はてなキーワード: 聖徳太子とは
#吉田寅次郎の思想#
・「ことは長州藩内の問題ではない。寅次郎個人の問題でもない。一藩の軍学師範が約束を違えることは、長州が満天下に恥をさらすことです。最大の不忠なのです!私人としての寅次郎がどうなろうとも、私は公人として立派な行動を取らねばなりませぬ」
・「僕は気が狂っているかもしれません。しかし狂うぐらいに行動して初めて道は開けるのです。家族にも私の突き進む道を見ていただきたい。きっと褒めていただけるはずだ」
・愚かな人間とは自分の信念を曲げてしまう男のことです 自分で一旦決めたことなら生涯をかけて貫かねばなりません
・金子くん、使命を見失ってはいけません 私達が守ろうとしているのはあの人々の平和な笑顔です
私も一瞬君と同じ気持ちになりました 我々が命がけで苦労をしているのに、と
のうのうと遊ぶあの庶民に怒りが込み上げそうになりました。
しかしだからといって、彼らも苦しまねばならんと思うのはトンデモない誤りです 驕りです!
私達が守るべき庶民が愉しむ姿に怒りを覚えるのは本末転倒であります
何のために戦うのか それを忘れてはなりません それが武士なのです
自らの意思で死地に飛び込むのが武士なのです 我々は決して「戦ってやるのだ」などと思い上がりをいだいてはなりません
逆に、どれほど苦しかろうと事情があろうと、戦うべき時に戦わずのうのうとしている武士を許してはいけません
・我米国に渡らんと欲す!我米国に渡らんと欲す!我米国に渡らんと欲す!(投夷書)
・密航計画が幕府に知れるのは時間の問題。ならばその前に自ら名乗り出よう。
「逃げ隠れしたと思われては僕達の誠実さが伝わらない」死刑を覚悟で密航を企てたとわかってもらわねば役人の心を動かすことはできない。
私から何かを説くわけではない。私の姿を見せるだけでいい。
命をかけてこの国の前途を憂えている人間がいると知れば、その人がまた真剣にこの国を考えるようになる
そんな人を増やすのが、これからの私の使命だ、喜ばしいことではないか
私は無理だったが、その人達が私の夢を継いでくれる 絶望などないさ
僕は誓って悪いことはしておりません 命を捨てて貴国の船を訪ねたことはいまでも英雄的な行為であったとおもっております
まさかさらし者になるとは思わなかった
この状態では悲しい顔を見せればそれが他の理由でも人々は僕をダラしない、情けない罪人だと思うでしょう
といって怖い顔をしてもニコニコ笑ってもトンデモなくふてぶてしい悪漢だと思われてしまします
だから僕はどんな表情もできない… まだ英雄であることに慣れていないのであります・・・
「我が国の祖法」とおっしゃるが、
我が国の歴史を見るに、学問文字仏教儒学すべて海外より伝来したもの
そもそも聖徳太子はるばる波濤を越えて隋に試写を使わされ それが遣唐使となりて交流が栄えたところから始まっております
これは三代将軍の御代 寛永年間に起こった島原の乱に原因を持つ非常時の措置にほかなりません
二百余年を過ぎてなおこれに執着するのは弊害のみが多く国家発展の妨げとなり
神奈川条約が結ばれた今、鎖国は事実上死文となっているのではありませんか?
徳川幕府そのものがすでに町民中浜万次郎くんを直参に登用し重用されているのですよ
本年よりは急ぎ多くの優秀な若者を外国に送り、異国事情を学ばねばならぬ時ではありませぬか?
→幕府側の対応「自首してこなければこんな問題起きなかったのに」w
「以蔵、怒る!詳しく怒れ!何に、どういう訳で怒るのかをよくかんがえて怒らんか!」
「以蔵、お前の言うとおりだ、わけのわからん上の勝手なカラクリでわしらはすきにされてるんだ。お前のおかげで分かったぞ!」
「エライ人も偉くない人も同じだということを教えてくれる人が偉い人なんじゃ」
「以蔵、もうすぐ世の中は変わる。お前も何でもやれる時が来る。だから短気を起こすな」
→刀振りかぶってる相手に両手広げて真正面から抱きついてくる人間は斬れない。お前には負けた
#日本が勝てない理由#
それぞれの藩が自分の持ち場だけで戦う よそが買っても負けても知らぬ存ぜず それで勝てるわけ無いだろう!
