はてなキーワード: 道化とは
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111228/1325062897
「はてなでのケンカは相手を不愉快にさせたほうが勝ち」というルールをこれ程わかりやすく実践している人もいないだろう。
「各個撃破」の面白さここに極まれり。本題は無視して、相手の隅っこだけをつつく。これははてなにおける定石である。
まともに議論をしようとしている人は「それになんの意味があるの?」と思うだろうが、もちろんなんの意味もない。
はてなでは「勝ちの基準」がこうなっていて、みんなそのルールの中で「勝ちたい」からそうする。それだけだ。
多分外部者の大西さんはいまごろ「???」となっているだろう。 日本国内での異文化コミュニケーションへようこそ。
多分だけれど、ハックルさんは次あたり「相手を怒らせて本音を語らせる技術」というのを書くと思う。彼の言い分としてはこんな感じかな?
「世の中のよくわかっていないことについては、
わかってそうな人に怒らせて議論を巻き起こすこどで、社会の議論を活性化させるんです。
僕は、みんなが思ったことも言えないままあやふやに物事が決まっていく今の世の中は許せないんです。
でも、みんなが本音を言うのは、相手が悪者で、愚か者で、何言っても許される、という時だけなんですね。
自分より賢そうな、自分より人格者の相手には、遠慮して大したことを言えなくなってしまうんです。
でも、僕が人を挑発すると、みんなは実にいきいきと、知識に裏付けられ、ユーモアにあふれた言葉でいろんなことを語りだすんです。
僕がそれを引き出しているんです。この僕が、上手に引き出しているから彼らは自分の心の奥で眠らせている言葉を外に出すことができるようになるんですね。
本当は怒らせなくてもみんなが本音で語り合え、それぞれの知識を持ち寄って有意義な議論をできるような場が必要なんですが、
今は誰かが叩かれ役になってでも、議論の口火を切って、話を盛り上げて行かないといけないんです。
どこぞの○間女史にはできないことが僕にはできるんです。」
という泣いた赤鬼的展開あるいは白熱教室的な教育を礼賛する話をその打ち始めると思う。
これ、何かに似ていると思った。
昔の2ちゃんねらーへの人間ができ過ぎた対応はどうなったんだ?!と思ったら・・・
乙武さんは、一部の2ちゃんねらにしか過ぎない人を2ちゃんねらだと思ってるし、それを評価してるし、だんだん同化しつつあるようなのを、検索してたらなんとなく感じた。
褒めてたり、煽り耐性がついたとか、ツイッタなんか2chに比べると余裕とか・・・
「若くして世に出てしまった僕に強く物が言える人」で検索すると出る
乙武さんが2chをいやν速を意識してるのがわかるらしいバンド名
http://watch2ch.2chblog.jp/archives/3811689.html
何事に対しても、斜めでやりすごすというのも、道化やふざけ、からかい、中傷で対応する、(時には罵詈雑言) というのも、一種の自我防衛本能ではないかと思うが、防衛しなくてはいけない何かがあるのかもしれないし、それは別の守られ方をした方が良いのかもしれないけど、
何も乙武さんまで真似しなくても・・・ 嫌な事は嫌と言えばいいんじゃないの?
嫌じゃないのかもしれない。本当に好きなのかもしれない。
だから、こういう風に言うのかもしれない
「「2ちゃんねる」において、僕は不思議と愛されているようで、」
http://blog.livedoor.jp/yumemigachi_salon/archives/51422547.html
でも、こんな事↓するくらいなら、名誉毀損で黙らせた方が良かったのではないか?(註あり)
どっちもかまってちゃんなのに、
しかも、彼が取った手法は、3行でで済ませてしまったり、一部を切り取って見せることで、全体をわからなくさせ、物事の本質や深い理解を遠ざけてしまったり、一面的な事実や、一部の義や理によって断罪するやり方 断罪ではない断罪 罪とは言わないがやられた方は、場合によっては、罪のある人と同じような罰を受けたりする事もある。 精神的だったり社会的だったりするが。←これに近いものがある。
ツイッタは文字数が限られているので、そこで話すには適さないことも当然ある。
しかし、逆にそれを利用して、断定的な言い方の多様やイメージ戦略みたいなもので、人々を惑わす人たちもいる。
というか、惑わすと言うと言葉は悪いが、宣伝や営利目的でやっている人や会社も多いだろうし、それを推奨している面もあるようだ。ツイッタの本にもそういう使い方が載っている。スパムはまずいが自然な拡散を狙って宣伝する方法もありますよー登録して下さいよーというふうにツイッタ自身が言っている。
だから、ツイッタ的にはイメージ戦略も大いにけっこうなのかもしれない。もともと商業用だからw というかそれを禁じてるわけじゃないから。
なんだかなあと・・・・
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かまってちゃん というのは、かまって欲しくて悪さする人 のこと 気を引こうとしたり
乙武さんは、かまって欲しくて悪さする2ちゃんねらたちの中に、自分に対して救済を求めるような何かでも感じたのだろうか?
両方ともかまってちゃんだとしても、一般女性の方は、真面目で切実なものがあるかまってちゃんではないのかな
(一般女性の方をかまってちゃんとするのは、異論があるかもしれないが、あのまとめたやり取りに対する見た人や乙武フリークのような人のあの一般女性の捉え方は、「絡んできた人」精神的な問題があるから言ってはいけない事してはいけない事をした人 という捉え方で、彼女が自分のタイムライン(TL)で自分の独白のように吐き出した事も言ってはいけないことのように捉えているから、まあかまってちゃんと仮に呼んだ。)
自分のTLでつぶやいた事で、かまってちゃん認定もすごいと思うが、その意見はそこまで悪いものとして封じられなくてはいけないものなのだろうか?初期乙武批判の2ちゃんねらの何がしかの義に近い論旨で、誰でも言いそうな気づきそうな指摘だった。誰でもいいそうと言うか当然気づく乙武さんに対する矛盾や疑問も含んでいた。言わなくてもいいことだし、言われた方は良い気はしないかもしれない。しかし乙武さんは2ちゃんねらに対しては言われたら不快に感じる誹謗や中傷や人格否定を許しているのはどういうわけだろう?
乙武さんに関して、論理的に冷静にものを考えれば当然気づく素朴な疑問を、言うと、まるで天皇批判でもしたかのように、ν速的手法で断罪されるなんて恐ろしいw
論理的にというほど大げさに言わなくても、子供でもわかる理屈で、「あの人、なんかしたん?」何か具体的に実用性がある情報を提供したり社会に技術的に役立つ情報を発信しているわけではない。ある程度以上の知能はあるにしても学問的に貢献したとか言うわけでもない。
しかし、そういう人は他にもいる。実用的な情報以外流布しなくなったら、すっきりして良いかもしれないが、他に支障が色々出るような気もするし、それはそれで良いと思う。害にならなければ。
女子供が好むものなんて、大抵そういうものだ。と書くと偏見を助長してしまうから良くないが。
和田アキ子さんが昔昼の番組で、乙武さんの就職に関してだったか、本を出した後もメディアに出る方向に進んだ事に関して、ちょっとアレ?っと思ったような言い方をしていたが、そんな事を言う人は今はいないのだろう。
それに、最近乙武さん関係で目にするのは、このようなちょっと残念な事か、気を衒ったような事か、意外性みたいな事が多いような気がする。だから誰もそんな事言わないのかもしれない。
90 :名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/10/12(水) 08:53:46.24 ID:o2kcgtB90 808 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2011/10/08(土) 02:39:28.56 ID:uWF87M8U0 お前ら彼氏の作った曲でライブでハイッ!ハイッ!オイッ!オイッ!って頑張って サイリウム振ってたのかwww 最高に笑えるわwww 108 :名無しさん@涙目です。(愛媛県):2011/10/12(水) 08:54:38.25 ID:YcSnqWf70 >>90 おいおい いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるぞ 111 :名無しさん@涙目です。(福岡県):2011/10/12(水) 08:54:53.56 ID:v1UZUDuP0 >>90 (過呼吸) 152 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/12(水) 08:57:20.21 ID:0vEVErT70 >>90 。゚(゚´Д`゚)゚。 183 :名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/12(水) 08:58:59.32 ID:5YoMkxnQ0 >>90 糞わらたw 声豚かわいそうすぎるw 269 :名無しさん@涙目です。(庭):2011/10/12(水) 09:03:25.49 ID:WpCIONGv0 >>90 しかもサイリウム振ってた奴らのおかげで彼らは左団扇なんだと思うと爆笑モノだわ 272 :名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/12(水) 09:03:28.30 ID:gRV7bzP2P >>90 哀れすぎるw 283 :名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/10/12(水) 09:04:05.24 ID:vPEsgL1M0 >>90 道化すなぁw 721 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/12(水) 09:28:25.34 ID:i6bIUuJQ0 >>90 泣いている子もいるんですよ!
