はてなキーワード: 刑務所とは
今気が付いたんだが、
刑務所は臭い飯が出ると言うが、それはすぐ後ろにトイレがあるかららしい。
これじゃ、ムショの臭い飯ではないか。
ならばどうして刑務所が良すぎると分かるんだ?
論理的に考えると刑務所における待遇がそこまで良いとは考えられないから相対的にそれがマシに思えるくらいシャバが悪いということだろう
俺にとっては娑婆は居心地いい。だから刑務所の処遇を適正化しようとした
まだ起訴前なんで、特定される情報はぼかすけど、気の毒に同じ車両に乗ってた人なら判る程度にちゃんと書く。
ちょっと前の金曜日、会社帰りに帰宅の為に会社最寄駅から電車乗った。
会社最寄駅は始発の駅で、タイミングが良いと並んでても座れる時がある。
混みそうな時間帯にも関わらず、幸いにも端っこの隣の席に座ることが出来た。
出発まで5分ほど、背負っていたリュックを膝上に置き、スマホで技術系ブログなどを漁る。
インターネット中毒なのか、外界の景色が見えなくなる程に熱中して読んでしまう時がある。その時もそうだった。
電車が動き出したのは覚えてる。後、隣の人が若干臭かったことも。
始発駅から1つ目の駅を出た頃、隣に座っていたおっさんが動いた。
一瞬そっちを見るが、立つのか伸びをしているのかと判断して、視線をスマホに戻そうとするその横で、振りかぶって返ってくる肘。
まさか、電車で全く知らん人、ましてや無害だろうと判断した人からの突然の攻撃に備えられるはずもなく、目で追えていたものの、顔面にクリーンヒット。
考えさせてくれる暇も与えられず2発目。
突然脳天を揺さぶれ、顔面にモロにくらい、茫然自失、戦意喪失。
おっさんは更に立ち上がり、殴り始める。
引く周りの乗客。
一通り殴って気がすんだのか、平然と座る男。
俄然高まる緊張感。
その後は、おっさんから引き離す様に立たせて、間に入ってくれた果敢な男の人に全てを任せ、立ち上がり再び威嚇するおっさんが取り囲まれ、駅のホームに取り押さえられる様を他人事の様に見てた。
犯人が暴れてるので、取り押さえ男衆に混じり4人掛かりで抑え、警察に引き渡す。
殴られて顔腫れてるわ、もみくちゃにされて片目のコンタクト失くされてるわ、後頭部の鈍痛がある中、警察官の尋問で、待たされ続ける。
取り敢えず早く病院行きたかったのに、やっと出てきた警察官渋る渋る。
自分で呼んだ方が良いよとか言われたが、上司が応援にきてあっさり承諾。なんじゃそりゃー。
取り敢えず、CT異常なし。
この時点で、23時過ぎ。
一昔の前のアイドル風な風貌に、マル暴で鍛えられた静かな迫力。
不器用にノートパソコンに調書を書いてくれ、2時過ぎまで対応してくれた。
途中、長過ぎてもう適当で良いよーと思ったり、感謝はしつつも調書もAmazonレビューポエム的な、拘りがあるのかなーとか思ったりしてた。
2時半頃、調書も被害届けも書き終わり、送ってくれることに。
本部長さん、今朝5時から働いてるのに、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。本当にありがとうございました。
警察官や刑事さんも、みんな言ってたが、本当に死んでしまえと思った。
あと、何にも出来なかった、やられた後に反撃さえ出来なかった自分が情けなくて、何か本当に悔しい。
他人に対する恐怖心に欠けるのは、危機感に欠ける。そんな状態がデフォルトになってしまうのは恐ろしい。
それこそ堀江を見れば分かるだろう。
あいつは本当のところでは、何であそこまで嫌われ、あの程度のことで実刑を食らって刑務所暮らしをすることになったのか、たぶん理解できてない。
あー、なるほど。確かにそういう側面はありますね。
私も、オプティミスト以外の人との人間関係は一部だけど、かなり悪化しました。
でも、堀江さんが逮捕された件は、ちょっと極端過ぎる例の気もします。
それと「そんな状態がデフォルトになるのは恐ろしい」との事ですが、その「恐ろしい」という感覚が減るので、不快な不安感はなくなり、すごく快適に暮らせます。
私が例に出した人選がそもそも悪かったとは思うけど、あんまり有名じゃない人の実名を書いても、わかる人は少ないし、そもそもここで書いてはいけないと思う。
でも、堀江さん達も、あまり有名じゃない人も、当時知り合った人はみんな人生を楽しく謳歌していて、それを羨ましいと思う私の感覚はそこまで変ではないと思う。
たぶん人類の長い歴史の中では、他者は本質的に危険な存在である期間が長く、警戒心がある人間が生き残ったのだと思う。
現代でも、危険な地域は多いし、先進国でも驚くようなおぞましい事が裏で実行されていたりもする。
しかし、それを踏まえても、この恐怖心は現代の特に日本ではデメリットの方が圧倒的に大きいと思う。
そもそも知能があるので、恐怖心なんか無くても、危険な人には近づかないようにはする。