藩が互いに連携を取らなければ作戦すらタテられないというのに 各藩が共同戦線を組むのは幕府が禁じている
各藩が仲良くなったら将軍家より強くなることを恐れている 幕府は馬鹿か!
目の前に巨大な敵が出現しても各藩は互いの顔色を伺い前の敵より後ろの将軍家に睨まれるのを恐れている
結局江戸湾防備にしても 形だけのことしかしない 幕府も各藩も、国が消えれば全部なくなってしまうのに自分のことしか考えられない
こんなことではこの国は他の国と戦争なんかできない この国を変えなきゃどこにも勝てない!
この国を何とか一つにまとめなければすべてが滅びる
#日の丸の旗の話#
海軍の創設に際して、薩摩が強く主張し、幕府が反対した日章旗であるが、
幕府が日の丸を掲げ、錦旗を掲げた薩摩は日の丸を賊軍として攻撃目標にした。
以来戊辰戦争のあいだじゅうは日の丸は皇室に背く悪の象徴として、官軍の手によって踏みにじられ引き裂かれ焼き捨てられたのであった
#大災害が起きても、大飢饉が起きても、幕府が地方を支援することはない#
安政東海地震 M8.4 五ヶ月前に安政伊賀地震、翌日に安政南海地震、一年後は江戸直下型地震
しかし幕府には蓄えがないし、そもそも幕府は他の班を助けるという発想自体を持たない。
たとえば天明の大飢饉の際には、白河藩は餓死者ゼロであるのにたいし、付近の岩手藩は最も餓死者が多い結果になった。
これをみても、徳川が日本代表や支配者などではなく、ただの一番強い藩でしかしかなかったことがわかる。
この不安定さのせいで、思想の取締や、政道への口出し禁止、参勤交代で外様藩の力を弱めるなどの措置が取られたわけで
どうせなら、徳川家が名実ともにもっと強大な支配者として君臨していれば、話は変わったかもなー。
#開明の志を持っている藩は多いが・・・#
薩摩藩を筆頭に
越前福井の松平春嶽、下総佐倉の堀田正睦、水戸の徳川斉昭など。
お互いに競争をするのはいいが、みんな自分の班のことしか考えていない。
私は攪拌の江戸湾警備をこの目で観てつくづく情けなくなった。
三百も藩があって、それが互いの垣根を取っ払って力を合わせ、西洋列強に立ち向かう方法はないのか?
→薩摩の西洋化にした所で所詮一昔前を追いかけているに過ぎない。
イギリスやアメリカの最新兵器に比べればおもちゃのようなものよ。
攘夷も開国も、どちらも無理なんだ。このままじゃどっちにしろしてやられる。
しかし、やつらは数百年ずっと相互貿易で文明を発展させ富を蓄え、その力で東洋へ次々と乗り出していった
そんな連中を相手に 訳もわからず国を開いて交易を開始してもいいように食い物にされる。
だからまず船だ! 一隻でもいいから最新鋭の蒸気船を購入するんだ。
馬鹿のズラズラ文は読んでられないので
聖徳太子のとこ以外流し読みしたが、
あれは田原も本当に失礼じゃん。
「聖徳太子の話をしますよ」って意味で「聖徳太子を知ってますか」はおかしいだろう。
しかも実際の田原の言い方は「聖徳太子って知ってるか!」だったよ。
頭の回転が鈍くてすぐ話が食い違って恫喝的な態度を取る。
昔どんな人だったかは知らないがもう耄碌してるだろうあれ。
バカにされたと怒っている人がいた。
自分は「バカにされた」という気持ちがよく解らないので考えてみた。
逆襲のシャアで、「情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか?」と、
サイコフレームの提供元がシャアだったことを知り、アムロは「バカにして!」と憤る。
これはサイコフレーム無しでもシャアと対等に戦えるというアムロの自尊心が言わせているのだろう。