同級生の持ってる時計の高さに引いた
時計の金額を見ていると婚期逃すよ、と2ちゃんで揶揄されてたけど
同姓の俺が見てもそうなのかなあ
それに比べ俺は給料も増えず、彼女も大学卒業後0、家は無く、車のローンで四苦八苦
ほんのちょっとの差がここまで差がつくかー
どんだけ薄給でも都会にしがみついていたらチャンスが広がっていたのかな?
それはあなたの意思と努力と能力の無いせいだよと言われたら何も言えない
でもそんな強くないよ
今はそんな事する余裕全く無いや
日々の仕事に追われ、日々のストレスに苛まれ、日々ただ過ごすだけ。
年に一度、毎回同期と会うけど、その度にボロボロにされる
昔はそんな俺を弄ってくれて、お前努力家だし、すぐにこっちのステータスに来れる来れる!、とか言ってくれたけど
最近はもう腫れ物に触るかの扱い
大体、会話のレベルについていけない
俺はそんな大層な仕事がある職場でないから、自分を道化にしてなんとか笑いを取っている
いいやつらだし、この縁はずっと続けたいと思っているけど
どうして苦しいことを認められなかったのか。
「かわいそう」でした。
人の世と隔たれた様なアフリカの小さな村での、矮小な自由から別の異質な自由を手に入れた彼等は、かわいそうでした。
彼等は学校に行けません。
彼等は人を愛せません。
彼等は私たちと同じじゃありません。
だからかわいそうでした。
皆大体同じことを考えたと思います。
今の社会では愛や希望と同じくらいに、他人の苦痛が氾濫しています。
そして情報化のおかげで感情というよくわからないものが相対化され、値札がつくようになりました。
違うのです。
周りの人も全然疑問は湧いてないようで、私もそう考えていました。
「苦しい」と言えば、
「お前より苦しい生活している人は一杯いる。」と言われ、
「死にたい」と言えば、
「お前が死にたがっている今日は、昨日死んだ奴が生きたかった明日なんだ」と言われる。
そしてそんな言葉を口にすること自体が恥ずかしく思われる様になり、中二病なんて名前が付けられる程になりました。
私は小学生の時に太っていることを理由にいじめられていました。いじめと言っても一部のクラスメイトなどに「デブ」などと言われるくらいなのでまぁ大そうなものではありませんが。はっきりとではありませんがその頃、デブでスポーツも出来ない私は全く価値の無い人間なのだと考えていたのですが、小学校高学年あたりでそのいじめはなくなりました。
理由は私の兄にありました。
私の兄は、かっこよくて、スポーツが出来て、私みたいに太っていなくて、そして、とてもユーモアのある人でした。
少し我の強い人でしたが、一緒に遊んだ時はなにかと私を笑わせてくれたのでその時の兄はとても好きでした。私はかっこよくないし、スポーツも出来ないけど、人を笑わせることなら出来るんじゃないか、と考えました。
実践してみれば簡単なことでした。
変顔をするだけで笑ってくれるし、デブと言われても開き直ればそれでまた皆笑ってくれる。ああ、自分の価値はここにあるんだなと思っていて、将来はお笑い芸人になろう、などと考えていました。
今思えばここが間違いだった、と感じています。
道化は見世物です。故に私という存在は指をさされ、馬鹿にされ、笑われるべき存在です。
そしてそのピエロは観客の嘲笑に包まれた喜びを糧に生きていくのです。
人の好奇心は底が無く、少しタガが外れれば面白いことならなんでもいい、と考えてしまいます。要するに、面白ければ私には何をしてもいい、という結論に至るのです。
私はそれを苦痛だと考えませんでした。
周りの人が笑ってくれることが喜びであり、それが快感でした。
ただ、やはり好奇心というものは一か所に止まらずに色んな方向に向くもので、自分では飽き足らず、いじめや、危ないいたずらもするようになりました。
私はそれを見ているのがとても嫌いでした。
笑うべきは私の存在であり、どんな下らない罵倒でもそれを身に受けるのは私の専売特許のはずでした。私の生きがいを横取りされたような気持になりました。
それは単純に、私は苦痛を喜びに変えただけであって、他人にとって苦痛はただの苦痛だったのですから。
私は本当にうれしいのか?
中学生になり、地元の学校だったので小学校のほとんどの生徒が同じ中学校に入学しました。思春期ですのでこの頃から自分の体型にコンプレックスをもつようになり、友達に部活の入部を勧められて、これは良い機会だと思い、サッカー部に入りました。
そうするとやはり、私を知らない人達も私を私として扱うのです。
わたしは結論しました。
部活に入ったお陰で自分でも見違える程痩せることが出来ました。しかし二年生になってすぐやめてしまいました。原因はいじめもありますが、何より私はスポーツのセンスが無いようで、後輩に馬鹿にされるのがこわくてやめて、というのが一番でした。
こう書いていると私はいつも教室の隅に追いやられているような生徒に感じると思いますが、私は交友関係が広く、人気もそこそこありました。情けないことに、私こそ周りの人達と同様に私を私として存在させていたのです。
何故なら、私はその私しか知らなかったからです。それに、今の私をやめてしまえば私の価値はどうなるのだろう、何か残るのだろうか、と考えていました。
中学生にもなると、いたずらなどを楽しむより、好奇心の側面としての、暴力的な行動が盛んになります。それで中学二、三年生では私はサンドバックでした。どこかで会う度に殴られるようになり、私のクラスでは暴力をけしかけるような人はいなかったので、教室の外へ出るのが恐くなりました。
勿論初めのころは抵抗していました。しかし、毎日、毎時間と続く暴力と、自分が未だに道化でいるという立場のせいで怒りを露わにすることができないという下卑た矜持と、そして何より、彼等の私に対する態度に絶望しました。
私が少しふてくされると、彼等は「ごめん」と言ってくれました。しかしすぐにまた同じことをするのです。その度に彼等は謝り、謝罪という行為の中に含まれているであろう自省や克己を蔑ろにして、5分前の誓約を堂々と捨てるのです。
一度、本気で怒ったことがありました。その日は珍しく喧嘩別れになったのですが、翌日にその人物は私に少し沈鬱な面持ちで謝罪してきました。私はその言葉を信じていました。しかしその翌日には何も変わってない、彼等と私の関係が在るだけで、自分が激怒した様子を真似された時は、名状しがたい、確かな殺意と、他人に対する恐怖と、途方もない呆れがないまぜになった感情で吐きそうになりました。その時、自分は人に怒ることはやめて、諦念が纏わりつくようになりました。
ただの暴力は一部の人間には大変興が乗るようですが、大半の人は一歩引くのが普通であって、いくらなんでも、やり過ぎではないのか、何故こんなことをするのかと聞くことにしました。この頃は最早彼等の前での私が思う私はただのいじめられっ子でした。
彼等いわく「お前を見ているとむかつくから」とのことでした。
なるほど私を見ていると苛立つのですかそうですか、じゃあ私はどうすればいいのだろうか、私という存在がむかつくのですかじゃあ私が消えればいいのですね。
彼等は私を少しも憎んでいないというのは知っていました。週末になれば遊んだりもするし、私を殴る以外にもコミュニケーションをとろうとするからです。一方私は殺意を持っていましたが、彼等に対する好意も持ち合わせていました。何故なら、暴力的じゃない彼等は面白くて、自分と対話してくれるからです。そして彼等は私をいじめていると考えていないのです。
限界はどうしても来てしまうものです。三年生頃には、家に帰って布団の中で泣くことが多くなりました。何故自分がこんな目に、自分は悪くない、やりかえそう、殺そう、という感情が渦巻くのですが、不思議なことに翌朝になると何事もなかったかの様にすっきりとしてしまうのです。一人で絶望を反芻する度に決意し、忘れる、ということを繰り返していました。同時に、私は学生生活を楽しんでいました。私でいることを楽しんでいたのです。
そして学校で面白い奴でいる私と家で惨めに布団にくるまって泣いている私とで、完全に乖離しました。
