はてなキーワード: ええじゃないかとは
ああわかった。nanaなんとかの社長は「ネットでかねをかせぐにはどうしたら」とかそんな中学生みたいな視点で会社やってるからあんな反応に困る記事を書くんだな。
オリジナルコンテンツに割けるリソース、時間人手インフラがあるならオリジナルコンテンツでPV稼げるなんて当たり前すぎる話でバイラルどうこうなんて関係ない。
「人手を掛けて野菜を作ったら野菜が売れました、トマトは幾つ、キャベツは幾つです」ってだけの話で、料理と料理人の腕の話(バイラルメディアの話)は笑えるほど全く関係ない。単に収穫した作物と売れ行き結果を発表しただけであって、“今流行ってるバイラルメディアをやるよりも”とか全く意味不明。もしかしたら頭が悪いのかもしれませんね。もしかしたら。
彼は以前から“名物社長”になりたそうな気配がかなりあって、ネットに挙がるプロモやらせ取材記事でもセンセーショナルな持論をぶって注目を浴びたいんだろうけどそれで思い付いたのが、「目的ではなく手段から先に考えないと」とかいう大変にユニークなものであげく「はてなは目的から考えてちゃってるからなー(だからショボい)」みたいなことを平気で公言しちゃうような人物でまあ立派な方ですよね。
“手段から”ってつまりは「稼げればなんでもいい」ってことでそのうえ彼は某金髪元ネトランぶっこ抜き芸人の彼と同じ“コンプライアンスなんかええじゃないかええじゃないか教”の方のようなのでそれって行き着く先は今話題沸騰中のBUZZなんちゃらと大して変わらないだろってゆー。色が白いか黒いかってだけですよね。
しかしながらこんな調子で成り立ってるって事は社員の方々に相当優秀な人材が集まっているんだと思います。本当にそう思う。トップが変われば化けるかもしれませんね(白目
http://blogos.com/article/88464/
「ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ」という文章を読みました。
強い違和感を覚えたので備忘録代わりに書き残しておきたいと思います。BLOGOSのコメント欄だと字数が足りないので。
柴那典氏(@shiba710)の文章は間違っていると思います。
理由は以下の三点になります。
まず第一にアベノミクスが将来への希望を本当にもたらしているのかという疑問があります。
消費税増税や過去の景気状況から国民が景気に対し、継続した右肩上がりの希望的観測を持てるとは思わないからです。
加えて失業や高齢化、原発等、解決しない社会問題も山積する上、庶民の不安はむしろ拍車がかかるのではないかと思います。
つまり人々は楽しさや楽観という価値観のもとに生きていないのではないでしょうか。
第二に日本のミュージシャン(特にメインストリーム)は"カナリア"のような存在ではないということです。
これは楽曲への批判ではありませんが、翼を広げ瞳を閉じ桜舞い散る季節の中で君に出会えたキセキを歌うJ-POPには時代が反映されることはなく、それを許されてもいません。
時代を反映する曲を歌うということはつまり、楽曲がある種の政治的側面を帯びるということです。
現代の日本人にとって音楽の政治性とは最も嫌うものです。よって必然的に時代性(政治性)は排除され、似たような要素を持つ楽曲が量産されることになります。
日本ではSex Pistolsの「Anarchy in the U.K.」もGrandmaster Flash and The Furious Fiveの「The Message」のような楽曲は生まれないでしょうし、また生まれてもチャートの上位に入ることはないでしょう。
そこから導ける結論としては、J-POP等日本の音楽の特徴はむしろ「時代を反映しない」ことにあるのではないでしょうか。
現在の楽曲と10年前、20年前とを比較してそこに主題(テーマ)の大きな変化はあるでしょうか。
せいぜい電話やポケベルがLINEやメールに変わったくらいで、その根本は大した変化はないというのが実情ではないでしょうか。
「いいくらし」「ええじゃないか」等、氏の挙げる楽曲はどれもJ-POPのスタンダード、「励まし系」の枠を超えるものでもないと思います。
これらの楽曲に時代的必然性を見い出すことははっきり言ってできません。
当然それが悪い訳ではありません。繰り返しますが楽曲の善し悪しとはまったく別の話です。
日本のポップミュージックの作り手は、時代の空気を先端で感じている“カナリア”のような存在ではないのです。
第三に「ミスターチルドレンがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」という考察が完全に間違っています。
氏はその代表例として「マシンガンをぶっ放せ」を挙げています。
本当に「ミスチルがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その「マシンガンをぶっ放せ」は彼らの代表曲であるべきです。
しかし、一般人にミスチルの代表曲を挙げてみて欲しいと質問しても「マシンガンをぶっ放せ」と答える人が果たして何人いるでしょうか。
せいぜい「イノセントワールド」か「Tomorrow never knows」か「シーソーゲーム」くらいでしょう(最近なら「しるし」や「HANABI」かもしれません)。
「マシンガンをぶっ放せ」は、出せばミリオンを達成できた時代に唯一100万枚を割ったシングルです。
加えてその曲が収録されたアルバム『深海』は前作『Atomic Heart』から100万枚もセールスを落としています。
私はそもそもミスチルが現代社会の閉塞感を曲として昇華し、それを「売り」にするバンドだとは全く思っていません。
仮に100歩譲ってそのようなバンドだったとしても、本当にその「閉塞感」とやらって「共有」されていましたか?