であるならば実際の優劣は関係なく、受け取る側の気持ちの問題ということだ。
もしかしたら「僕はシャアより強い」というアムロの思い上がりかもしれないが、同じことだ。
とここまで考えて、「バカにするな」とか「お前のそういった態度が人をバカにしてる」という会話の戸惑う理由がわかった。
これは飽くまで受け手側の都合であり、そういうつもりがない話し手には唐突な話題転換なのだ。
バカにするなで思い出すのは、やはり朝生の田原総一郎x四宮正貴であるが、
田原は「これから聖徳太子の話をしますよ」と話題転換の意味で「聖徳太子を知っていますか?」と発言したのだろうが、
四宮にしたら、いい大人が知らぬわけなかろう!とバカにされたと受け取ったのだろう。
田原にしてみれば、それこそいい大人がといい迷惑である。文脈で分かれよ。
となったので、これから「バカにするな!」と言われたら(あーバカなんだ)と思うようになると思う。
もう嫌だ。
何考えてんのかさっぱり分からん。
これをどう対処するかが「大人」かどうかなんだろうけど、
ごめんなさい。
最悪だねまったく。
上手く行かないよ。
どうしたもんかね、まったく。
仕事向いていないってことなのかもね。かもではなく、そうなのだろうね。
まったく。
嫌になっちゃうね。
こうも周りの状況に左右されていては、ぐだぐだにな人生になってしまうね。
もうなってるか。
guhe・・・・・。
帰りたいけど帰れない〜♪
あれを見ていた時はこんなふうになってるなんて思いもしなかったね。まったく。
なんか上手くいかないなぁ。
一生こんな感じで上手くいかないのかなぁ。
人生ってなんだろう。
どうせ死ぬよね、最期には。
それなら頑張るのに。
けどきっと天国にはそれを知らなくても、頑張った人がいくんだろうね。
困った。
分け分からなくなって来た。
ぼーーーーん。
なんだか、やたら手に汗をかく。
不思議。
生きるって不思議。
聖徳太子もヒットラーもチェも坂本龍馬も曹操もガンジーもケネディーもガガーリンもアインシュタインも犬もじいちゃんもばあちゃんもみんな生まれて死んだ。
シャボン玉もストローから押し出されて、屋根にあたって割れた。
どんどん生まれて。どんどん死ぬ。
50年くらい早く死んでも誰も困らない。と思う。
誰かが悲しむかもしれない。けど困らない。
その人が有用でなかればないほど困らない。
ストローから出てすぐに割れたシャボン玉は存在すら気が付かない。
そっと。自分でも気が付かないくらいにそっと割れてしまいたい。
それって
我が儘ですか。
情けないですか。
恥ですか。
はぁ・・・・。
シャボン玉って割れる時
「ぱっ」
って音がする。
聞いた事ある?
その音が聞けると、長く飛んだシャボン玉でも悲しくなかった気がする。
不思議だね。
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
ttp://nihon9999.blog77.fc2.com/blog-entry-4398.html
「時代と逆行するような選択をされるのなら、 民主党政権は長崎に対してそれなりの姿勢を示すべき」、
「1票くらい、聖徳太子1枚くらい出せば十分取れる」、
年金未納、
金正日が北朝鮮の国防委員会委員長に推戴されたことを記念する祝賀宴に参加、
北朝鮮との対話友好を目指す議員連盟「朝鮮半島問題研究会」顧問、
ネットワークビジネス(マルチ商法)推進連盟名誉会長、
マルチからの資金提供問題、
パチンコ換金合法化推進「民主党娯楽産業健全育成研究会」初代会長・現名誉顧問、
副議長ポスト争いに敗れ「お前たちの情報収集と根回しが悪いからだ」と秘書全員を解雇した、
他になんかある?