しかし私は希望も持っていました。自分の様子が変だと気付いた母親に尋ねられ、私は「馬鹿で嫌なやつがいる」とだけ言いました。すると母は、高校生にもなればそんなやつはいなくなる、と言ったので、私はなるほどと思い、多少の虚脱感と戦いながら勉強に励みました。高校生になれば自分は変われる、と信じながら。
勉強のお陰で、それなりの、県内で指五本のうちに入るか入らないかというレベルの高校に入学出来ました。少し離れたところにあり、何より自分を日常的に殴っていた人達はその高校に全くいなかったのでとても喜びました。
人格は変えることができませんが、キャラのようなものなら簡単に変えられると思っていました。しかし私はそこでも私を私として存在させたのです。
何故そんなことをするのか、私はいつまでも子供ではなく、自分の思考、行動の原因がわかるような年齢になりました。
私なりの結論でした。
そしてそれは正鵠を得ていました。
教科書を破られたり、靴を捨てられたり、落書きされたり、チョークを食べさせられたり。一日そんなことが無いと、何故か残念な気持ちになるのです。そして、私が望んだ苦痛を与えられると、不快な感情と同時に、安心できるのです。高校生にもなって、いじめられている悲劇的な私が好きなのです。皆から同情の目線で見られている私が好きで好きでしょうがないのです。しかし絶望もします。私は変わることができなかった。私は悪くないのに惨めなままだ、それは他人が無知蒙昧であるからだと怨み言が頭に並びます。
この頃、自殺願望がありました。しかし実際は死にたくなどありませんでした。何故なら私はまた、今の私を楽しんでいたのです。
高校三年生頃になると、受験シーズンとなり皆が勉強に励むのですが、私は中学生の頃の 様に大学に希望を持つことが出来ませんでした。それ以前に、普段の勉強からしてやる気になりませんでした。たまにやる気になって休み時間などに勉強していても、クラスの人が辞書を投げてきたり教科書を濡らされたりして勉強になりませんでした。
全てが嫌でした。
惨めに耐えているだけの自分が嫌でした。
こんな恥ずかしいことで頭がいっぱいになっている自分が嫌でした。
死にたい、とか、何故生きているのか、とかは子供が持つ感情であり、十八にもなった男子が持つべき感情じゃないのです。何より私は毎日学校に通えて、屋根のある家で寝食が出来て、家族がいるので、とても恵まれた人生を送っているのです。
私より不幸な人は世界中にいっぱいいるのです。私は、私の苦痛を認めることなど許しは出来ないのです。
二律背反の、板挟みの状態がずっと続きました。
学校で笑います。家に帰って泣きます。猿の様に自慰をします。寝ます。さっぱりして学校に行きます。この頃は寝ることと自慰行為が喜びでした。
私はそれでも狂えない。皆の前では面白いやつで、先生の前では立派なクラス委員です。おかしいはずなんです。頭が焼き切れるはずなんです。
しかし生きることを望みたくないのです。私が悲劇的であるためには。
生きることも、死ぬことも、選びとらずに責任を放棄したのです。
結局これが私の思春期の全てでした。
大学生になりました。
冬に勉強をそこそこにして、なんとか国立の大学に入り、親の前での面子を保たせました。
大学は県外で、更に海を渡ったので、実家に帰るにも一苦労なところまで来ました。と言っても別にその大学に行きたかった訳でなく、県外であり、かつ自分の学力で行ける範疇の大学を選んだだけでした。やりたいことも無ければ、大学生の遊びを謳歌したいわけではなく、またしても選ぶことをやめたのでこの結果になったということでした。
大学生にもなり、皆、落ち着いた行動をしている。それに慣れていなかったので戸惑ったのと同時に、自分の知っている自分がいないことに気付きました。
しかし確実に私と違うところがありました。
彼等は正常でした。
彼等には目的があり、良心があり、喜びがあり、夢があるのです。
彼等は何の疑問を持たず勉学に励むのです。
思い切り殴られた時より、制服をびりびりに裂かれた時より、この目を見るのが苦痛でした。
苦痛の得ることの出来ない私は、更に酷く、目を覆いたくなるようなことをするようになりました。
自分の苦痛を認めずに、自分をいじめた人間に同情をし始めました。彼等を誰も止められなかったのがいけないのだ、彼等の行いは環境のせいでありもし自分が彼等ならば同じことをしていた、と。傍観して楽しんでいた人達も同様に立場が逆なら私もそうするだろう、と。
苦痛の無いことが私には苦痛なのだ、苦痛を失えば私は私でいられないのだ、と。
使用期限の過ぎた苦痛に、記号と化してしまった過去の苦痛に相変わらず縋りついています。
行きたくは無かったのですが、身体が限界の様なので、最近になって心療内科に行ってみました。どうやらパニック障害のようです。しかしその症状は殆ど昔からあるもので私には馴染み深いものでした。この機会に精神科に行こうか、とも考えたのですが、この頭を治す気にはなってないのでやめておきました。
私は毎日働いて生きていくことに魅力を感じませんが死にたくはありません。生を望み、相も変わらず自慰をして寝る生活です。
結局私はいつまでも私なのです。変わることなど出来ませんし、忘れることも出来ません。意志も薄弱で、一人の大人としての責任も持てません。
しかし案外明日には希望を持って歩き出すかもしれませんし、誰かと衝撃的な出会いをして価値観が180度変わるかもしれません。
こんな人間になってしまいました。多分私は誰かに決めて貰うのを待っているのでしょう。そしてわかったような顔をして卑下をしながら斜に構えていればいいと考えるのでしょう。
私の苦痛は私だけのものです。他の不幸や苦痛と秤にかけることなど出来ないんだ!、とでも思えばよかったかもしれません。
でも結局子供ですし、そんな考えにはなかなか辿りつきませんよね。大変です人生は。
なんか最後の方で口調が変わっている気がしますし、長ったらしく冗長とした文をたっぷりと書きましたがこれもオナニー好きな私のオナニーです。不幸自慢みたいなのって気持ちいいですよね。書いたら少しすっきりしました。何も解決してませんが。
1、それまで他人ごととしてニヤニヤ眺めていた状態にエラー発生。
2、脳が対処できずに3分くらい画面前でフリーズ。頭の中に投げ込まれた情報の塊を解凍。
3、ゆっくり頭の中で咀嚼。まず言われていいるとおりだなとうなづく。
4、俺馬鹿だなー、などと言いながらちょっと半笑いみたいな表情になる。
5、じわじわ怒りが込み上げてくる。
8、10分位暴れてようやく正気に戻る。
9、まだ頭に血が登った状態で指摘された内容に対処。
11、30分くらいしてからPC立ち上げて直前までの惨状を思い浮かべながら増田に書き込み。 <イマココ
具体的にいうとこんな感じ。
bio読んでpixivリンク踏んでくれるような人間ばかりじゃないのに
ぼけっとTL見てる人間にも絵を見せるチャンスがあるtwitter用アイコンの場所に他人の描いた絵載せて
ワロタ・・・ワロt・・・
プ
プww
・
・・
・・・
ああああああああああああああああああああああああAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!
みたいな感じだった。われながら良く解らん感情の波を体験した。
渦中の時は制御不能になっていて笑い事じゃなかったけど思い返すとすごいおもろい状態だった。
で、なんだかすげーすっきりした。
こういうガチ罵倒は胸にぐっとくるものがあるね。私みたいにこらえきれなくて履き出してしまう人がいるかもしれない。
道化とかストレートに悪口言う人が近場にいると、日常に張り合いが出ていいかもしれない。
でも、本当に疲れるからいつもそばにいられると困るなー(苦笑
自民も民主もどっちでもいいんですが,野党はどうしたって与党の足を引っ張るわけじゃないですか.
もちろんそれが仕事なんですが,行政なり立法なりのチェック機関として機能すべきところが,
与党=多数決で勝てる=野党は口しか出せない=口だけで効果がある=揚げ足取り,になるわけですよね.
そもそも頑張って議論していい法案に仕上げて与野党一緒に法案通したところで
議会の功績=与党の功績になるわけだから,そりゃ野党もやる気出ないですよね.
