうことを聞かなくてもいい」「現場の意見こそが絶対」「現場を知ってる奴vが偉い」などと都合の良い解釈をするのだろう。
これは非常によろしくないことだと思う。
この手の「現場は偉い」思想の誤解は2点ある。
問題と顧客をうまく取り扱うために、間接的に現場で働く人間が大事にされることはあるが、現場の人間が大切にされることは目的ではない。
現場の人間がこれを勘違いして、自己の主観で好き勝手にして、結果として問題と顧客の扱いを誤るなら、その人は現場を知ってる「だけ」であり無能である。
あくまで、現場において問題と顧客をよく理解し、彼らのために何ができるかを提示できる人が現場力のある人である。
極論すれば、現場に一度も顔を運んだことがなくても、これが出来る人がいるなあ、その人が最も現場を知っている人である。
橋下さんの今までの発言を見ていると、全然現場力がある人には見えない。(ただし「それ以上に」大阪の教育委員会などは現場力が低いこともあわせて指摘しておく)
目糞が鼻糞を笑っている状態なのに、私は現場を知っていると言われても正直ひくわ。
トップが考えるべきことと現場の人間が考えるべきことは、単にレベルが違うというものではなく、考え方の性質そのものが違う。
「現場がこうだからトップの政策はこうなりました」というものではない。
「あなたは現場を知らないから頓珍漢な政策批判をする」という主張は論理的に成立しない。
とにかく、現場に正義も、絶対的な権利もないのに、あれだけ自信たっぷりに喋ってれば
なぜかマスコミは「こっちが勝ち組だ」と誤解して尻馬に乗り、マスコミの報道は片面的だからすでに勝敗が決したかのように報道されてしまうと。
学者の意見について実効性がないと批判するのはある種日本のお家芸であるが、これはアメリカだったらただの無能の証明である。
自分はこんなにタブを開いているが読んでいるのだろうか、全て読む必要があるのだろうか、したいことはなんだったんだろうか。
はてブやツイッターを見ながらタブでどんどん開いていき、読むのがめんどくさくなったらブクマをはる。なんのための情報集めだったんだろうか。
有益な情報がたくさん見つけられて、興奮する瞬間もある。
『有益な情報』、特に『ライフハック』と呼ばれるものは”方法論”で、”こうすればうまくいく”とか”これはよんどくべき、やっておくべき”だとか。
そんなこんなで、情報を集めたあと、実際に自分の行動を選択する瞬間がやってくる。
現実に活かす時だ。この時を待っていた。
有益な情報の中から『選択』をする。全てをやる時間はないし、それぞれの情報には齟齬が生じる。そこで取捨選択が必要になってくる。
このときに無意識なうちに心がけてしまうのが、『一番公平で』、『一番万人に通用しそうな』、正しく一番『合理的な』方法や情報はどれであるか。
ここで変なのが、はなっから『自分』が存在しないということである。合理的というのはいかに自分を消すかということであり、万人に通用するような一般則をみいだすかである。自分という文脈を完全に無視している。ある意味自分を否定することから始まる。
もう一つおかしなことがある。選んでいる自分自身は『合理的』・『無私的』かもしれないが、その情報は論理の飛躍があるかもしれないし、誰かの主観が凝り固まったものかもしれない。
ここで言いたいのが、論理の飛躍や、主観の凝り固まりが情報の質を著しく損なうものであるかといえばそうでもない。
むしろ、強烈に面白いと思われる物、人、情報は往々にしてなんらかの論理の飛躍、論理では説明できないなにかを内包している。
面白いというのは価値である。絶対である。面白さ=品質である。
しかし、面白い情報を集めることに意味があるのだろうか。それらを厳選して、凝縮して、合理的に、無私的に。
集めている段階から自分を殺しているのだから、自分の血にも肉にもならないし、なったとしても魅力的ではない。つまり面白くない。
情報の質はそれぞれ高いかもしれないが、それが脈絡なく量となって降りかかって来る頃には無価値となる。
結局人が求めているのは成長と共感である。自分自身の成長を感じる、か、自分自身と照らし合わせる、の2択である。
その情報が嘘かホントか、合理的か非合理的か、が問題になる情報は少ないし、そもそもインターネットという媒体にはそぐわない。
嘘でもいい。自分にフィードバックがあれば。自分にフィードバックを求めるためには、インターネットの中に自分を置かなければならない。虚構の固まりの中に。
発しなければ、返ってこない。今受け取っているものはその他大勢に発せられた無価値なものである。孤独を催させ、自分を否定するだけのものである。
ライフログとしてのインターネット。情報を体験に変えるものと信じて。