ちなみに氏の言う「時代の閉塞感を内面化させていたミスチル」のセールスは、CDバブルに沸く世間とは対照的に見事なまでに右肩下がりでした。
アルバム『Q』は遂にミリオンを割ります。
しかし、仕切り直し的な意味を持つベスト盤とそのツアーを挟んでの次作、『IT'S A WONDERFUL WORLD』で彼らは文字通り“蘇生”します。
世の中のCDセールスが頭打ちになる中、セールスは前作から50万枚も回復するのです。
このアルバムからミスチルのメロディーは「ポップで王道的に」、歌詞は「前向きな内容」になり、彼らの得意分野であった「ラブソング」が完全に復活します。
ものすごく簡単に言ってしまえば「ハッピー」な作品になります。
以後、今日までの彼らの方向性はこの延長線上にあります。
嘘だと思ったらアルバムのクレジット欄を片っ端から調べてみて下さい。前作『Q』まで二転三転してきた制作環境やスタッフが、このアルバム以降基本的に統一されます。
この事実が意味するものは、この『IT'S A WONDERFUL WORLD』からバンドが目指す方向性が「確立」されたということです。
しかも氏の言う「時代の閉塞感を共有する」とは真逆の方向で。
その後の活躍は説明するまでもないでしょう。氏の方がご存知ではないでしょうか。
さて、本当に「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のでしょうか?
改めて見てみましょう。
00年代に売れたシングルは上から順に「四次元」「Sign」「youthful days」「しるし」です。
「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その楽曲は社会批判的な世を憂う内容のはずです。
「自分を信じたならほら未来が動き出す/ヒッチハイクをしてる僕を迎えに行こう」(「未来」)
「傷つけ合う為じゃなく/僕らは出会ったって言い切れるかなぁ? /今 分かる答えはひとつ/ただひとつ/I love you/and I love you/and I love you」(「and I love you」)
「繋いだ手を離さないでよ/腐敗のムードをかわして明日を奪うんだ」(「youthful days」)
「ダーリンダーリン/いろんな角度から君を見てきた/共に生きれない日が来たって/どうせ愛してしまうと思うんだ」(「しるし」)
一体このどこを聴いたら「時代の閉塞感を共有している」などという言葉が出てくるのでしょうか。
楽曲の内容は至って前向きなものか、もしくはラブソングの括りに入るものかと思います。
本文の「終末のコンフィデンスソング」に関するミスリードも目を覆いたくなるような酷さです。
本文では「たまに不吉な夢見るんだよ/走っているのに進まない/ひょっとしたら実際に起きてることを夢の中で知らせるメタファーかも」という歌詞のみ引用されていますが、この曲の結末部分はこうです。
「今僕らの目の前で起こってること/楽観も悲観もなく/ちゃんと捕まえたら/足元に落とした視線を/上にあげ/胸を張れ!」
なんと前向きで力強い、ハッピーエンドな曲なのでしょう!