【政治】 「長崎県民が知事選でそういう選択するなら…民主党政権は長崎にそれなりの姿勢取る」の民主・石井氏、「結果を糧に」談話★3
ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1266807112/-100
16 :名無しさん@十周年:2010/02/22(月) 11:55:01 ID:pKUXzfec0
ttp://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090304/stt0903042222024-n1.htm
民主党の石井一副代表は4日夜、都内で開かれた民主党衆院議員の資金集めパーティーであいさつし、
http://anond.hatelabo.jp/20091221232734
まあ凡人には理解できないかもね。
言わんとすることは分からんでもないが、ちょっと君にうんこを投げさせてもらうと、
君の文章こそすんごい凡人臭い。多分学内でも中の上ぐらいの成績じゃないかな。
ああ、ええ、まぁどうでもいいんですが、自分の学部は東大です。
院は特定されると面白くないので伏せるけど、まぁ東大未満だとは世間様にも思われないぐらいのとこです。
まずね、タイトルで釣りすぎかな…「数学やってりゃ東大合格」の理由はどこよ?ちと狙いすぎだな。釣りっつーか、詐欺だな。
あとね、
子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場で労働者として頑張ってね!」でいい。
そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。って感じなんですけどもね。実はそうでもないんですよね。それをするとしたら、数学よりは英語かな、って感じ。理由は後述。
うん、経済学は大事だね。これは本当にそう思う。マンキューの『入門経済学』にある内容ぐらいは国民みんなに分かっていてほしいよね。文系理系問わず、学歴問わず。鳩ポさんにうんこ投げちゃうことになるけど、民主党の方々って正直大馬鹿じゃない。あれはね、個人的には「いやぁ、国民の皆様が馬鹿ならしょうがないんじゃないんですかね」と思ってしまう。間接制であろうと最低限の素養を国民に与えておかないと、民主主義って死ぬんですよね。困ったもんだ。というわけで数学の素養も結構必要になるよね。まぁ微分積分ぐらいはね、って話になる。
理科もね、結構大事ですよ。僕からすれば、高校課程でいえば化学Ⅱ、物理Ⅱぐらい国民みんなに知ってもらわないと困るんですね。文系でもね。まぁこれはたしかにドカタ様には不要な知識かもしれないし、中卒の方々にはやってもらわなくともよい。ただ、大学を受ける層は、文系にも理解していただかないと困るんだよなぁ。物理も微積禁止令は解いていただきたいですよね。アレ、詐欺ですよ。文系でも物理Ⅱ+微積レベルは知っていただかないと、ね。
んでもって、「英語で教え込む」についてハッキリと言わせてもらうんだけれども、
え、誰が教えんの?っていう話。世間知らずの坊なのか知らないけれども、世の中先生って結構バカなんですよ。
自分の高校でも「あいつダメだよなー」とか言われてる先生ですら東北卒とかだったりして、まぁ世間一般で言えば普通に高学歴でした。
でもね、中学(僕は中学までは公立。しかも田舎)はね、本当にひどかったよ。英語の教師が英検2級だったりね。ギャグか、と今なら思うんだけれども、目立った取り柄もない人間だって働かないといけないのだよ。そうなると必然的に馬鹿な先生も出てくるんですよ。残念ながら、わが日本国には「すべての教師を教養人に!」などと高邁な理想を実現するほどのリソースは残されていないんです。
英語教師でさえ英検2級とか履歴書に恥ずかしくて書けないようなうんこ資格しか持ち合わせていないのだから、他科目なんて、ねぇ、って話ですよ。それは高校教師でもそんなに変わらんです。ああ、「頑張らせればいい」と言うのは、ナシね。そこまでマッチョイズムでゴリ押ししても、のれんに腕押しが実情です。
あなたは「重要科目に絞る」ということに重点を置いてましたけど、まさにその通りで、子供に与えられる教育の時間ってそんなにないんですね。基本的に教育って、(エリート育成を除いては)国体を維持しさらなる成長を期待できるため、国民に最低限の民度を維持せしめることにあると思うんですよ。で、英語って、ぶっちゃけ日常じゃ使わんでしょ。テキサスの巨乳娘を口説くために国費を投じる必要はないわけなんですよ。ええ、何が言いたいかっていうと、馬鹿には必要のない言語なんですよねしょせん。たしかに自分にとっては必須ですらあるんですが、「国民に知ってもらいたいこと」を教えるには、幸いまだ日本語でも十分に可能なんですね。
