はてなキーワード: イメージモデルとは
批判派は3層目が成立すると思うから1と2を組み立てているはず
なんだけれど、僕視点ではこの絵ではとてもOUTと言い切れるような
まあその最大のものは「オタク差別」と「巨乳差別」(用語は嫌い
だけど、一応使う)じゃないかとはさんざんいわれていて、
やつね)根拠材料があるような心理が生まれてしまったというのも
馬の眼氏のついったがいちばんよかった)、初期(10月頃)の段階で
いやこの件TVはまったく関係ないだろうハイ終了といわれるかも
しれませんがまあ聞いてください。
広告(ここでは、一枚絵かつ消費者広告※に限定)に登場する人物って、
どういう人が登場すると思いますか?
ここまでは、商品やその訴求内容が中心になるような人物起用ですよね。
(ほかにもそういうタイプの広告あるかもですが、ちょっと今思いつかない)
で、そうでない、商品を押し退けて人物を中心にする広告手法がむしろ
世の中ふつうです。
そういう広告に登場する人物のことを一括して何と呼ぶか微妙なところですが
ここでは
と呼ぶことにします。
宇崎ちゃんを広告として見ると、5項目に当てはならない。ふつう、アニメ・漫画
キャラクターは商品そのものか、寸劇・比喩表現として出てくることが(3次元と
比較して)けっこう多いんですが、赤十字は「タレント」として宇崎ちゃんを起用した
形になっています(概念的にいうと、2次元世界上で仮想的な宇崎ちゃんを演じている
女優が存在していて、その2次元女優を起用した、という方が正しいかも)。
ま、2次元の話はいいとして、世の中のマス広告、一枚絵でいうと駅・電車内の広告が
で、広告主が大企業だったりするとタレントのグレードも上がって、
何が言いたいかというと、宇崎ちゃんのポスターにダメ出しをした人たちは、
このTVコンテンツが作り出す秩序に世の中の企業や団体が従っているという
構図が心地よく(なぜならそれは自分たちの民意が作り出した秩序だと思って
いるから)、それに反するものなんておかしい、と思っているのではないか、
ということなんです。
赤十字は知名度も信用度もものすごく高いし、低いグレードの「タレント」なんか
使うはずがないと。
これに反して宇崎ちゃんが起用されているっていうことはなにか理由があるはず
→あっエロか!となって、そこから逆算して巨乳もエロ、表情もエロにみえる、
僕もそうだけど擁護派の人たちはTV離れが進んでいて、その感性をぜんぜん
共有できないのだろうと。
今の時代、TVの視聴率もどんどん下がってきて、広告に起用される「タレント」
がTVゴールデンタイムのイス取りゲームプレイヤーで占められなきゃいけない
必然性はどんどん下がっているわけです。
「タレント」起用の広告自体も長期的には減るだろうけど、その前の段階では相対的に
知名度の低い、TV以外の世界で知名度を稼いだ「タレント」も食い込んでくるはず。
で、そうなる有力な候補が、漫画・アニメ発の非実在の「タレント」なのでは
ないかと思うわけです。
2次元アイドルコンテンツなんかは10~20代に相当食い込んでいて、いま知名度を
蓄積しているキャラクターには今後20年くらいにわたってそうとう明るい未来が
待っているのじゃないかと、予想しているんですけどね。
なんでこんな事を考えたかというと、もう去年だけど4月頃?に「声優の顔出しは
是か非か」っていうトピックが流行して、あのときは批判者がアニメ・声優好きな
ようにみえて、それ以上に言葉の端々からTVどっぷりでTVコンテンツの秩序に反する
声優の進出が許せない、という感覚がにじみ出ていて、というのが強く印象に残って
いて、今回も似た構図なんじゃないかと思った、というのがあります。
本稿は、「女性をイメージモデルとして起用することの問題点を考える延長上で
2次元キャラの起用を考える」タイプの批判者を想定してますが、批判者には
「人間と絵は並べられない、純粋に絵として批判している」タイプも明らかに
います。そういう人は宇崎ちゃんポスターを見ても「タレント」には見えないで
(批判の原因が全然別のところにあるこという話をしたので、解決手段も全然別の
ところにあるかもよ、という話もすこししてみよう)
宇崎ちゃんは話題になる数ヶ月前WEBサイトに大量のディスプレイ広告が出回って
ウザイウザイと嫌われていたというのは事実としてあって、ウザイのが魅力
ポスターの批判者に応えるソリューションはなにか?って考えたとき、これは本質的
な解決にはならないけど、webの広告のやりたい放題は変えていくべきだと思うんですよね。
ほんと、あれの不快感の方こそなんとかしてください。
そんな自分の考えは感覚的で厳密じゃないので、何を感じたのか分析してみたのだが、厳密に言えばほしいものがないわけじゃない。どうやら以下のようなことらしかった。
1)日常的な欲求はあるがそれは強い欲求ではない
例えば普段食べてるランチが700円で、1000円のランチが食べたくないか? 食べた時嬉しくないのか? と問われればNoだ。たまには食べたい(そして実際食べる)。
が、それって欲求としてさほど強くもない。「今月はランチずっと700円です!」と言われれば「そうですか」で済んむでしまうようだ。あるいは「自炊して300円で抑えてね」も同様、「そうか」と思う。面倒くささは感じるが、1000円のランチが食べたい! という欲求ではない。