なんでこんな安定与党と騒ぎ立てる道化としての野党(それはそれで価値がある)という構図以外では
機能しない,つまりねじれた時点で機能不全になる仕組みがまかりとおっているのでしょうか.
他の国のように二大政党制に,なんて話だった気がするのですが,
何かシステム的に抜けているところがあるのでしょうか.
つまり一党優位用の仕組みを二大政党時代に利用しているのが問題だと.
それとも二大政党制の作法を政党も国民もマスコミも知らないのが問題なんでしょうか.
後者なら時がたてば解決するのかもしれませんが,前者だとさっさと直さないと時間の無駄ですよね.
誰か詳しい人,教えてください.
二次元の女の子はめちゃくちゃ可愛くて、処女で、ウンコしなくて、武術の達人とか宇宙人とかだったりしてかっこよくて……それでも……愛せない。
人は言う。欠陥だらけの三次元を捨てて理想だけを集めた二次元を愛せばそれで幸せになれると。
確かに彼女達は優れていた。あらゆる点で三次元を凌駕している。
問題は二次元と三次元どちらが優れているかなんてことじゃない。
俺が二次元の女を愛せるかどうかって所にに本当の問題がある。
俺達の資質の問題だ。お前は居もしないものを愛することが出来るのか?
しかし愛せない。二次元の女を愛そうとすればするほどますます道化じみてくる。クリスマスを二人で祝ったケーキの半分を、
二次元の女が食べたものとして捨てた所でゴミ箱には誰も食わなかったケーキが残る。
「彼女はケーキがおいしいと言っていたさ」とうそぶいても、頭は現実に向けて冴え渡る。虚しさから目をそむけることはできない。
発狂でもしない限り……。
結局俺は二次元の女を愛することはできなかった。
そんなことできなかった。
二次元の女を愛せ、だって? そんなもの、絵に描いた餅を食うようなものだ。
居ないとしか思えないものはもうどうしようもない。彼女達の磨きぬかれた美点も俺の努力も全ては無駄だった。ケーキも無駄だった。
1クールのアニメが終わって少ししたら天使ちゃんマジ天使と発言する奴が消えてゆくのを止めることはできない。嫁の名前は三ヶ月で変わるし、
圧倒的な現実の要請は俺の認識を曲げさせようとしない。虫歯の痛みは人を病院に駆け込ませずにはいられず、二次元の女は愛せない。
したり顔のバカがお前の愛でているものは絵でしかないなどと言いだすずっと前から何もかもはっきりと解っていた。
二次元の女が存在しない以前に、二次元の女を愛せるような狂った人間が存在していなかった。
俺がまともな人間である限りこの壁は乗り越えられない。限界は女の側ではなく俺の方にあった。
涙は追いつけない。
松本人志監督作品の映画「しんぼる」を見た。以下「しんぼる」及び「バベル」の相違点について言及しているため、両作品のネタバレ含むので注意。
松本人志はテレビで見せるフリートークと、コントで演じる役とのギャップが激しい芸人である。フリートークで自我を全面に押し出して、コントでの演技は別人格かのような憑依型。この二つを偏らず両立させて、しかも成功している。
映画「しんぼる」においてもまた、見た目奇抜だが、無口で平凡な思慮の浅い男(それでいてどこか狂気をはらんでいるような)男を自分に憑依させて演じようとしている。
では、何故見た目を奇抜にする必要があったのか、果たしてこの主人公があのような服や髪型のチョイスをするような人間だろうか?
見ているとそのような矛盾や違和感が何度も起こる、矛盾や違和感だけを繋げて映画にしたといっても良いぐらい出てくる。しだいに全てに何か理由があるんじゃないかと思うようになり、どうしてもそれを考えてしまう。最終的に「くだらない」が「面白い」って事ね、という所に一応行き着くが、やっぱり「で、それが何なの?」という疑問の答えにはなっていない。
この映画が、観客の解釈や理解をうながす為に作られているのは間違い無い。「もっと理由や意味を考えてみて!」と言われているような、そうやって考えるのが面白いという事だろうか。その結果裏切られてしまうカタルシスを楽しめ、そういう作品なのかもしれない。
解釈や理解しようとする事自体を楽しめ、というテーマだとして、ではその映画に正しい理解や解釈の正解は存在するのか? 存在しているはずだ。その方が面白いから。
という訳で、正解を探す事にする。
僕が考えた正解なんじゃないかと思う答えを検索してみると、バラバラの要素としては既出なのだが、統一されたものが無いのでここにその解説を書いてみよう。
「しんぼる」は、日本人の海外に対するコンプレックスを表現した作品だ! と強く断言してみる。
「しんぼる」は、2006年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」という映画を非常に意識した作品である。
バベルのネタバレになるが、バベルはメキシコ出身の監督と脚本家による映画で、ナショナリズム的な視点から観ると、思慮の浅い日本人のせいで、モラルの無いモロッコ人の子供が銃を使い殺され、それに巻き込まれた白人は自分達の事しか考えない。それにひきかえ他民族の子供を低賃金で助けるメキシコ人は陽気で善人だ、という解釈が出来る。松本人志はナショナリズムが強い思想の持ち主なので、バベルを観てメキシコ人ふざけんなよと、日本を馬鹿にすんなと怒ったはずだ。
だからしんぼるでは、同じ文脈で皮肉たっぷりに、思慮の浅いヘンな日本人のせいで、メキシコで不条理な出来事が起こり子供が不幸になる、バベルと同じくその因果関係に理由は無い。また物語の舞台となる国の数も同じ。バベルのアメリカモロッコで起こる出来事と違い、しんぼるでのロシア中国で起こる出来事は不幸ではなく、ただくだらない出来事なのだが、これはバベルの偶然性による不幸に対する皮肉なのだろう。バベルの偶然性による不幸が、メキシコ人監督の恣意的なナショナリズムにすぎない事への批判である。
さらに、映画の撮影の仕方も同じで、カットバックを使った演出もさる事ながら、しんぼるにおいてメキシコの場面での映像は、ドキュメンタリーのような手ぶれのあるハンディカメラの映像なのだが、これはバベルが終始そのように手ぶれのある映像だからである。
次いで、上記のバベルに対する皮肉を、さらに拡大して日本の文化による世界に対する皮肉、あるいはバベルを絶賛したカンヌ(フランス)のアートシーンに対する皮肉として、現代アートの文脈でアイテムが構成されている。
まず主人公の髪型や衣装は、フランス芸術文化勲章を持つ海外でも評価の高い草間彌生の格好で間違いない。脱出劇としては広すぎるあの白い部屋もインスタレーションそのもの。飛び出てくる意図的に日本の物に偏ったアイテム、それを使っての笑いは日本の文化の文脈のようでいて海外向けの笑いでもあり、これは海外でウケる日本の現代アートのコンセプトそのものである。
バベルやカンヌに反発を覚えながらも、欧米文化の中で迎合して同じ舞台に立たないかぎり世界的に受け入れられないというジレンマを抱え、それに対して下ネタとパロディという形で皮肉をこめ、彼らの持つ日本人のイメージを利用して、滑稽な道化のふりをして笑いを取り、しっかり世界にウケる現代アートの文脈にそって作品を作っている。
そして映画のクライマックス、最後の最後に、神のような姿になった主人公の背後の壁に立体的な世界地図が現れる。多くの日本人は何の疑問も持たないと思うが、外国人にとっては違和感のあるシーンである、その世界地図は日本が中心となっている。
このように「しんぼる」という映画は、日本と日本以外の世界を意識した作品である。世界に向けて表現しながら、媚びずに日本的であろうとした訳だ、しんぼるというタイトルも、英語のひらがな表記であるのはそういう理由だろう。
要約すると、松本人志による海外アートシーンを皮肉った「日本最高!」を世界に向けて表現した映画。
おそらくアートの文脈を松本人志が知っていたとは思えないので、その文脈を組み込んだのは脚本を共同作成している放送作家の高須氏によるものなんじゃないかと思われる。
憶測だが、バベルの脚本家か監督は菊地凛子演じる聾唖の女子高生のイメージを、例の毎日新聞waiwai事件の、元ネタの記事を見て得たんじゃないだろうか。元ネタ(http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/435.html) 女子高生、ノーパン、チラ見せ、男を誘惑、家で裸、という点が同じである。最もリアルに創り込むべき役なのに、日本にそんな女の子居る訳がないというような人物を設定した矛盾。海外受けするメジャーなアニメや映画でその様なイメージの女子高生キャラが居てそれの影響を受けたとは思えないんだが、しいて挙げるなら岩井俊二作品の女子高生の不安定さと元ネタの記事を合わせた感じだろうか。