自分は必要に駆られてラテン語も習得しましたけど、多分あなたには必要ないでしょう。まぁ、極論を言っちゃえばそんなもんなんですよ言語って。ちなみにお隣の韓国さんはというと、国民みんなに小学3年から英語やらせてますけど、どうも一般人はベラベラとは言い難いのが現状のようですね。向こうも教員のレベルがネックとなってるみたいです。韓国の友人が言ってました。国内市場が小さいので海外進出を日本以上に頑張らないといけない韓国でさえも、そんな程度なんです。まぁでも、たしかに大卒さんなら英語ぐらい、というのは分かります。そいつらに教える英語の教育法についてはまぁ言いたいこともありますが、今回の本論には関係ないので避けますね。
つーわけで国語はいるよ?だって「賢くなるため」の文章を読むには必須の素養だもの。偏差値40台の高卒ちゃんとか、漢検4級もギリギリレベルですよ。言葉はひどいけどね、もうほとんど文盲なわけ。これが、教育しなくなったら、どうなるか。マジでほとんど平仮名とカタカナだけになるんじゃないか。日本が神聖文字と民用文字を使い分ける世の中になったらめんどくさいことになりそうだと思うけどなぁ。
そもそも抽象的思考もできないやつが英語を覚えたところでハラペコ青虫とPLAYBOYぐらいしか読んでくれんよ。実際、日本でNewsweekだのNatureを読んでる層って、日本語でも抽象度の高い文章を好んで読んでますしね。君が貼った記事にもあるとおり、実際のところバイリンガルなんて無理だし、恐ろしく稚拙な日本語と「はうあ~ゆ~?」ぐらいしか言えない、豚や鶏をちょっとマシにしたような非知的生命体が量産されること間違いなし。バイオハザードもビックリだ。
日本史はね、うんまぁ、必修は近代史まででいいかもね、と言いたいんだけど、やっぱ聖徳太子とかもかじらせとく必要はあると思いますですよ。DQN様って、本当に勉強しないので。マジで日本人同士でも会話が成立しなくなるんじゃないかな。別に左翼ではないのである程度の格差はしょうがないと思うけど、あんまり似たようなお友達ばかりと馴れ合っているとマクロ的にも損するようになってますよ世の中。
世界史はそもそも、「過去の事実」を覚えるというより、世界のシステムというか、ダイナミズムというか、そういったものを学ぶためのもんだと思うんだけれどもね。これも高校の先生ですらできてない人ばっかだね。まぁ教科書もそうなってるからね。でも覚えもしないとそれをできる一握りの人材すら日本から生まれなくなるので、まぁ教育しといた方がいいとは思うけどね。
・先生って思ったよりバカなんですよ
・(現行の高校課程に意味をとどめない)「政治・経済」は、日本国民にとっての必須となる教養。
・そのためにも数学は要るかもねぇ
・国語を教えないと、バカとエリートの使う言語感覚の隔絶が、おそろしいレベル(国が滅びるぐらい)になるよん
・バカに英語を教えてもねぇ
・そのかわり大卒さんは英語覚えてほしいよね。まぁそれはまた別の話でしょ
ところで、あなたは駒場生かしら。せっかくリベラルアーツを学ぶ機会を設けられたのだから、もうちょい頑張ろうぜ。
いやね、僕も知識人としては下っ端も下っ端なんですけれども、正直、ちょっと脱力した。しすぎて文章も散漫になった。教養主義とかじゃなくてだね、もうちょい基礎んとこを理解した上で社会ってもんを見ようぜっていう、そういう話。
あと教育論から外れるの承知で書くけど、古文漢文って君には必要ないのかね?俺は高校は理系だったけど、普通に必要な素養だと思ったけどなぁ。ていうか今も読むけどなぁ。エリートを自称する学生なら千字文とか四書五経とか、それぐらい読まねぇ?普通。それとも君は、「やりたくなければやんなくていいじゃんよー。ただし国際社会で恥かくかもだけどねー」でいいじゃん、で済むのかな。俺がジョン(仮名)に「えー!おま、論語の○×も知らないで20年も生きてきたの???wwww」とか学生時代に言われたら、その恥とやらのために死んだね。まあ凡人には理解できないかもだけど、ね。
うんこ投げすぎたので最後に一言だけ有用なアドバイスをしておくと、公教育について論じる時はもうちょっとナショナリスティックな視点を考慮に入れた方がいいよ。
教育の目的が社会的ニーズに合わせた個人の形成にあるならば、小中学校で歴史、理科、国語を教える意味はまったくないだろうね。
まず歴史。アホの一つ覚えみたいに旧石器時代からネチネチとどうでもいい知識を詰め込んでいく。しかも小、中、高と重複も多い。近代史だけで十分だろ。そもそも現在の日本のあり方語る上で、聖徳太子とか小野妹子とかもう、どうでもいい(聖徳太子は最近教科書には載っていないらしいけど)。明治から現代までの歴史を、くだらない年号とか一切抜きにして、さっと流せば十分。半年もあれば浚える。それだったら大学の教養課程でやりゃーいい。