もちろん僕がランチの資金が毎日200円でコンビニおにぎり一個と公園の水であれば、700円のランチに強い執着心を感じるかもしれないが、それは欲求かっていうと空腹であるような気がする。コンビニのおにぎりがどうしてもいやかというとそんなに嫌いでもないし実際普段そこそこ食べているのだ。
自分には、1000円、あるいはホテルの3000円のランチを目指すような強い衝動が存在しない。
同様に、毎週ライブにいきたいとか、毎日違う服を着たいとか、月に10枚は円盤を買いたいとか、そういう日常的な欲求も特にない。
2)遠い地点に望むものはあるのだが理性的に制御できてしまっている
うすらぼんやりと、どこか気候のよい地域のホテルで暮らしたい欲求がある。というか、人生ずっとホテル(とか旅館?)で暮らしたい。これは僕の憧れの生活だ。でもそれって毎日3万円x365日x50年って考えると5億以上必要になるので、現実的ではない。
現実的ではないんだが(絶対に)不可能かというとそれも違う。5億稼ぐ人は日本人に一人もいないかと言えば、それは居るだろう。この年齢からチャレンジする人も皆無だとは言えない。つまり「僕がチャレンジしない理由」にはならない。「そういう生活したいなら努力してみればいいじゃない」は正論だ。そもそも目標額(5億)稼げなかったとしても、より稼ぐ何らかのアクションを起こせば収入が上がる可能性そのものは高い。年収をたとえば+10万するとか、不可能だとは思わない。つまり、努力は無駄にはならないはずだ。
しかし、食指が動かないというのが正直な気分だ。5億ゲットできるならかなり頑張れるのだが、+10万くらいなら別にいいや……という気分なのである。+10万というのは700円のランチが974円になる程度であって、項目1に連結する。つまり1000円のランチをそんなに頑張って食べなくてもいいや、と思う。
厳密にいうのならば「5億の欲求はあるのだが、その実現可能性と労力を天秤にかけて、そこまでして頑張らなくてもいいと思っている」のだろう。それはつまり「そこまで欲求が強いわけではない」と言える。
1,2と考えてつまり欠けているのは中間的な目標なのではないか? というところにたどり着いた。もう少し厳密に言うと「日々のお小遣いで買うことはできず、可処分所得でも購入できず、貯金という行為が必要になるのだが、その貯金そのものは数年~二〇年間程度の中期計画で見通しが立つ程度の買い物」だ。
該当する金額としては500万円~1億弱程度だろうか。
そしてそういう射程に目標物がないのが自分の問題なのだと思う。住処については持ち家を相続したし両親は他界して介護の必要はなく、車には乗らないし。もしこれらに何らかの問題があった場合、金が必要だと思うことになると思うのだが、それは欲求ではなくて困窮だ。
結局、自分は今の自分のライフスタイルでそこそこ満足しているのだ。決して金持ちではないのだが、飢えてるわけでもないし、職がないわけでもなく、日常的なひもじさや寒さは感じていないし、たまに豪華ランチくらいは食べられる。タバコは吸わないし、お酒は飲めるがわざわざ一人で飲もうというほどではない。趣味もあるが莫大な金を必要とするものではなく、むしろ微妙に黒字になる程度だ。
そういう風に自己分析をしたのだが、これって珍しくない日本人なんじゃなかろうか?
僕には「お金を使うロールモデル」がないが、日本全体にもいまそれが欠けているように思える。
テレビと冷蔵庫と洗濯機を買うために頑張ってた僕らの祖父祖母にあった「家電という豊かな生活をする私たち」というロールモデルがない。
車やマイホームをもとめ郊外に一軒家を建てて妻子と共に暮らすという僕らの父母にあった「高度成長期の若夫婦」というロールモデルもない。
それらはそこまで強く望むまでもなく手元にあるし(数万円で安いテレビは買えるし)、あるいは結婚やマイホームというものが「手に入ればそれで幸福になれる保証チケット」ではないということも、周知されてしまった。
若者のナンチャラ離れとか、消費が冷え込んでって、案外こういうことなんじゃないのか?
もちろん僕らがこういう豊かな社会に住めているのは、祖父母や両親の世代のおかげなので深く感謝するし、スマホの無い時代のほうがよかったなんて口が裂けて言うつもりはない。生活のために仕事もしてるし、将来何かあったら困るから貯金もする。
でも、1や2のような思考を経て「パーッとお金を使って幸せになってる自分」が想像できないのも確かなことなのだ。自分にはおそらく「お金を使って幸福になるロールモデル」が欠けている。そしてそれは、日本の若者から中年にかけて、全員とは言わないが、心当たりがある欠如なんじゃないかと思う。
考えてみれば、祖父母の(つまり昭和戦後復興の)「豊かな暮らしのイメージモデル」は欧米からの借り物だった。高度成長期のマイホーム幻想や家族で団らんのイメージもそうだった。
追いかける背中があった。そしてそれは参考書があるというのと同義だった。いま日本は世界有数の先進国となって(少子化という意味では最先端国家だ)、道に迷っている感じがする。日本だけではなく先進国全てがすべて「追いかける背中」を喪失している。「憧れの生活」が見えづらい。
貧しくないし不幸じゃないんだが、ふわふわしたやるせなさはある。
そんなことを考えた月曜日だった。