しかもこの曲が収録された『SUPERMARKET FANTASY』というアルバムはリード曲「エソラ」に象徴されるような、とても「カラフル」で「楽しさ」を前面に打ち出したアルバムなのです。
今まで挙げた事例を見て頂ければ分かる通り、残念ながらミスターチルドレンは氏の望むような「ポップソングを通じて閉塞感を共有する」音楽活動は行っていないようです。
仮にそうであったとしても「ポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」ことは一度もないのは明らかです。
このような基本的な事実を踏まえずして「アベノミクスで失われた20年は終わった!これからは楽しさを共有する時代だ!ミスチルという閉塞感を共有する時代の一つの終わりだ!」とか炎上目的のゴシップ誌の見出しのようなことを得意げに抜かすのが、私が日頃愛読している「musica」という音楽雑誌と関係の深いのライターの方なのです。
私は情けなくて仕方ありません。これが「プロ」の書く文章なのでしょうか。
ちなみに同じ筆者が書いた「なぜBUMPは「国民的バンド」になれないのか」という記事も酷いものでした。
願わくばこのような暴論を振り回す音楽ライターが、私の敬愛するミュージシャンと音楽に関わらないでくれと祈るばかりです。
「実名」派の中には「匿名の卑怯者」とかいうTLで流れてきたフレーズをそのまま受け売りして
他人を批判する人達もいるようだけど
「真名」を知られると人のアラをしつこく探してねちねち一日中「脅し」「ほのめかし」「晒し」つぶやいてたがる人達に一端うっかり眼をつけられると
「上中下左右過去未来」関係無く呪われて長期間付きまとわれるので「通名」使用ええじゃないかと思ってますだ
そういうネチッコイ性質の人には法とかあっても効かないの実例知ってるし
「はてな村」嫌っている人のいる前でわざわざ「はてな民」ですなんて名乗る必要もないし
「爆サイ」嫌っている人のいる前でわざわざ「爆サイ民」なんていう必要もないし
「2ch」嫌っている人のいる前でわざわざ「2chねらーです」なんていう必要もないし
「はてな匿名ダイアリー」嫌っている人の前でわざわざ「増田です」なんていう必要はない
名乗りたくなきゃそれはそれでいいんじゃないかな
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/3354031.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/news23vip/archives/3354031.html
http://anond.hatelabo.jp/20110121180032
個人的にはこのご時世に楽観論が口を吐いて出てくるのはすでに逃げきっているか近視的なバカか、精神病んでええじゃないか運動してるかのどれかだとしか思えん。
あの手の騒動は「ええじゃないか」みたいなもので、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。
平野綾に対して本気でどうこう考えてる人間は、全体の1ppmにも満たないと思う。つまりせいぜい1人か2人。残りの大半は騒ぐネタが見つかったので「それ行け!」と一気になだれ込んでるだけ。
どうして「“使えない奴”を減らそう」という方向には向かわないのか
「使えない奴」は、常に社会に一定数存在しているわけです。これを多少なりとも減らそう(というか使える奴にしよう)という方向性が見られないのは、これはもう社会に何らかのレイシズムがあるということですよね。そういう人らは浄化されるべきだみたいな。
というよりも、今の世の中に足りないのは、「使えない奴」を“許容すること”でしょうね。
別に知能指数でも思考パターンでも何でも良いが、普通に頭よろしくない人って人口の半数はいるし、
どこの集団にだって「使える奴」が出てくれば「使えない奴」も出てくる。
生まれ持った性格やら育ってきた環境やらで、もはや変えられない「使えない因子」を持つ人もいる。
「人は変われる!」と頑張るのは一向に構わないけど、もはや変えるのめんどい「使えない因子」を持つ人だっている。
つまり、みんなで「使える奴」になろうってのは、論理的にも現実的にも無理だと思います。
それでも、「使えない奴」を減らすべきだというなら、それは「使える奴」の優位を強調ですることでしかない。
でもね、そんなことはフィルタリングかける方もかけられる方も、みんな知っているはずなんですよ。
だって、そういう頑張り次第で浮き沈みする方がいいと思うから、自分が「使える奴」か否かを気にするんでしょ。
つまり「使える奴」を目指す人は、みんな自分一人は勝ち抜けたいと思ってる。
「使える奴」に優位を認めるなら、「『使えない奴』を減らそう」とか甘いこと言っちゃだめです。
更に言えば、「使えない奴」は使えないんだから、その「使えなさ」においては救う必要ないんですよ。
だって、「使えない奴」が相対的にお金ないのはしょうがないし(資本主義だし)、
「使えない奴」が仕事で自尊心満たせないのもしょうがない(仕事できないんだから)。
でも、「使えない奴」になるって本来はその程度のこと。
一昔前のように、もし「使えない奴」が、周りから呆れられながらも許容されるような世の中だったら、
自分が「使えない」ことをへらへら笑って済ませてしまっていた人達が、今の世の中で苦しい思いをしているのだと思う。
そう考えると、この「使える・使えない」競争しか与えられていない今の世の中が世知辛いんだと。
てなわけで、(使えなくたって)ええじゃないかを起こすしかないですよきっと。
それはそうと、世の中の多くは「使えない奴」だから、実際自分が使えなくても気にしなくて良い気がする。
ちなみに「使える奴」を語る人って、驚くべきことに、「使えない奴」が大半。
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20080906ddlk13040230000c.html
こんなキャッチフレーズで若者中心のグループが6日、ピースウオークを計画している。「9」をあしらった手製の旗を持ち、渋谷の街を練り歩く。
タイトルは「ピースクリエイション96」。千葉市で5月に開かれた「9条世界会議」に参加した約10人が企画した。発起人の一人で武蔵野市の藤井芳広さん(30)は、「生き物の命を大切にする意味では、不戦を誓う9条も、高尾山のトンネル工事や六ケ所村(青森県)の原発関連施設の問題もすべてがつながっている」と言い「民衆運動の原点ともいえる江戸時代末期の『ええじゃないか』運動の現代版を目指したい」
当日は午後3時に渋谷区の宮下公園をスタート。渋谷区役所付近で折り返し、渋谷駅のハチ公前を通って同公園に戻る約30分のコースを予定。
実施すらしていない計画段階なのにわざわざ新聞に取り上げてくれる。ほんと羨ましいよ。どんなテクニックを駆使したのか教えて欲しいよ。
[site:www.amazon.co.jp 新会社法]
ちゅうことじゃないか…。
とか、思わないけど一応フォロー。
ま、通じるからええじゃないか。
許されないって誰から許されないのよ。別に好きにすりゃいいじゃん。身なりに構わず趣味に没頭してたら逮捕でもされるんかい?