国語はいらん。ここ参照。http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090214/1234584728
理科がいらないっていうのはわけがある。それは後で書く。
んで、空いた時間で何をするかっていうと、算数(数学)をばっちりと教え込む。課程の全時間をそれに当てる。あー、体育、音楽はあってもいい。家庭科はいらん。あんな包丁の持ち方とかお裁縫とかは家で教えろ。そもそもミシンの使い方なんぞ大部分の人間にとって必要ない。総合学習は即刻廃止。うちの学校では「一輪車の乗り方」を教わったわけだけども、人生においてまったく何の役にも立っていない。習字もいらない。もう毛筆なんぞ日常的に使う人間はいない。ユーキャンのペン習字でもやらせておけ。コンピュータは数学の実習という形で触れさせる。フィルタリングなんぞ必要ない。
高校入学後は、これに加えて経済、理科(生物学中心)を英語で教え込む。現代の経済学、科学はほとんど西洋で作られたから、わざわざどこぞの教授が自分の研究室の大学院生に編集させたり、ろくな知識もない学歴だけ無駄に高い高校教師が作ったような教科書を読む必要性はない。教える内容も、基礎中の基礎で十分。日経新聞や、日系サイエンスを読んで、とりあえず8割くらいわかる、という程度でOK。
大学では最低1年、望ましいのは2年間ほど教養教育に当てる。ここで初めて各人の選択で、古文やりたいやつは古文やったり、旧石器時代を習いたいやつは習えばいい。哲学やろうが、地政学やろうが自由。それを通過して初めて専門課程に進ませればいい。
今の日本で高校進学率の高さは異常。中学校までの義務教育で、「とりあえず社会で労働者として生きていくのに必要な知識」を与えておいて、そこからはもっと人数を絞り込んでやっていけばいい。明治時代のエリート教育みたいに。たとえば東大の数学科だとしたら、定員は10人もいれば十分。それでも多いくらい。その10人に対して3倍の数の教員が質の高い教育を提供すればいい。大学での教養課程も、「やりたくなければやんなくていいよー。ただし国際社会で恥かくのは君だからねー」でいいじゃん。無理やり必要もない人間に「人間の安全保障」とか教えても意味がない。自己責任でやっていけばいい。
小学校の教員も、最低博士課程を出た人間じゃないとなれないようにする。進級をアメリカの大学並みに厳しくする。必要な知識を身につけていない子供は容赦なく留年させる。勿論能力によって厳密にクラス分け。子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場で労働者として頑張ってね!」でいい。
関係ないけど、修士課程も廃止。日本の修士課程は世界の中でもかなり独特で無意味な制度。博士課程4年、の一本でいい(MBAは例外)。
反発が予想されるのは、「楽そうだから」「若い女の子と触れ合えるから」って理由で教職に就いた、理科、社会科、国語科(古文、漢文)、保健体育の教員からだけども、かれらも頑張って労働者として働いていただけばいい。本当に熱意があれば、大学の教養課程で、エリート対象に教えればいい。
こう思ったのは、昔塾で勉強を教えていたときに、あまりに無駄が多いと感じたから。小学生が花崗岩を見分ける能力、名称を覚えることがまったく無意味だ、とは言わないけれども、もっと他に大事なことはいくらでもあるはず。種子島鉄砲伝来と、キリスト教伝来、どっちが先だったか覚えるのは、もうまったく無意味。何の流れも関連性もないだろ。センター試験を見てみても、本当に無意味な問題が多い。
まあ凡人には理解できないかもね。
教育の目的が社会的ニーズに合わせた個人の形成にあるならば、小中学校で歴史、理科、国語を教える意味はまったくないだろうね。
まず歴史。アホの一つ覚えみたいに旧石器時代からネチネチとどうでもいい知識を詰め込んでいく。しかも小、中、高と重複も多い。近代史だけで十分だろ。そもそも現在の日本のあり方語る上で、聖徳太子とか小野妹子とかもう、どうでもいい(聖徳太子は最近教科書には載っていないらしいけど)。明治から現代までの歴史を、くだらない年号とか一切抜きにして、さっと流せば十分。半年もあれば浚える。それだったら大学の教養課程でやりゃーいい。
国語はいらん。ここ参照。http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090214/1234584728
理科がいらないっていうのはわけがある。それは後で書く。
