はてなキーワード: 藤子とは
自分には彼が何を考えていたのかサッパリ分からなかったし、みんなどう理解すればいいか分かりあぐねている様子だけど、
この断絶は藤子F不二雄の短編、ミノタウロスの皿に似ていると思った。
宇宙飛行士の主人公が不時着したのは人形の生物が牛型の生物に家畜にされている星。
その星で出会った祭典での栄誉ある最高級食材に選ばれたヒロイン。
主人公はそれを止めようとするが、ヒロインは食べられることを心から喜んで受け入れており、その価値観の断絶を主人公は最後まで受け入れられなかった。
個人的にはこの話はインカやアステカの生贄の文化をモチーフにしたものじゃないかと思っている。
そして栗城史多と、彼の支持者達のもっていた世界観というのも、これに似ていたんじゃないだろうか。
「冒険の共有」を掲げた彼の支持者は口々に勇気をもらったと言う。
雨乞いや豊作を願って神に捧げられた少年少女達も、その共同体の人々に勇気を与えたことだろう。
みんなのために、死ぬ。根拠はないけど、死ぬ。みんなはその尊い死を称える。死んで本望だったろうとすら言う。
その価値観はなかなか理解しがたいが、人の弱さが生み出す普遍的なシステムであるのかもしれない。
標高6739メートルの火山で見つかったインカの生贄の少女は、
BUBKAの吉田豪氏によるえびはら先生インタビューで藤子・F・不二雄先生について語ったことが
一部界隈で話題になっており、遅ればせながら私もそれを読んだ次第。
(BUBKAの各コラム陣だけをまとめた「コラムパック」で読みました http://www.ebookjapan.jp/ebj/438945/volume201804/ )
録音・録画等記録が残っていないため証拠を出せと言われると困るわけでそのへん了解してほしいと思いつつ私が思ったことを書いておきます。
・2015年7月に阿佐ヶ谷ロフトAでえびはら先生が主催したイベントで先生は「ここだけの話」にしてほしいと語り、
イベント参加者に所謂「共犯関係」を求めたが、このインタビューではそれを自分自身の手で反故にした。
・えびはら先生の「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」には当初、
ジャンクハンター吉田氏による当該の件の文章が載る予定だったらしいが配慮により立ち消えに。
・インタビューで語ってしまったことはイベント参加者だけでなくジャンクハンター吉田氏に対しても裏切り行為なのでは?
・大元はジャンクハンター吉田氏の体験談で、えびはら先生の談は伝聞あり、吉田豪氏は当人ジャンクハンター氏に確認を取るべきだったのでは?
以上。
いち藤子ファンとしてえびはら先生の行動・言動に疑問を持ったため書いた次第です。
ちなみに、ジャンクハンター吉田氏によるこのエピソードは、真偽を確かめようがないため、ファンタジーとして受け止めたほうがよいでしょう。
ネット見てたら週刊ダイヤモンドの記事で「ドラえもんの映画が復活した理由」というのがあった。
内容は、声優や作画、主題歌、脚本など常に変化に挑戦してきて今のヒットがある、というもので、それに特に異論はないけど、復活した理由を語る前に、落ち込んでた理由を考えなければならないはずだと思った。
作者が生きていた頃の旧ドラの場合でも、確か日本誕生辺りをピークにして後は落ち込んでいくばかりだった。90年代は映画ドラえもんは、とにかく「子供向け」アニメ映画でしかなかった。その「子供向け」でも、ジャンプ人気の勢いに押されて、コロコロコミックを中心に展開する映画・大長編のドラえもんは子供の興味の脇に追いやられていた。今から振り返ると、作者が長生きしていた場合、いつまで大長編ドラえもんが描かれ続けていたか、と考えてしまう。どっちにしろ声優交代した辺りで、藤子氏も大長編の原案を考えるのを止めていたのではないか。
そんなドラえもん映画が復活したのは、トヨタCMなどいろんな展開をすることで、幼児・児童向けの映画から若者・大人も見に行くコンテンツに変化させて客層を広げたこととともに、ジャンプの漫画が高年齢層向けにシフトして小学生離れを始め、ライバルがいなくなったところをコロコロ勢力・ドラえもんが繁栄することとなった。
先日、とある話題作に触れる機会があった。主人公の成長物語として感動的だとの触れ込みだった。しかし僕の感想は「なんだこれ?」の一言だった。
いつごろの作品なのかも、漫画、アニメ、小説、映画、ゲーム等ジャンルも明かさないでおく。
本題に入るが、なぜ僕が感動しなかったのかといえば主人公の変化の仕方にあった。
主人公の日常生活に突如として変革が起こり、その局面を打開する形で成長していくという構造だ。
確かに作品内において主人公のキャラは序盤とラストで大きく違っている。しかし僕には違和感が残った。
自分自身を見つめることなく、ただひたすら周囲に合わせていった結果、別な人間になったというだけの話だった。
異常な状況が今までの自分でいることを許さず、仕方なく変化する、気づかぬうちに昔の自分を捨てさることを成長とは言わない。
現実ではどうか知らないが、少なくとも作品において成長物語というジャンルとは呼べない。
僕は全て他人任せでボケーっとしている人間だが、戦争が始まったら多分積極的に周囲と連携して生きる道を模索する。
率先して様々な案を出す。ときにはリーダー役を買って出るかも知れない。
でもそんなの、雨が降れば傘をさす、寒くなればコートを着るというくらいに当然のことだ。
「戦争を通して立派に成長したね」とは言えないだろう。
見捨てることもできる、逃げ出すこともできる、強い側につくこともできる、今の自分でいることもできる、
それでも自分自身の弱さを見つめ、問題に立ち向かっていくことの先に成長が待っているのではないだろうか。
さて、前述の作品と対比するように「さようなら、ドラえもん」という話がある。
ドラえもんが帰るにあたってのび太が1人でジャイアンに立ち向かう話だ。
あの話の中で、のび太は最後までドラえもんに頼ることができた。泣きつけばドラえもんも何だかんだで助けてくれただろう。
いつものようにジャイアンを撃退しチャンチャンで終わることのできた話だ。
しかし、のび太はそうはしなかった。ふとドラえもんのことが頭をよぎり
「けんかなら、ドラえもんぬきでやろう。」
「ぼくだけの力で、きみにかたないと……。ドラえもんが安心して……。帰れないんだ!」
というセリフを発する。
のび太はジャイアンに泣かされてばかりの自分、ドラえもんに頼りきってばかりの自分を乗り越え最後にこう言う。
これはほんとそれ。俺はいちいち追加していくのが面倒だから、昔増田に貼られてた「おすすめの非表示ユーザーリスト」をまるっとコピペした。おかげでクソコメントにイライラする事は減ったが、クソ記事が上がってくるイライラを解決する機能ははてなにはないので、それが嫌であまり見なくなった。
また、TwitterやFacebookでは元々自分に近い人しかフォローしていないので、自然に「不快な人を削除した世界」になってる。これも快適。
藤子F先生は「どくさいスイッチ」を独裁者を懲らしめるための装置として描いたが、実際は問題のある人間を消すことが幸せな世界を作る方法として正解だと俺の中の結論ではなってる。