はてなキーワード: しめ縄とは
当方、女
男性向け清潔感を上げる美容法(肌の保湿とかのやつ)がホッテントリに入り、めんどくせーと思った人も多いのではないか
増田もめんどくせーと感じている。降りたい。切実におりたい。現実の異性に興味がなくなった喪女の腐女子なので、最低限社会人としての身だしなみを整える程度で十分なのだが、社会人としての身だしなみのハードルが高すぎおりられない助けてという感じ
増田は肌遺伝子ガチャで負けた脂性肌であり、鼻の毛穴とか顎の毛穴が黒い。いわゆるブラックヘッドってやつ。保湿してレチノール(脂性肌トラブルにエビデンスのある成分)塗ってやってるけど多少マシかなってレベル。やらないともっとグロ画像みたいな鼻の全毛穴が黒くなるからやるけど。清潔感ゼロなので化粧で隠してさらにマスクで隠してるけど降りたい
次に髪。これも遺伝子ガチャに負けて多毛の剛毛くせ毛で髪が広がりまくりなので、清潔(サラサラでまとまりのある髪)に見せるために縮毛矯正、トリートメント、月1で美容院で毛量調整が必要で、無染色の黒だとしめ縄みたいな髪質ゆえ中学生みたいなのでほんのり茶色にしている。プリンになるので毛量調整と同時に根元の髪を染める。降りたい
次に睫毛。清潔かつ化粧をしていますよというイメージ作りにためには丁寧な睫毛メイクが重要なので(睫毛がきれいに整っていてカールしていると目が清潔に見える。よくわからない人は清潔感のない睫毛の例として「ダマ 睫毛」でググったらわかるかも)毎朝丁寧にマスカラを塗り、睫毛をカールさせている。増田はまぶたが分厚いのでカールさせないと睫毛が下を向き、いかにも化粧してない感じになるんである。もうこういう時間や手間から降りたい
でもこれ、全部辞めると、増田の顔立ちの問題もあるんだけど、中学生にもおばさんにも見える、悪い意味で年齢不詳の人になる
だから化粧してますよ、手入れして清潔感という記号を理解してる大人ですよっていう無言のメッセージが必要なんだけどね。いやクソすぎる。降りたい。このお金と手間を趣味に費やして生きれたらどんなに幸せか
清潔感なんてクソ喰らえだよ。生まれつき肌が綺麗とか、生まれつき髪質や量が丁度よく生まれた人や、生まれつき二重で睫毛が上がっててきれいな人に、そっからはみ出たタイプの人間が頑張ってそこに寄せていく作業だもん
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
…
夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
…
神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
…
この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
…
風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
…
で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
…
いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
…
正しいかは知らない。
…
何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
しめ縄のこと言ってんだけど
もう凄まじい岸念慮。
あれ休日中にポンといけるところじゃないでしょ?
ああいうところって都市の入れないところじゃないけど、普通に人生では入れないわけ。
関係者以外は立ち入れない。
しめ縄があるところなんて岸というより絶壁なんだけど、無人島、あれね。
あれはずるい。未開なんですよ。2020年なのに。
人がいない。人が住めない。インフラがない。
ところが普通の人生を送っていたらあの無人島の岸にはたどり着けんのよ。
普通にどこの海岸からでも見えるそこら辺に点在する無人島に一度も入らずに人生を終える。
こんなことありますか?
そこにあるのによ?
あるのにょ。
岸念慮。
あとは湾になってるところね。
あの岸もなかなか。
普通に車なんかで向こう側に行くといいです。
向こう側の人は向かって左側とか向かって右側とかになっちゃう。
急に鏡の住人みたいになる。それがいつの間にか起こる。
望遠鏡で覗いてよおく念慮してみてよ。
見え方が違うんだなもう。
あれなによ。
あれなんにょ。
岸念慮。