四ヶ月前に失恋したわけだけど、その頃の俺の精神状態のやばさったら無かった。朝は朝でやる気が起きず、夜は夜で可愛いあの子のことを妄想して眠れない。ぶっちゃけ5kg痩せた。ガリガリです。タダでさえ痩せ型の俺は、それこそマシニストのクリスチャン・ベールくらい痩せてただろう。ひゃー薄い薄い、折れてしまいそうだ。
おい教えてくれ。
そもそも、なんで恋なんてするんだ。そんなに必要なもんなのか? 人間はどうして恋なんてするんだ。何で他人を好きになるんだよ。俺は一体、何を求めてたんだっけ。一緒にいられる時間が欲しかったのか? どっかに遊びに行って感動を共有したかったのか? たんにキスしたかったのか、身体重ねたかったのか? どーしたかったんだ本当に。だけどきっと、本当は本当に抱きしめたかっただけだった。単純に両腕で受け止めたかった。とか綺麗事が出てくるが、そんなの、きっと嘘だ。多分、前述した理由の全部が本当だったんだ。俺は気付く、彼女に対しては理屈とかじゃなくて、感覚とか理性とか抜きにして、本来的な意味で本能が貪欲に求めてた。めっちゃ彼女のことが欲しいと思ってた。俺はきっと、愚かだったんだ。
彼女はメンヘラで俺は共依存の気があって、あっちは男遊びが激しい夜の蝶だが、俺はビールが大好きなだけの梟で、どっちも夜な夜な遊び歩くタイプではあるが意味合い的には180度違う。俺はバタフライを追い掛けて捕まえられない。捕まえられそうなのに捕まえられない、自由奔放な彼女に見取れて、常夜灯に群がる虫みたいに引き寄せられていった。その瞳に吸い込まれた! とか臭いことも言っておこう。寒いぞ、夏なのに。きっと俺は彼女が羨ましかった。
それじゃ、なんで好きになったのかをちゃんと考えたいと思う。なんたって、いい機会だから。
俺のどうしても駄目ところは、コレは増田諸氏に指摘を受けたとおりだ。俺は共依存だ。間違いなく共依存体質だ。共依存テストをしたら簡単に共依存判定を受けてしまった。最初は精神疾患だと思ったけど、違って、ただの傾向に過ぎないんだけど、俺は自分で自分のことをちゃんと認識できたのは良かった。みんなにありがとうと言いたい。俺は共依存だったんだ!
俺の自尊心が低いのは、きっとまともな恋愛をしていないことに加えてまともな恋をしていないからだと思う。俺が好きになるのはいつもいつもいつもいつも不倫してる女だったり、ドメスティック・バイオレンス受けてる女だったり、セックス依存症だったり、兎にも角にもどこかに問題を抱えている奴ばっかだ。リストカット女子を好きになったこともある。だけど、人は自分の鏡で、俺が問題のある子を好きになるのは端的に俺にも問題があるからだ。なるほど、だって俺には自傷癖がある、リストカットとかじゃあないが、俺は俺を痛めつける。俺はいつだって血を流してる(比喩抜きにして)。
結局は大切なのは『問題を抱えてる』ってことなんだと、俺は不意に気が付く。彼女を救いたいとか守ってやりたいとか話を聞いてやりたいとか、いつも受け身の立場で、俺は俺の立ち位置を見定めてしまっていた。だけどそれは俺が救われたかったからだろう。救いを求めてない他人を救いたいなんて、馬鹿馬鹿しい道化に過ぎない。救われたかったのは俺だった。そんな俺がいたのは相手の手の届く安っぽい場所。枕元にある目覚まし時計くらいの距離、叩けば止まる。俺はいつだって静止してる。だけど分かって欲しかった。ちゃんと俺の好きだって真っ当な気持ちを理解して欲しかった。だから俺の胸の奥にはそんなふにゃふにゃな気持ちが今だって張り付いたまま剥がれない。
前に好きになった子が結婚したらしい。俺と同棲してた女だ。俺は付き合ってなかったけど、彼女は不倫してて妻子持ちとセックスばっかしてて、妊娠して堕胎して、世界がなんでこんなにワンダーランドなんだって俺に気が付かせてくれて、俺は離れてから別のことに気が付いた。もう恋とかしたくないって。なのに俺は学ばない。好きな子が出来る。出来てしまう。スパンは長くても、どうしても人を好きになってしまう。なんで焦げ付いた気持ちは死んでくれないんだろう。俺はどうして生きたままちゃんと恋をしてしまうんだ。
人を好きになったら、灼ける。灼熱だ。その人しか見えなくなって、その人のことしか考えられなくなって、ちょっとした会話やメールのやり取りや少なくない時間の享受ってのが俺の目を曇らせる。盲目に好きで好きで堪らなくなる。いつだって結末は後悔なのに、俺は後悔を迎えてからはじめて間違ってたって気が付く。どうしようもないのだ。でもそれがサガだ。俺のサガは変えられない。どうしたって阿呆な自分からは逃げられないんだ。俺が俺を変えられないから。
凝り固まった俺の考えが、誰かと話したときにも噴出する。俺には止められない。A(という女)の話なのだが、彼女は処女で、男性と付き合った経験もなくて、とにかく恋がしたい恋がしたいの一点張りで、しかも「したい」じゃなくて実際に『してて』、でもおかしいのは好きな男がコロコロ変わる。なんでだ? 俺が知ってるだけで、そのAは半年くらいで10人くらい目まぐるしく好きになっている。でもさ、俺はやっぱり変だと感じる。これは俺の考えだけど、好きな相手ってそんなにどんどん見付かるか? 恋愛対象一週間に一回も変わるか? なんだよそれ、それは恋じゃなくて「ちょっといいな」って思ってるだけなんじゃないか? でもさ、もしかしたら俺は勘違いしてるだけで、恋なんて崇高なものなんじゃなくて、本当は安っぽくて、ただその「ちょっといいな」ってのが上手いこと結実して付き合ったりしちゃったりして、それから世間一般でいわれる恋が始まるってのが本当は正しいのだろうか……。俺みたいに数年に一回しか恋しないで、それが実を結ぶのを待ってるなんてことが滑稽なことなのだろうか。
前々から思ってたが、どうしても恋愛話を弄ぶと妙だと感じることがひとつあるんだけど。どうして恋愛をする時ってこんなに世界が狭いんだろう。小さなコミュニティで普段接する人にしか恋が出来ないんだ。たとえば中学生の頃なんか、俺の周りなんてみんな同じクラスの女子に恋をしてたよ。でもそれは魅力があるとか、会話が合うとか可愛いとか美人とか気高いとかそういう副次的要素を抜きにして考えてもやっぱり世界が狭すぎる気がするんだ。小コミュニティで恋愛が罷り通るのが、俺は気持ち悪くて仕方がなかったのに、なのに俺はやっぱりそっから抜け出せない。俺も小コミュニティで恋しちゃってる。だが、そんな風に分かってたって無理なんだ。感覚とか思考回路は簡単につなぎ替えることは出来ない。俺は結局、俺を俺自身の手ですくい上げてやらなくちゃいけないんだ。同時に、俺は振られたってことを自分自身で納得して、こっからちゃんと自分の足場を固めて、目覚まし時計みたいなもんじゃなくて、もっと本当に必要だと他人に思わせるような人間に成長しなくてはいけないんだ。俺の世界が狭い、だからもっと世界を広げようと思って最近はなるべく外に出てる。クラブイベントで踊ったり、俺はラッパーだからUMBに出たり、海に行ったり山に行ったり、オフ会に行ったりしてもいい。とにかく沢山の人と出会って沢山の経験をして沢山の思い出を作らなくちゃいけない。方向性だとか、心が打ち震えるような感慨なんていらない。重ねるべくは経験なのだと思う。だから失恋だって沢山したらしただけ成長出来るし、そこで立ち止まってうだうだしてちゃ意味が無い。何も始まらない。ならジョギングとかして少し身体鍛えよう。俺はまだまだ頑張れるはずだ。
今日で25歳になる。もう周りを見渡しても俺は若くない。でもいいから、それでもいいから、もうちょっと人生楽しんでみようと思う。恋なんて人生の一要素だって思えるようになりたいもんだ。
おれの眼はフシ穴だったようだ…
どれくらいフシ穴だったかというと、ヤツらにとっておれは本当に友人なのか…?と疑問に感じるレベル。
以下ほとんど編集も編纂も推敲もせず、書きなぐるだけ書きなぐったクソ長い文章です。
楽しいところなんかどこにもないので、余程の物好き以外はここで帰った方が身のためです。
話は昨年4月に遡る。
高校卒業以来、ほとんど会う機会の無かった友人(以下女1)から突然「じーだぶりゅーに集まろう!」的なメールが届いたのが全ての始まり。
なんで?しかも急に?10年ぶりくらい?と思うも、懐かしいなぁとか思って何も疑問に思うことなく参加することに。
メンツは高校時代のクラスメイト。男7人、女5人の合計12人。ほとんどが高校卒業以来の再会だった。
