2017-05-14

成長物語を履き違えている作り手と「さようならドラえもん

先日、とある話題作に触れる機会があった。主人公成長物語として感動的だとの触れ込みだった。しかし僕の感想は「なんだこれ?」の一言だった。

作品叩きがメインではないので名前は伏せておく。

いつごろの作品なのかも、漫画アニメ小説映画ゲームジャンルも明かさないでおく。

本題に入るが、なぜ僕が感動しなかったのかといえば主人公の変化の仕方にあった。

主人公日常生活に突如として変革が起こり、その局面を打開する形で成長していくという構造だ。

確かに作品内において主人公キャラは序盤とラストで大きく違っている。しかし僕には違和感が残った。

それは「主人公はそうしなければならなかっただけ」だからだ。

自分自身を見つめることなく、ただひたすら周囲に合わせていった結果、別な人間になったというだけの話だった。

異常な状況が今までの自分でいることを許さず、仕方なく変化する、気づかぬうちに昔の自分を捨てさることを成長とは言わない。

現実ではどうか知らないが、少なくとも作品において成長物語というジャンルとは呼べない。

僕は全て他人任せでボケーっとしている人間だが、戦争が始まったら多分積極的に周囲と連携して生きる道を模索する。

率先して様々な案を出す。ときにはリーダー役を買って出るかも知れない。

でもそんなの、雨が降れば傘をさす、寒くなればコートを着るというくらいに当然のことだ。

戦争を通して立派に成長したね」とは言えないだろう。

見捨てることもできる、逃げ出すこともできる、強い側につくこともできる、今の自分でいることもできる、

それでも自分自身の弱さを見つめ、問題に立ち向かっていくことの先に成長が待っているのではないだろうか。

さて、前述の作品と対比するように「さようならドラえもん」という話がある。

ドラえもんが帰るにあたってのび太が1人でジャイアンに立ち向かう話だ。

あの話の中で、のび太最後までドラえもんに頼ることができた。泣きつけばドラえもん何だかんだで助けてくれただろう。

いつものようにジャイアン撃退しチャンチャンで終わることのできた話だ。

しかし、のび太はそうはしなかった。ふとドラえもんのことが頭をよぎり

「けんかなら、ドラえもんぬきでやろう。」

「ぼくだけの力で、きみにかたないと……。ドラえもん安心して……。帰れないんだ!」

というセリフを発する。

のび太ジャイアンに泣かされてばかりの自分ドラえもんに頼りきってばかりの自分を乗り越え最後にこう言う。

「勝ったよ、ぼく。みたろ、ドラえもん。勝ったんだよ。ぼくひとりで。もう安心して帰れるだろ、ドラえもん

ボロボロ眼差しドラえもんへの思いで溢れていた。

今更僕が解説するのもはばかられるほどの大傑作だ。

成長を描く作り手は藤子先生の爪の垢を飲んで欲しいものである

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