いつも何気なく、インターネットを見ていたブラウザ、Internet Explorer。Safari。どれもただブラウズ=閲覧という意味を越えている。
もともとそうなのかもしれない。自分自身が入っていかなければならないのかもしれない。インターネット探検家として。
インターネット探検家。私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ありがとうございました。
まず前提として
「凄い絵を描く個人」に対して、海外の人間が「日本人すげえ」とコメントしている記事がある
http://b.hatena.ne.jp/entry/nylongirls.jp/archives/5068763.html
そしてこの記事へのコメントとして
「日本人全員がスゴいという文脈にもとれるけれど、そうじゃなくてこの人個人が凄いんだろ」というコメントがついていたのを見て
私は「この人は空気の読めない人だな」と腹が立った。
(ここは超意訳)
たとえば松本龍が震災後発言をとがめられた時に私はB型で短絡的な~というような発言をしていたが
彼はB型全員が失言体質なのではなく、自分がB型でそういうタイプにあるという主観論を述べたかっただけである
私はあの世代の人間はそういった言葉の選び方をするものだと理解している
話をもどすが、海外の人間はなんとなく日本人は手先が器用で細かい事が得意だというイメージがあるようだ。
彼らが「日本人すげえ」と発言したのはもちろん日本人全てが手先が器用で細かいという発言ではなく
松本龍が自らをB型と称したように、「凄い絵を描く個人」を「日本人」と呼称していたに過ぎないのだ。
それをわざわざ上げ足を取るように日本人は別に凄くないと言いなおすなんてあいつらはブサヨに違いない
アレだけは本当に迷惑で、我慢ならない。
あの歩く地雷みたいな連中のせいで、どれほどの人間が人生を壊されてきたのだろうか。
しっかりと取り締まってくれ。主観では身体的暴力より精神的暴力の方が重罪だ。
混沌に名前を付けて"あちら"と"こちら"を分けるのが文明の方向性だ
しかしそれには終わりがない
「然し、真理といふものは実在しない。
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です」 坂口安吾 余はベンメイすより
極限まで分化が進んだ世界は、未分化の世界と区別できないだろう
細かく分けられた世界の構成要素とその連関を全て把握できないのであれば
さて、主題に戻ろう
潔癖性とは、未分化に耐えられない状態だろう
ここでいう潔癖性とは一般的な意味でなく、自らが持つ理論や信条・信念を最も大切にするという傾向だ
例えば、婚前交渉は無くなるべきだという信念を持つ者は、それに反対するすべてを否定することで、自らの信念を大切にするだろう
このような潔癖性においては、自らの信念に反対するものは消されるべきものだろう
人間の主観で分かつものは、分かつ基準そのものに正確性を欠き、必ず矛盾をはらんだ中立・混在を作る
つまり、ある定義をした時にその定義で定義しきれない部分が生じるのだ
「αを持つものをAとし、βを持つものをBとする」として、αとβの両方をもつ、もしくはどちらも持たない存在が生じる
しかし、それには終わりがない
そして、その「終わりがない」という事に絶望しやすいのが潔癖性だ
初めて読んだ。最初の部分はドンビキしたけど、1巻の途中からもう引き込まれた。文庫の10巻までノンストップで読んで疲れたのでちょっと休憩。
テレプシコーラとか、昴を読んでる時と同じで、なんとなく作品の中に自分が観客として引きずり込まれるようなでもそれが心地よいような。なにこの吸引力。
この世界から抜け出すのがもったいなくてついつい一気に読んでしまったよ。
まだ面白さが言葉に出来ないので、類似の作品を読んでみたいと思うけれど、他にどんなのがあるかなー。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1323588553
少女漫画だと
猫山宮緒さんのエデンにおいで
PA
青年紙等だと
うーん。なんか違う。
特にスキップ・ビートはこれはこれで面白いと思ってるけど、これと比べるとコレジャナイ感が出る。
ただし、これは好みの問題であって、私はガラスの方が好きだけれど、多分スキップ・ビートのほうが好きな人も多いと思う。
基礎から理論や練習を段階踏んでいくより、ひらめきとか勢いで乗り切るほうがスピード感あって良いかもしれないし。というか多分この部分は邪魔なんだろうなー。
だから、むしろスキップ・ビートは意図的にこの「ガラスの仮面」を現代の読者のためにリバイバルさせる作品を手がけようとわけだから勇気があるな、と改めて評価したくなった。