(ちなみに男友達のうちの2人(以下男1、男2)は卒業後もたまに飲みに行ったりしていた)
この時点では、普通に集まって普通に遊んで普通にメシを食ってオシマイだったわけだが、今にして思えば、これが「序章」だったようだ。
時は流れて7月後半。
ゴールデンウィークで久しぶりに再会して、それでオシマイで当分会うことはないだろうと思っていたのだが、またもや女1から突如メールが。
「前回のごーるでんうぃーくのメンツ中心に、8月の夏休みに泊まりがけで遊びに行こう!」みたいなメールが届く。
お泊り…?とか、前回からやけにスパンが短いなー、とか思いながらも、二つ返事で参加することに。
メンツは男7人、女3人の10人編成。前回と一緒じゃないのか?とは思ったが、都合がつかないだけかと思いスルー。
まあいろいろあって(遅刻して樹海をさ迷うハメになるなどエライ目に遭ったりしてw)、なんやかんやでこの回も楽しむことは楽しんだ。
誰も寝ずにほぼ徹夜状態でトランプとかUNOしてるとか、なんちゅーか高校生の合宿みたいだった。
で、もう終わりも近づいたあたりで、気の早いことにみんなで次のプランを立てるのであった。
そして解散となったわけだが、みんなと別れてから、いや、別れる前からおれの中ではとある疑念が湧いていたのであった。
そう…泊まりがけで男女が出かけたというのに、特殊な関係になったりとか、有り体に言えばカップリングの気配が全くしてこなかった。
それどころか、「そういう類」の、いわゆるコイバナらしきモノすら無かった。男と女の集団が、泊まりがけで、出かけたというのに。
後日、この集団とは別枠のくされ縁の友人(以下ダチ)に土産話として聞かせたところ、
「何も無かったとかどう考えてもありえんやろ」「この歳(20代後半。いわゆるアラサー)になって男女が宿泊旅行を企画するのは、『ソレ』が目的に決まってるやろ」「オーラとか、にじみ出るモノとか感じひんかったん?ガッツキとか。」「おまえら男も女も草食系か。肉食獣はおらんのかい」などとさんざん言われてしまった。
つーか、おれもゴールデンウィークの時からそれは感じてた。むしろゴールデンウィークに集まろうという話が出た時点で、
「なにかドッキリでも仕掛けられているのか…?」とすら思ったほど。
思えばこの時、既に私の眼はボンクラだったようである。
さらに時は移り11月。
8月の合宿?の終了間際に立てたプラン発動。またしても泊まりがけで旅をすることに。
メンツは8月と同じ…予定が、新型インフルなどにより2名倒れてしまい、男が5名、女が3名の編成に。
おれは「だんだん数が減っていくなぁ…」と思ったとか思わなかったとか。まさか…
この回はごく普通に観光地を巡るプランだったのだが、旅費節約のためどう考えても無茶苦茶な行程を経ることに。行程自体は省略。
このときおれは「旅に出たときにカネをケチったら相当しんどくなるのでは…?」と進言したが、聞き入れられず。別にいいけど。
まあこれは今回の話とは関係ないので割愛。
そして例によってこの回も「何も無かった」。
前回と同じく、ピロートーク系のキャッキャウフフな話など誰の口からも発せられることは無かった。
ダチに話すと、ついに「おまえら、ヘンな集団やな…」という感想になってしまった。
後にして思えば、おれの眼はやはりフシ穴もフシ穴、ヘッポコもいいところだったようである。
そして年を越して、3月の頭。
3月末にまた遠出をしようとのことで、おれに連絡が届いた。今度は男1から。
この時はさすがにフシ穴なおれの眼、おれの耳でも、すごい違和感を感じ取れた。いつものパターンと違うってだけではない、あからさまな違和感が。
男1からの電話は、「遊びにいく日」と「女2と女3(ずっと参加してた3人の内の2人)が来る」という内容だった。展開された情報はそれだけ。どこに行くとか何をするとか、メイン情報は一切おれには伝えられなかった。後述するが当日も、結局最後まで伝えてはくれなかった。
いくら眼と耳がフシ穴でも思い至るわ。「何故女1の名前が一切出てこないのか」と。
いつも3人組で行動してるような中から、「2人しか」名前を出さなかったのは、後から考えれば当然のことだよな。
「もう1人」たる女1の名前を一切出さなかった、本当に「一切」名前が出ることがなかったのは、防衛機制ということだろう。
逆に、物凄く違和感あるっちゅーねん。
前回と同じメンツなのかと思いきや、男2人の女3人、合計5人のメンツに。ついに男女比逆転。
傍目には、やっぱり何も変わらない。至って普段どおり。パッと見では絶対にわからない。
しかし言い知れぬ違和感を感じていたおれは、男1と女1の行動、仕草、言動をロックオンしていた。人間観察が趣味なんです。
…ところが、ロックオンしててもごく僅かしか「それっぽいところ」は出ていなかった。おそらくそうじゃないかと思っても、確信には至れず。
そしてとあるタイミングで、ほんの一瞬だが別行動に。この時すかさず残された2人(女2と女3)に向かって、おれは「…いつから?」とだけ発言した。
そしたらさすがに女性同士での横のつながりは強固なのか、充分すぎるほどウラが取れた、ということ。
そして、知らなかった、いや、「知らされていなかった」のは結局おれだけだったことも判明。なんだそりゃ…
ちなみに、「始まり」は、どうやら8月の合宿(?)にて解散した直後だったらしい。
そりゃあそうやわな…何も無い方がおかしい。
しかしヤツらのポーカーフェイス、ミスリーディングは実に見事だった。
特に女1の方は、毎回仲よさげにトークしていた相手が異なっていた。
8月の時は男3と夜空を見上げながら小一時間もの間1on1トークを繰り広げていてちょっかいを出せる雰囲気じゃなかったし、
11月の時は男2とほぼ四六時中いっしょに行動していた。連絡取るときも男2のケータイに速攻でかけていた。
今年の3月は、当然おれ。なんというスケープゴートっぷり。おれら3人ともいい道化。
で、男1の方はというと、おれと月に1度ペースで連絡取ってて、ダチが言ってたような内容(何も無いとかおかしくないか?とか)を言ってたんだが、後から考えるとよく言うわ、よく言ってたなって感想しか無いなまったく。
後でウラを取ったときに聞いたが、8月はもとより、11月の時点でも誰ひとりとして気づいてたやつはいなかったらしい。
おれの眼がフシ穴とかいうレベルではなく、全員をケムにまいていた。凄まじい演技力。
ちなみに何故判明したのかと言うと、女1が女2と女3に自分から言ったらしい。それが今年の1月。当然それまで誰も思い至ることはなく。
ここから、おれがヤツらに対して、無性に気にくわなかったことを語る。
くっついていたことを隠していたこと。これはおれにとってはそんなに気にくわないことではない。
半年以上も黙りっぱなし(結局本人たちのクチからはいまだに聞いてないしな)なところは、友人としてどうなんだと思わんでもないが、まあ言いたくないこと、イジられたくないことってのは人間誰しも持っているもんだし、それについては置いておける。
最も気にくわないのは、3月の集まりの時のヤツらの態度。特に男1の方は度を越していた。
3月の集まりにおれを誘ったのは男1で、当日に至るまでに数度電話をもらったのだが、その内容がひどすぎる。
カラクリを知ったあとで反芻すると、あまりにもゲスい事しか言ってない。
先程も言ったが、集まりに関して伝えてくれた情報は、「日にち」と「女2と女3が参加する」の2つのみ。
どこに、何をしに、誰とどれだけの人数で、どうやって…これら普通の基本的な情報を一切言わなかった。
そして、電話の内容は終始「おれに残りの2人、すなわち女2と女3を『あてがおう』」としていた。そのトークばっか。
1ヶ月前くらいに日にちだけおさえられた後は、「女2と女3とキャッキャウフフしたってやー」とかそんな話ばかり。ばかりというか、それのみ。
おれが何を言っても、何を尋ねても、「そんなことはいいから女2と女3と遊んだってや」みたいな返答しか無かった。
悪巫山戯にも程がある。しつこすぎて「もうええわ…」ってなったし。
他に言うことがあるだろうと。伝えることがあるだろうと。最低でもどこに行くかくらい、聞かれたら答えろと。
一言で済むことをなぜはぐらかす。それをはぐらかして何の意味があるのかと。
当日になっても、何故「ガソリンスタンドに行く」だけのことを答えない必要がある。
おれの質問に、いや、他愛も無いコトに対する応対がそれか。ずっとそれか。ずっっっとそればっかか。
そもそもの話、いったい何のために、何故おれを誘った。何がしたかった。
おれがいる意味があったか?本当に「おれと女2もしくは女3と『くっつけ』ようと」したのか?