んで、空いた時間で何をするかっていうと、算数(数学)と英語をばっちりと教え込む。課程の全時間をそれに当てる。あー、体育、音楽はあってもいい。家庭科はいらん。あんな包丁の持ち方とかお裁縫とかは家で教えろ。そもそもミシンの使い方なんぞ大部分の人間にとって必要ない。総合学習は即刻廃止。うちの学校では「一輪車の乗り方」を教わったわけだけども、人生においてまったく何の役にも立っていない。習字もいらない。もう毛筆なんぞ日常的に使う人間はいない。ユーキャンのペン習字でもやらせておけ。コンピュータは数学の実習という形で触れさせる。フィルタリングなんぞ必要ない。
高校入学後は、これに加えて経済、理科(生物学中心)を英語で教え込む。現代の経済学、科学はほとんど西洋で作られたから、わざわざどこぞの教授が自分の研究室の大学院生に編集させたり、ろくな知識もない学歴だけ無駄に高い高校教師が作ったような教科書を読む必要性はない。教える内容も、基礎中の基礎で十分。日経新聞や、日系サイエンスを読んで、とりあえず8割くらいわかる、という程度でOK。
大学では最低1年、望ましいのは2年間ほど教養教育に当てる。ここで初めて各人の選択で、古文やりたいやつは古文やったり、旧石器時代を習いたいやつは習えばいい。哲学やろうが、地政学やろうが自由。それを通過して初めて専門課程に進ませればいい。
今の日本で高校進学率の高さは異常。中学校までの義務教育で、「とりあえず社会で労働者として生きていくのに必要な知識」を与えておいて、そこからはもっと人数を絞り込んでやっていけばいい。明治時代のエリート教育みたいに。たとえば東大の数学科だとしたら、定員は10人もいれば十分。それでも多いくらい。その10人に対して3倍の数の教員が質の高い教育を提供すればいい。大学での教養課程も、「やりたくなければやんなくていいよー。ただし国際社会で恥かくのは君だからねー」でいいじゃん。無理やり必要もない人間に「人間の安全保障」とか教えても意味がない。自己責任でやっていけばいい。
小学校の教員も、最低博士課程を出た人間じゃないとなれないようにする。進級をアメリカの大学並みに厳しくする。必要な知識を身につけていない子供は容赦なく留年させる。勿論能力によって厳密にクラス分け。子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場で労働者として頑張ってね!」でいい。
関係ないけど、修士課程も廃止。日本の修士課程は世界の中でもかなり独特で無意味な制度。博士課程4年、の一本でいい(MBAは例外)。
反発が予想されるのは、「楽そうだから」「若い女の子と触れ合えるから」って理由で教職に就いた、理科、社会科、国語科(古文、漢文)、保健体育の教員からだけども、かれらも頑張って労働者として働いていただけばいい。本当に熱意があれば、大学の教養課程で、エリート対象に教えればいい。
こう思ったのは、昔塾で勉強を教えていたときに、あまりに無駄が多いと感じたから。小学生が花崗岩を見分ける能力、名称を覚えることがまったく無意味だ、とは言わないけれども、もっと他に大事なことはいくらでもあるはず。種子島鉄砲伝来と、キリスト教伝来、どっちが先だったか覚えるのは、もうまったく無意味。何の流れも関連性もないだろ。センター試験を見てみても、本当に無意味な問題が多い。
http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/center/09/1/exam/522/12.htm
って本当に、大事なことなの?
それはGPS搭載端末だと細かい位置までわかるんだけど、落としたのはGPS非搭載だったのよね。
あと、電源入ってなかったのと、もう新しい携帯買って前のSIM使えなくなったので、もうそのサービスも使えないのですよ。
いたずら主は若い男だそうです。聖徳太子がどうのとわけのわからないことを言ってたらしいです。本当にわけわからん。
俺の屍を超えていってもらうためにまとめるよ!(ソフトバンク用)
・携帯の電源を入れたときには暗証番号が必要になるように設定しよう
・紛失したのに気付いたら回線停止!
・回線停止中はリモートロックできないので回線停止を一度解除する。オペレータのお姉さんに頼む必要アリ。
・探すのを諦めたら警察(交番でいいよ)に遺失届けを出して受理番号を教えて貰う
・ソフトバンクショップにて機種変更手続き。そのときに受理番号が必要。
・保険入ってたらその機種を2年使ったときと同じぐらいの価格で機種変できるよ。
・SIMカードの再発行で2000円ぐらい次の明細に足される。
・SIM再発行すると、前の携帯に対してリモートロックとかできなくなるから気をつけよう。
その他