はてなキーワード: 平家とは
田舎に住むと車の維持費がっていうけど、例え都民でも金があったら車持つんじゃないかな。
と、書いていて思ったんだだけど、田舎民だって金があれば山手線駅内側にサザエさんたちみたいな平家に駐車場つけて住むよな。
表現が適切じゃなかった。
都民だって公共交通機関使わずに、自家用車なりハイヤーなりでドアトゥドアしたいんじゃねーかなと。
都内はそれをするのが困難っつうだけで(駐車場が遠いし高いし、出かけた先に駐車場がないし、道は狭いし混むし)、諸問題が解決されるなら。いくら電車で寝れるとか本を読めるとか言ってもだ、そんなの家で寝て家で読んだほうが快適に決まってる。
田舎民だって、狭い家で人混みを歩くのが嫌なだけで、文化資本が近くにあるならそれはそれで嬉しいだろと。
そんだけで。
いい感じで荒れてくれて嬉しい。
アニメ映画『犬王』を観たらなんだこれは宇宙猫が止まらない!! 訳がわからないよ!! これはいっそ原作を読んでみたい、と思って読んだ。
ネタバレはする。
平家が壇之浦で滅んでから百数十年あまり。海士(あま)の一族であるイオの友魚(ともな)は、京の都から来た貴人の依頼で、探し物のために父親とともに海に潜った。そして発見したのは一振りの剣。それは平家滅亡時に喪われた草薙の剣だった。剣の呪いに父親を殺され、自らの視力も奪われた友魚は、どうして自分がこのような目に遭わねばならなかったのかを突き止めるために旅に出た。
一方、京の都では一人の男の子が生まれた。彼は当世で一番人気の猿楽座である比叡座の棟梁の末息子だが、尋常ならざる醜形であったために両親から疎まれ、家畜同然に育った。名もない彼は自ら「犬王」と名乗る。そんな犬王は、稽古場の様子を覗き見ているうちに、比叡座伝来の歩行術を習得。すると彼の身に不思議なことが起こる。これが後に一世を風靡し足利義満の寵愛を受けることになる伝説の猿楽師・道阿弥の第一歩であった。
この物語は、イオの友魚と犬王が出会い、喪われた平家の物語を拾い上げた犬王の物語 、そして犬王の活躍を語り広めた琵琶法師・友魚の物語である。
ちょいとググれば出てくる評判通り、独特の疾走感溢れる文体の勢いが半端ないが、かといって面白いのかというと、うーん、微妙? そして、意外とアニメ版、さして印象が違わないことに驚いた。ある意味監督をはじめとするアニメスタッフ、超優秀だった。
文体の疾走感にあれよと巻き込まれて突っ走るように読んだけれど、疾走感のあるわりにダルい場面が長々とあった。それは、友一(友魚)が琵琶で弾き語る犬王の半生の物語の部分だ。そう、アニメ版でいうとあのロックフェスの部分である!
実はアニメ版の脚本にはロックフェスは無かったのに、監督が勝手に作っていたというロックフェスのシーン。あの場面は、何で同じ事の繰り返しをダラダラダラダラやるのだろう? と疑問だったのだが、原作からして犬王の物語は繰り返し語られるのだ。
前の文章をコピペしてちょっと弄ったくらいに見える文章が数回。これは一つのエピソードを視点を変えて語り直したものなのだけれど、ほんのちょっとしか変更点のない同じような文章なので、またぁ? と飽きてしまった。一つのトピックを複数人の視点で表現する……その最高峰にして最も有名なのは芥川龍之介の『藪の中』なんじゃないかなと思うけど、あれみたいに視る人が違えば見える世界も違うっていうんならともかく、神の目線(誰々寄り)くらいの俯瞰したような視点で何度も同じ事を書かれるのは、読んでて辛い。ちょっとだけ、今まで隠されていた真相が回を重ねるごとに徐々に明らかになっていく。そういう狙いで書かれた文章なのだろうと、意図は理解できるんだが、理解はできても別に面白くないのだった。
アニメ版の方も、何がやりたかったのかは解るのだが、かといって別に面白いとは感じなかった。なんかそこだけダレている。退屈だ。しかし他の部分については素晴らしい技巧で表現されており……全体的に見てつまらないとか駄作とかいうのもまた違うような気がする。中弛みがひどい。そんな中弛みの酷い部分が、原作小説とアニメ、文章と映像という違う表現技法によって造られたにも関わらず、物凄くシンクロしていた。ある意味すごいのかもしれない。面白いかと問われれば、別にそんなには……と私は言うけれど、いい語種にはなると思う、たぶん。
ところで、アニメではロックフェスの辺りで友一も犬王も一体何をやっていて何を歌い表現していたのか、私はさっぱり解らなかったのだが、この原作小説を読んでやっと理解。
ぶっちゃけ、友一のバンドは犬王の広報活動と前座を担当していたのかと私は勘違いしていたのだけど、そうではなかったのだ。友一の弾き語りが犬王の宣伝になる事は確かなのだが、だからといって彼は犬王の前座ではない。友一はただ琵琶法師としての仕事をしていただけであり、弾き語りの題材に犬王の半生を使っていただけなのだ。オレの事を歌えよと言ったのは犬王だけど。
犬王はといえば、当世最高の猿楽座の棟梁でナンバーワンの猿楽師として、新しい曲を書いては自ら舞台に立っていた。