そんな鬱陶しいことをされて本当に「くっつく」とでも思ったか?逆にめんどくさくなるっちゅーねん。
正直に思うに、「言いたくないこと」っていうのは、ある。
おれにだってトップシークレットはある。サイトやってることとか(ショボイなw)。
それをほじくられて、うっとうしい、言いたくないっていうのはわかるし、言わんでも良いと思う。
そもそもの話、言ってしまえば「何も無い」コトの方がおかしかった中でのヒメゴトなのだから、ある意味当然の流れ、当然の結果、なるべくしてなったコトである。だからそこに関しては何も問題はないのである。
要は、当時のおれ(たち)の眼がフシ穴、ボンクラ、ヘッポコだった、それだけの話。
そこに関してはどちらかと言うと賞賛に価する。「友人」としてはどうかと思うけど。
まあ、それについては別にいい。どこで何をしようが、普通の意味でもゲスい意味でも何をやってようが一向に構わん。
それこそ好きにしたらいい。それに別段興味も無い。
何が腹の虫が収まらんって、そこじゃないんだ。
最低限の連絡も無く、最低限の情報すら伝えずに、最低限の尋ねにも答えず、ただただ振り回すのみ。
そんな風にスッとぼけられて、そんな風にはぐらかされて、しかもそれが終始となると、友人以前に人間の対応としてどうなんだ。
秘密主義もここまで来ると呆れを通り越す。
アンタらの脳内ではプランはカンペキに出来上がっているんだろうが、それに振り回されるこちらの身にもなってくれ。
そんな態度を取られて、相手はどう感じるとかってところに思考は回らんのか。回す必要も無くなったか。
そして、そもそも最後の3月のやつ、何故おれを誘ったのかがいまだにわからん。「半年もの間何も伝えられていなかった」おれを。「その時まで本当のことを何も知らなかった」おれを!
おれを含む、「残された3人」の三角関係でも見たかったか。そのためにおれに「2人」をあてがおうとしたのか!?
スケープゴートにせよ緩衝材にせよ、何にせよおれが道化であることに、おれが道化になることに変わりはない。
邪推しようと思えばいくらでもできてしまうんだぞ。
10年来つるんできて、「関係」を言わないのはまだいい。そっちはさっきも言ったがどうでも良いし、なるようになれば良い。
そんなことよりも、3月の集まりでヒトとしてどうかと思うような態度を終始取りやがったのが本当に気にくわない。
高校を卒業した直後に「前科」があったことを思い出してしまったじゃないか。
あの時も、おれとダチの2人に対して意味不明な態度を取ったものだが、今ならあの時ダチがブチギレて半分絶縁状態なってしまった理由と感覚がわかってしまう。そりゃあ間違っても気分の良いものではないわな。
こんなところでひとりで吐き出しまくっているおれの方が、本当の意味で下種いことはわかっている。
しかし、本気でおれもアイツらに対して取る態度を考えないといけないのかもしれない…と感じてしまったのである。
まあ、今でもアイツらのことを友人だとおれは思っているから(向こうがどう思っているかは若干不安になってきたが)、
良くないところはたしなめるべきなんだが、この内容をそのまま伝えてしまうと本当に交友が壊れかねない。変に邪推が入っている可能性もあるし。
それに、こんなくだらんことで壊れるのはさすがに悲しい。それはイヤだ。
だからこそ、一度吐き出し尽くして、臓物に漂うドス黒い、暗い、闇の拘泥を薄めたかった。
ここに、マスダイアリーにこんなことを書いた最終的な目的は、それだけだった。
こんなクソ長い、クソみたいな、クソ同然の文章を、世に出してしまって本当に申し訳ありませんでした。
4月1日。完。
逃げまくってたところを、無理矢理入らされた団体を離れることにした。
いまだに、名簿は握ってはなさんぞという勢いで、名前はのったまんまかもしれない。
どうしようもない。
紙切れそんなに大事か。「大事じゃ」。よかったね。ばーか。
ところで、堪忍袋が最終的に切れたのは、以下のメールによる。
独立開業に関して、祝い金orカンパとして、100円でも1000円でもいただけまいかというお願いにたいする、地区委員会からの返信。
それでカンパの件やけど、はっきりいうとかないといけないと思って連絡するけど、
私は個人的に応援するつもりをしている。仲間として夢の実現を喜んでる。
だけど、党や他団体に要請するのはやめてください。筋が違う。
困っている人などに支援をすることはあるけど、会社を起こしたからと個人的なことで、カンパに来られても困る。それをするとみんなにカンパしないといけなくなりキリがないし、党は慈善団体ではないからね。
だから、カンパ要請で事務所のファックスも使っていたけど、私的なことには本来使わないので、今後の私的な使用はやめてほしい。
きつい言い方で申し訳ないが、はっきりさせるとこは、はっきりしている方がいいので、連絡しときます。
竹田○○
弔い問答 その2
ttp://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2010/03/post_82b7.html
南 もっと問題なのは、おそらく『クレヨンしんちゃん』以降には家族マンガはでませんよ。だってここから先、一人しかいないもの。あれは大変な問題なんです。
家族マンガというのは、およそ三十年間近く『サザエさん』が独壇場だったんですよ。ところがその後、一九九〇年代に『ちびまる子ちゃん』が出たんですよ。この二つの決定的な違いは、じいさんの存在感なんです。波平さんと舟さんは家長としての存在感を持っていますが、『ちびまる子ちゃん』のじいさんは、からかわれる道化みたいな役になっています。でもまだ一応三世代なんです。事実上、核家族ですが。
ところが次の『クレヨンしんちゃん』が団地住まいの三十歳前後の夫婦に、五歳の手に負えない息子がいるという完全な核家族。ここから先に家族はいないですよ。
『サザエさん』には構造的に非常に優れたところがあって、あのマンガは、日本人が必ずどこかに自分を位置づけることが出来る。そのポイントは、マスオさんです。マスオさんは婿ではない、フグ田なんだから。だけど、あたかも婿であるかのように振舞っている。ということは、婿入りした男は全部そこに引っかかっている。『サザエさん』には、じいさん、ばあさん、親子関係、兄弟関係もあるが、実は叔父や姪と甥の関係もある。タラちゃんは弟じゃない。すると日本の家族構造として必要な要素が、全部そこで見えるようになっているんです。これはもうないんですよ。そして『クレヨンしんちゃん』の先はない。
『サザエさん』に対応していたのが、日本仏教の伝統的な教団で、おそらく事実上の核家族である『ちびまる子ちゃん』と『クレヨンしんちゃん』の世代に対応したのが、たぶん創価学会や立正佼成会などの新宗教ですよ。
その後、家族がなくなったところ、つまり単身者みたいなところに、もろにコミットしてきたのがオウム以降です。オウムの特徴的なのは「出家」と言うでしょう。鎌倉時代以来初めて、日本の宗教者が出家ということを真っ向から言った特異な例なんです。
私はオウム問題を、未だに完全に処理出来ていないんです。とても重要な問題で、日本の仏教は逃げまくっていると思いますからね。「オウムは仏教じゃない」と言っただけではダメなんです。「仏教じゃない」とは言いがたい側面があるから、ちゃんと処理しないといけない。
しかも特徴的なのは、「出家」を言った指導者が、出家者じゃないというのが日本的なんです。麻原は在家修行者です。人を出家させても、彼は結婚して、子供をつくっている。非常に日本的なんです。一方、同時に出た「幸福の科学」というのは、全国統一神理学試験というのを教師の選抜にやっていたんです。あれは共通一次テストがモデルです。学生みたいな人間を信者に想定している。つまり学生とは何か。家族を持たない世帯者ですよ。
素晴らしい。