大体、男性だって社会人になりゃ身なりをそれなりに整える事は求められるでしょ普通に。フケありまくりで臭くて髪ボッサボサじゃ男女関わらずそりゃ嫌がられる。でも逆に言うと最低限清潔なら別に構わんわけで。
着飾ることが女の仕事なんて一体誰が決めて誰がそうしろって言ったん?そうしないとどうかされちゃうん?
男がそれを求めているとしても、応えてやるギリなんかないじゃんよ。
実際私は没頭してるけど、「許さない」なんて誰にも言われたことはないよ。
htt://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070112/1168601308
へー。地産地消ってのはロマンティシズムなのか。ローカリズム(?)というのがあるのかどうか考えてみよー。
fuku33さんは、売り物に対するレッテルの貼り方みたいなものをみているのかなぁ?
そこからなにがしかを読み取ろうとする体系を作ろうという感じなのだろうか。
いや、なんつーか、立場を把握しないと正確なところ(なにを読み取るべきか)がわからんかなぁーって(ひとり言)
fuku33 幻想商品 地産地消という現象はいろんな文脈で語れると言うことです。どの文脈も排除しませんが、僕は「商品を感情充足の手段として見る」ということです。ローカリズムがその大義名分になることもあります。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070112215710
マーケティングとゆったり、プロモーションとゆったりするものの一種なんだろうか。それをすることによって何を導けるのだろうか。
なんじゃろホイ。革命じゃないけど革命的な進歩が必要なんじゃないか説?
歴史を紐解いてみてもフランス革命然り、ソ連の誕生から崩壊までの過程然り、成功しないのです。ただ成功しないだけならともかく、その失敗という歴史的事実の裏側には無数の無辜の民が蹂躙され、死んでいったという重く苦い経験があるのです。このような経験をしてもなお、急進的な主張をし、その主張を支える理念や倫理観を素朴に唱えている人達に対して私は激しい嫌悪感を感じます。
この論を唱えている方は、いったいどんなトラウマがあるのだろうか?歴史の悲劇は「理念を押し通すことを進歩」と解釈したことに端を発する「理念を押し通すことで進歩する」と信じて行動した結果、革命は失敗しちゃった→なので「理念を前に出してもダメじゃん」と思っているように感じる。
みうらじゅんが言うところのDTというものであり、妄想力が生命力の源となっているというのもあながちいい話。
現代における妄想は「お金持ちになる。」程度のものなのだろう。そのお金持ちになるという妄想は現世はすべからく経済によって回っていて(正確には経済的な認識のみが人類の共通言語)、その上でしかダンスを踊れないというふうに勝手に枠を作ってしまっているんだろうな。
理念というか、いわゆる正義感がなければ行動へと移行するだけのパワーは得られないと思うのだけれどなぁ。要するに、現在話題の「閉塞感」の打破のためには(過去に習えば)革命的妄想が必要なのではないか(と思ったり思わなかったり)
http://anond.hatelabo.jp/20070113024605
生活必需品以外なんて、これをもってる私カッコイイ!と、これを買ってあげてる私カッコイイ!の、どっちかでしか買わない。
たぶんfuku33さんは、キュウリやコークを買う際にもその「カッコイイ!」という感情のようなものを当てはめたとしたらそこにはどういう感情が入るのだろうか?って考えているんだと思います。さらにもっと踏む込むと、それらの感情を整理・カテゴライズすると経済や人の動きをこれまでと違った目線で見れるのではないか?新しいマーカーを社会に設けることが出来るのではないか?と考えているのではないでしょうか。新しいマーカーで社会を追うと新しい説が生まれるのでしょう、きっと。