あれもこれも(やりたいのに)出来ない、つまらない人生を送る人は確かにオプティミストに比べて危険な目に合うリスクは少ない。
でも、オプティミストは恐怖心があまり無いので、実際に怖い場面に出会っても、嫌だなと感じることは少なく、冷静に頭を使って行動でなんとか危険を回避したりもできる。
それに危険な目に合ったことなんて、あれだけ活動していても一度も無かったので、人生の楽しさという意味では、圧倒的にオプティミストの方が上だというのは断言できる。
ただ、あの楽しさは体験しないとわからないし、普通の人は体験する事がほとんど無いので、よほど想像力を働かせないと私の言っていることが理解できないのもわかる。
他人に対して気をもんだり、気にしすぎて喋れなかったりするのは、根本的には他人に対する恐怖心からだ。
人によって子供あるいはペットなどに対して気楽でいられるのは、敵になり得ないと判断するからだ。
これは単純に他人を舐めているのかもしれないし、人間関係に恐怖を感じる心そのものがないのかもしれない。
他人に対する恐怖心に欠けるのは、危機感に欠ける。そんな状態がデフォルトになってしまうのは恐ろしい。
それこそ堀江を見れば分かるだろう。
あいつは本当のところでは、何であそこまで嫌われ、あの程度のことで実刑を食らって刑務所暮らしをすることになったのか、たぶん理解できてない。
横からになっちゃうけど私がおもうに今はコンビニバイトだけどがんばればよくなる可能性に期待がもてるのと
犯罪による損失が現状より大きいと想像するからじゃないかなとおもうんだ
実際過酷な労働で少ない収入を得ることより罪のほうが楽だとかその方法を知った方は簡単な罪で拘置所や刑務所の出入りを繰り返している例があるみたいなんだけど
その実情を私は知らないので想像なのだけど予測と経験値じゃないかな
実質担保となる保証なしに予測に価値を置くというのは金融派生商品としてもありえるものだよね オプションとかデリバティブとかいわれるものだったりとか
そういう意味で一生コンビニバイト以上にはならない何億円かせいでも大発明しても歴史に名を残しても時給1100円だったら
そりゃ万引きで拘置所にはいったほうがいいかもっておもうかもしれないなあとはおもうかな
収入も社会的地位もない故に犯罪に至るハードルが低いニートが「無敵の人」と揶揄されたりするが
田代某の報を見て「真の無敵の人」は有名人の累犯者だと気付いた。
・社会的地位が今以上に下がりようがない
初犯なら「あの人が?」再犯なら「またか!」となるが、3回目以上になると「はいはい、またやったのね」てな感じで
インパクトがなくなる。「1、2…たくさん」の法則とでも言うか。
・捕まったらどうなる?に対する恐怖がない
逮捕されたら警察にどう扱われるんだろう?刑務所での生活ってどんなのだろう?刑務所を出た後、世間の目はどう変わるのだろう?
など知らない事に対する漠然とした恐怖も犯罪への抑止力の1つとしてあると思う。
普通の犯罪者なら名前を変えて顔バレしない土地に引越して一からやり直す事が可能で、その生活を失いたくないから
犯罪をやめよう、となる。
奈良県で行方不明となっていた小6女児が無事見つかり、ほっと一安心。
ただ、空白の32時間に、何をされていたのかは推して知るべしであるので、続報が待たれる。
そんな時には、同じ子をもつ親として、本当にいたたまれない気持ちになる。
犯人が捕まった所で、亡くなった子供は元にもどらないし、犯人への量刑も軽すぎる。
そこで、私は断言しておく。
もし、自分の娘が同じ目にあったとしたら、警察や弁護士には頼らない。
どうせ大した罰は与えられないし、あらゆるものから護られてヌクヌクと刑務所で養生するのだ。
そんなことが許されるわけがない。
私は、私刑を断行する。
犯人には実刑がくだされて、一度は司法の手に落ちることになるがそんなことは関係ない。
いつの日か刑務所から出てくるであろうその時を必ず見逃さない。
私は元受刑者を尾行・追跡し、場合によっては探偵でも雇い、居場所を把握する。
機会を狙い、拉致監禁する。
叫び声は上げさせないつもりだが、ドタバタ音をたてられては困るので、外部との接触を遮断する。
元犯人には、自殺ができないように、口に詰め物をし、両手を縛る。
栄養剤を適宜点滴にして与えてやり、しばらくは死なないように調整してやる。すぐには殺さない。
まずは思う存分なぐる、蹴る。生爪を剥がす。生殖器はまだ攻撃しない。五感もある程度残しておきたいので、顔は避ける。
死なない程度にやる。まだ死んではいけない。
栄養剤を与えて、怪我をしたら手当もしてやり、何日も何週間もかけて、何度もやる。
そのうち体が慣れてくるかもしれないので、手法を変えていく。
例えば、虫を大量に体に這わせるとか、自分の体が動物に食べられるところを見せるとか
精神的に追い詰めれる作業を延々と続ける。
だんだんと精神が蝕まれ、もう死にたいと願うようになるだろうが、殺さない。