あなたは、私がインターネットの世界に触れるようになり、数多の人と触れ合った中で、久しぶりに頭が良いと感じた人です。
こう言うと、「頭が良い私が、あなたも頭が良いと認めてあげている」といったように受け取られるかも知れませんが、そういう意図ではないので、誤解しないでください。
別に私の頭が良いか悪いかといった話は、私が元エントリからこのエントリまで含めて、言いたいこととは全く関係がないですから。
元エントリで書いた私の考えは、釣りやネタではなく、本気で思っていることに変わりはありません。
そして同時にまさにあなたの言う「反論ヒエラルキー」のパッチテストような効果も、期待していました。
そこを見事に看破された以上、この効果は期待出来ませんね。
そして、トラックバックをくれた皆さん。
元エントリが煽るような文章ですから、イラっとして脊髄反射的に書いてしまった方もいると思いますが、「相手の発言・論法を理解せずに発言してしまっている」という点で、あなたたちは私の考える「馬鹿」です(もちろん全てのトラックバックがそうだというわけではありませんが)。
私が、常日頃から「抹殺されれば世界が良くなるのになぁ」と思っている対象です。
ですが、少なくとも今の日本では、それは許されていません。私は馬鹿は抹殺された方が良くなると思っていますが、そう思わない人の方が、数の上でも権力としても強いのでしょう。
ですから、私は「馬鹿」であるところのあなた方に対し、何も出来ません。
私に出来ることといえば、こんなエントリを書いて「馬鹿」であるところのあなた方に、せめて「馬鹿」であることを自覚して貰うくらいしかないのです。
そうして「馬鹿」であるところのあなたたちの機嫌を損ねないよう、最後にはこうして道化になるしかないのです。
私は「馬鹿」である所のあなたたちがいなくなれば、とこれからも思い続けます。どうぞあなたたちも大いに私を馬鹿にしてください。
http://blog.livedoor.jp/roadtoreality/archives/51459042.html
↑読んだけど、この>>1はスルー力が足りない。スルー力って、懐かしい言葉だけれど、俺なら上のような状況では料理も家事も自分のことは自分でする。と思った。離婚前提の結婚なら寧ろそれが望ましいし、相手の幸せを望むならそれがいいんじゃないだろうか。
といったことを以前の自分と照らし合わせて思ったりした。
かれこれ自分のことを思い出しても、俺は非モテで、給料も悪いし、身分も安定しない状況である女性と付き合いかけたけれど、結局相手のことを考えれば自分と一緒になるべきではないので、仕事を変えて遠くへ逃げた。連絡はしなかった。知人を通じて情報が相手に渡って問い合わせが来たけれど、スルーした。
自分みたいなのと付き合ったり、よしんば将来的に結婚することになったとしても俺の稼ぎや仕事では彼女を幸せに出来ないのは分かり切ったことだったので、その選択はそれなりに妥当だったと思うし、行く先々のことを考えれば俺の取れる最善の選択だったと思ってる。
結局の所、随分前に彼女は別の相手と結婚したことを聞いて、妙に安心した。どういう相手かは詳しくは知らないけれど、自分よりは遥かにいい相手だと思う。
でも先頃、彼女と俺の共通の友達で酒を飲まないかという話があったけれど、俺としては普段通りに道化を通せる自信があったけど、直前になってどうにも目から汗が流れてきて結局いかなかった。そういうことだったんだなあって思った。
これまでの所の俺のミスは俺が彼女を好きになってしまったことと、彼女と迂闊にも仲良くなってしまったこと。怪しいと思ったタイミングはあった筈で、気がついたときに何か手を打てばもっと良い結果になったと思うのだけど、結局俺もこの>>1と同じでスルー力が足りなかった。
違いはというと、>>1は嫁が好きで>>1は嫁が好きだってことと、俺が彼女を好きだけど、彼女が俺を好きかは分からないということと、>>1と嫁は結婚生活を継続して、俺は逃げたこと。どちらが相手にとって良かったかは分からないが、俺は自分なりに頑張った。金もないから>>1のように経済的なサポートはできなかったけど。だから>>1は偉いよな。
そういうことで、こういう話って案外世間では多いのではないかと思う。結局どっちがいいのかは俺は本人ではないから分からないし、男だから女性がどう思いがちかということは益々推測しづらい。ただ本人にとっては自分を中心に世界は回っているってこと。自分が相手のためと思った所で、自分は相手ではないからどうするのがいいのか、どうすれば良かったのかなんてバッドエンドじゃ分からない。ただ俺が彼女に対していうことがあるとしたら、好きになってごめんなさいということ、女性としての大事な時間を無駄に使わせてしまって心から申し訳ないと思っていることと、今のお相手と末永く幸せにということ。まあ>>1はせいぜいお幸せに。俺はこれからも1人で生きていきます。そして彼女とのことで女性に近寄らない方がいいと学習したのでその辺に気をつけつつ。
Twitterで女子高生であることをアピールし、ネットアイドルを自称している奴がいる。Twitterというサーカスで、裸で逆立ちしているのだ。それに群がるキモオタ共が観客だ。虫唾が走る。反吐が出る。
女子高生である事以外に何も価値を持たず(それすら価値と呼べるのか不明であるが、一部の人達にとってはそのようだ)、何も生み出していない人間がどうしてこのネットと言う空間で皆に存在を認められ、受け入れられるんだ。俺なんかどこにも居場所が無いのに。
彼女は現実で居場所を持たない。だから、仮想現実で道化ることで必死に居場所を確保しているのだ。哀れですらある。
だがしかし君、分かっているのか?自分が何をしているのか。売春より酷い。
そうだ。君の事だよ。君はおそらくここを見てはいないだろうが、一つだけ忠告しておこう。
一度失ったらもう取り返せないものなのだよ、ココロというのは。それだけは覚えておきたまえ。
議論の前提(自明とされる秩序)の意義にクエスチョンを投げかけるのが本来の道化の役割。本来の道化は、求められる役割を担うからこそ、今でもイメージを保ちながら存続している。持続可能性なんて簡単だ。必要があればいい。
立ち位置が見えないと思ったら、立ってさえいなかったんだな。ゲームで言えば自分の当たり判定消して無敵チートで一方的に攻撃してる状態
という表現が似合うニセ道化ばかり。もちろん本物の道化と違って、役割を果さないでただパフォーマンスのみに走る道化は次第に飽きられる。無敵ではあるが実態がないから忘れ去られたら消滅してしまう。生存するためには飽きられない必要があるのだが、中身がないからそれでも相手にしてもらうためには罵倒芸など過激な方向に走らざるを得ない。ただし、常に成長を要求されるモデルは本人に負担を強いる。どこかで限界が来て破綻する。と同時に今度は癒し系とか出てくる。
たぶんtumblr大嫌いな人がたくさんいる.twitterのRT大嫌いな人がたくさんいる.彼らは思うのだろう:「じぶんの言葉を持たないのか?自ら"コンテンツ"を作れないのか?」.
そんな発言がdsbdに流れるとrebloggerは,reblogしまくるだろう,無言で,ときには「だれもおれをとめることはできない」と放言して.彼らは,ぼくは言葉を持たない,コンテンツを作れない.そして,みずからコンテンツになることもできない.言葉を持ち,"コンテンツ"を作れ,あるいは自らコンテンツになれる人は,純粋な嫌悪感を感じるかもしれない.
これだけは言っておこう.*ぼくは嫉妬している*,言葉を持つ人に,こころゆさぶるなにかを作れる人に,積極的に消費される道化に.そんな才能もなく勇気もないぼくが,満足感に浸れるのが,コレクションであり,reblogなのだ.あるいはそんなぼくの下卑た卑屈な思いが,あなたを不快にするのかもしれない.知ってましたか?世界は気持ち悪いものなんですよ