私はアニメ版のロックフェスの場面を見ながら、何でこの人たち、橋の上と河原でそれぞれ別々の活動をしているのかなー? と疑問に思っていたのだが、何の事はない。友一は琵琶法師で、犬王は猿楽師で、彼らはそれぞれ自分の仕事をしていただけなのだった。同じバンドのメンバーでもなく、タイバン相手でもなく、似た者友達のバンドマン(兼作詞作曲家)とミュージカル俳優(兼戯曲作家)みたいなものだった。当然職場は、特別なイベントでもない限り別である。なーんだ。二人とも演者であるだけでなくクリエイターでもあるので、互いに影響を与え合っている。
映像では訳のわからなかった部分が小説ではスッと頭に入る。やっぱそういうとこは小説って強いよなぁと思いつつ、アニメ版のわかりづらさが異常だっただけでは? とも思う。
ところで、最強のバディもの的な言われ方もする本作(原作小説もアニメも)だけど、これってバディものなの? と首を傾げてしまうのは、原作もアニメも同じだった。アニメ版は尺の関係で色々削らずを得なかったのかな? と思ったら、わりと原作忠実だったんだなと。友魚と犬王の友情、とてもあっさり風味。一緒に楽しく過ごす時間もあったのかもしれないが……かもしれないだけで……まあ、二人とも自分のやるべき事をやっているのであり、業種が違うんだから当然一緒行動はしない。どこら辺が仲が良いのかわからないくらい、別々の道を歩んでいた。ので、ラストシーンにあんまり感動しなかったなぁ……。え? 犬王さらりと友魚を裏切ったよね、今更なぜ? みたいな。ここら辺はアニメ版のが膨らませていたので(足利義満により友魚を人質に脅迫された犬王。そんな事があったのも知らず、イオ座のメンバーが次々捕らえられる中で、最後まで抵抗し続けた友魚)、アニメの方が良かったような気もする。
……まあ、アニメと小説を比較しても仕方ないけど、どっちも微妙だし。というか、原作の微妙な部分をすごい精度で再現したアニメともいえるし。
先にアニメ版を見てそれがいまいちだったから原作小説の見方まで辛くなってしまっただけかもしれない。でも読まなければ良かったと思わないし、アニメ版も映画も見る・読む価値なしとまでは思わない。話のネタにはなるだろうし。
ひとつ、アニメ版を観る前に原作小説を読みたかったなと後悔した場面があった。犬王が面を外し素顔を見せる場面だ。凡人が見れば目が潰れ鼻血が止まらなくなるほどの美形……を想像するのを、ジョーカーともデーモン閣下とも獲物を追っている最中の奇術師ヒソカとも言われる厚塗りのフツメンがめちゃめちゃ邪魔してきてつらい!
TVアニメ版「平家物語」 → 映画「犬王」 → 古川日出男の小説「平家物語 犬王の巻」 と見て、ちょっと思いついたことがあるので増田に書き殴る。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
映画版「犬王」では、犬王に取り憑いているのは「平家の怨霊」である。まず平家の怨霊が犬王に取り憑く理由がはっきりしない。
そして物語の前半、犬王が踊りの技を身に着けるたびに呪いが解け、犬王の異形の身体が少しずつ正常に戻っていく、と本人が語っていた。
ところが物語の後半では、平家の逸話を題材にした演目を演じるたびに、呪いが解けて体が戻ることになっていた。この条件もよくわからない。
結局、不思議な呪いを不思議な条件で解いていく、不思議な話になっていた。
ここは、原作小説と大きく設定が変えられているところだった。唯一といっていいほどの大変更である。
原作では、犬王に取り憑いているのは「犬王の父親が殺した琵琶法師たちの怨霊」である。犬王に取り憑くのも当然である。
そして呪いが解ける条件は「犬王が比叡座の踊りの技を身に着けること、または平家の逸話を題材にした演目を演じること」であり、
それらは「犬王の父親がいけにえを捧げて得たものを、犬王が奪い返すことで、呪いのシステムを逆転している」という理由がつけられていた。
でも、なんで設定を変えたんだろう?
ここで「犬王」とは直接関係のない、TVアニメ版「平家物語」のことを思い出した。
原作は同じ古川日出男の「平家物語」現代語訳、アニメ制作も同じサイエンスSARUではあるが、監督が違う。
「犬王」の湯浅政明監督に対し、「平家物語」は山田尚子監督である。京都アニメーション出身の。
そう、「犬王」の物語は、京都アニメーション放火事件を奇妙に連想させるのだ。
「犬王」原作小説では、犬王の父親は、(平家の逸話という)物語を盗むため、琵琶法師(=物語の語り手)を何十人も殺した。
京都アニメーション放火事件では、犯人は、(自分が投稿した)物語が盗まれたと思い込み、京アニ社員(=物語の語り手)を何十人も殺した。
この符合をそのまま映画「犬王」に持ち込むと、犬王に取り憑いているのは京アニ社員の怨霊となり、犬王は彼ら/彼女らを成仏させるため犯人に復讐することになってしまう。
それを避けるために、映画「犬王」では、怨霊を琵琶法師(=物語の語り手)ではなく、もっと無難な「平家の怨霊」に変えたのではないだろうか。
平家の残党が何か言っておられる
それやって平家は滅んだんやで。