はてなキーワード: 藁人形論法とは
この記事に関する限り脱字はなさそう。だが、誤字誤変換に加えて衍字がある。認知の歪みも激しい。
→当時の私
→でてくることはよくあることだ、が正しい。「こと」を二度使う必要はないから「でてくることはよくある」でいい。
→指摘してくる人もその人以外には、が正しい。「人」を二度使う必要はないから「指摘してくるのもその人以外には」でいい。
→「ざわついた」の間違いではないか。
→まぁお察しの通り
⇒ウェブに正誤表を出せばいい。「どうにもできない」わけではない。
⇒誰もそんなことは言っていないだろう。「完璧じゃないなら本を出すな」ともAさんは言っていない。藁人形論法になってしまっている。Aさんは、あなたの誤字だらけの「作品」をせっせと買って読んでくれているじゃないか。
⇒だからこそ減らすべきものである。「多かれ少なかれあるもんだから気にすんな」と言いたいのかもしれないが、本を出して売る立場からそれを主張するのは我田引水で図々しすぎる。本を買って読む側が言うならまだしも。
⇒元はと言えば、作者が誤字脱字をしなければいいだけの話である。また「筆を折る」というのは「文筆活動をやめる。筆を断つ」という自動詞的な表現だ。他人の文筆活動をやめさせる、の意味なら「筆を折ってやりたい」などの表現に置き換えるのがよい。「誤字脱字報告新刊のたびに毎回すると」も語順がおかしく「新刊のたびに誤字脱字を報告すると」のほうがいい。
⇒「逆に」の使い方がおかしい。Aさんの注意力は「逆」でも何でもなく、普通にすごい。賞賛に値する。たぶんプロの校正者として報酬を取れるぐらい。しかしAさんは、その仕事を無料でやってくれている。
⇒あなた個人の感じ方や願望を勝手に一般化している。そのような社会的合意が存在するわけではない。「私が希望してない限りは」と書くのが正確だろう。そしてあなたは「誤字脱字誤変換の指摘はやめてください」という単純な要求をAさんに伝えることができず(なぜならその要求が無理筋で見っともないことを内心では知っているから)Aさんと無関係なアノニマスダイアリーで愚痴をぶちまけ、共感と同情を求め、Aさんから反論が出ないであろう場所でこっそり自己正当化を企てている。実に潔くない、卑怯な態度である。
⇒いくら「一切不要」と言っても、自分が書いたものを公表したら他人からあれこれ言われるのは不可避で当然のことである。それは商業出版であろうと同人誌であろうと増田であろうと私信であろうと同じだ。どうやら「私が貰って嬉しいと思うタイプの感想」だけをくれというのがあなたの本音のように見える。だとすると極めて虫がいい話で、読者はあなたの自惚れ鏡じゃないんだよ。
もういいです。ネットでの正論、特にはてなで標榜されているような完全理知的な人間像を知ることはなんのメリットにもならないと確信しました。
コミュニカティブで清潔で寛容でそんな人間にはどうにもなれそうもありません。自分みたいにタバコを吸い、怠惰で向上心もなくバイタリティーもほとんどなくなってきたような人間にはどうにもはてなは劣等感をインストールする場所としてしか機能していないのです。いえ、仮にタバコをやめ寛容になり向上心を獲得し論理的な人間になれたとしてもそれはそれはとても気持ち悪いものになるに違いありません。なぜならその理想的人格はあまりにも過去の経験によって成り立っている自己とあまりにもかけ離れているからです。仮に理想的なふるまいをしてみようとすればそれはそれはとても奇妙できもちわるい人間に仕上がるでしょう。
つまりもう他人が考える理想的他人として自己を形成しようが、あるいはしまいがどちらにしてもうまくいくはずがないのです。自己は常に経験と連動してこそ自然であり魅力的であるのです。
理想的な人格から外れてるな、自分は不完全だなというシーンが会社やプライベートなどでたびたび訪れることがあります。タバコを適切な場所で吸ったり誠実な人みたいに振る舞ったり、本当はクズと罵倒したいのに作り笑いで寛容さを発揮してみたり、努力してそういうポーズをとってみたりはするのですがそのようなことをしているたびに自己がずれていく感覚を覚えます。
みんなどうやって折り合いをつけているのかわかりませんが個々人としての人格形成という点においてネットでどういう人間が批判されうるのかを知ることは同時にその思考や行動にいたる経験が訪れた時にその感情にブレーキをかけることになります。
それが例えば明らかに倫理に外れているようなことであれば自己にブレーキをかけるべきだと言えます。しかしインターネットで議論されているような理知はほとんどが無意味で無意義で無思慮な神経質なだけのものです。繊細チンピラ?マンスプレイニング?藁人形論法?いったい誰が言い出したのかわかりませんがそのすべての理想は啓蒙主義的であり一様性に人間の価値を整理していくのです。
フェミニズムやビーガンなどもその一例でしょう。男が敵だと思っている人はそう思っていればいい、野菜だけ食いたければそうすればいい、しかしそういう極端に理念化された価値観は公共性を帯び人々の思考にブレーキをかけることになります。
metoo運動にたいするカウンターとして女性自体を避けようといったようにあらゆる世論にたいして僕達はセキュリティーを装備する習性を持っている。非喫煙者の前でタバコを吸えば文句言われるだろうなと事前に考えるようにすべての価値観にたいし事前に考えるようになり公共的な自己しか発揮できなくなり、とても気持ち悪い人間が出来上がる。
事前に考え対処することが正しいと思われるかもしれないが自己は常に事後によって形成される。つまり物語、経験のない事前による自己の獲得はすべて偽である。事は常にやってしまえばいい。路上喫煙もセクハラも、パワハラも、犯罪も、なにもかも、やってしまえばいい。やってみてはじめて自己と連動した価値が生まれる。
「『自分は男(女)だ』というアイデンティティは後天的に環境によって決まるし教育によって変えられる」というジェンダー観の方々にとってトランスジェンダーは相当に都合の悪い存在なのでは?
女(男)の体で生まれた彼/彼女らはそれこそ生まれた時から周囲の環境(他人)から全力で「お前は女(男)だ」と「教育」され続けているにも関わらず、「自分は男(女)だ」という性自認を手放さないのだから。
「性自認は後天性」論者はそれでも諦めずにトランスジェンダーに対して「性別適合手術は必要無い。そもそも男/女などという自認こそ社会が構築した幻想に過ぎんのだ」と頑張ってカウンセリングを続けて欲しい。
日本のネットではそこまで過激なジェンダー論者はほとんど見かけないから藁人形論法もいいところなんだけどね。
「ブレンダと呼ばれた少年」という悲劇的な反例もネットで広く知られるようになったし。
同性婚はいつまでも認めないのに性別変更の法律はあっさり成立したあたりに日本人のマジョリティのジェンダー観がよく現れている。