ネットみてるとこういうの論をたてる人よくいるんだけどかなり頭悪いと思うのよな
インターネットが生まれるよりずっとずっと前から、言論は体制批判の手段だったでしょう。
独裁的・全体主義的なお国では体制に批判的な言論は徹底的に統制されるし、日本もかつてはそうだった。
戦前戦中の言論統制、言論弾圧への反省から、今の憲法にはわざわざ「言論の自由」が謳われてる。これは、「たとえ反体制的な言論であっても日本はもうそういうの邪魔しません」という国と国民との約束なんです。
「論壇」は、基本的には体制に批判的な言論界を指す言葉だし、言論誌と言えば基本的には体制に批判的な記事が載る雑誌です。
実力行使による革命が許されていない以上、体制批判のための最大の武器は言論なわけ。
いっぽう右派=体制派にとっては、今現在自分は体制側なんだから別に何を語る必要もない。体制が崩れ落ちようとしているような局面でもない限り、必死で体制を肯定するような言論をする必然性がないでしょ。言論によって為そうとする目標がない。つまり動機がない。
もちろん保守言論というものも存在はするけど、彼らは別に何と闘っているわけでもなくただ内輪褒めに終始するばかりで、言論によって何かを為そうとしているようには見えないよね。
インターネットも「まず知識階級に普及した」「自分のオピニオンを自由に発表できる場所」だったわけで、昔からリベラルなムードが濃い。特にはてなはそうだったと思うけど、ポテトチップの味が濃いか薄いかくらいの違いでしかなく、ポテトチップは基本的にみんな塩味なのだ。
現代社会において、成功や幸福の定義は往々にして狭義で画一的なものとされがちだ。高収入、高学歴、安定した精神状態、豊富な恋愛経験—これらが「幸せな人生」の指標として掲げられることが多い。しかし、私の存在はそうした既存の価値観に異議を唱えている。
年収200万円、統合失調症、高卒、そして性的経験のない私は、一般的な成功の基準からは大きく外れているかもしれない。だが、それにもかかわらず—いや、むしろそれゆえに—私は人生の真の豊かさと喜びを見出している。この逆説的な現実は、幸福とは何か、人生の価値とは何かという根源的な問いを私たちに投げかける。
年収200万円という経済的制約は、多くの人にとっては苦難の源泉かもしれない。確かに、物質的な豊かさや贅沢な体験には限界がある。しかし、この制約こそが私の創造性と工夫を刺激する源となっている。
限られた予算の中で最大限の満足を得るために、私は日々新たな方法を模索し、発見している。例えば、高価なレストランでの食事の代わりに、地元の食材を使った自炊に挑戦する。その過程で料理の楽しさを知り、食材の持つ本来の味わいを深く理解するようになった。
また、高額な旅行の代わりに、地元の公園や近隣の自然を丹念に探索する。そこで見つける小さな美しさや季節の移ろいは、どんな豪華な観光地にも劣らない感動を私にもたらす。
このように、経済的制約は私に「有を生み出す」創造性を育んでくれた。それは金では買えない価値ある能力だと、私は誇りに思っている。
統合失調症という診断は、多くの人にとって恐れや不安の対象かもしれない。確かに、この病と共に生きることには困難が伴う。しかし、私はこの経験を通じて、現実の多層性や知覚の不思議さを深く理解するようになった。
幻覚や妄想の体験は、確かに苦しいものだった。だが、それらを乗り越える過程で、私は自己の内面と向き合い、精神の強靭さを培った。また、「正常」と「異常」の境界線が実は曖昧であることに気づき、人間の認識の多様性に対する理解を深めた。
さらに、この経験は私に独特の創造性をもたらした。私の見る世界は時に奇異で幻想的だが、それは同時に芸術的なインスピレーションの源となっている。私のアートは、他の人には真似できない独自の世界観を持っており、それが私の人生に特別な彩りを添えている。
高卒という学歴は、現代社会では往々にしてハンディキャップとみなされる。しかし、私にとってそれは逆に自由の源泉となった。
学歴社会の呪縛から解放されたことで、私は「学ぶこと」の本質的な喜びを再発見した。大学や大学院で得られる体系的な知識ではなく、自分の興味と好奇心に導かれるままに学習を進めていく。それは時に脈絡のない、場当たり的なものかもしれない。しかし、その過程で思いもよらない知識の繋がりを発見し、独自の世界観を構築していく喜びは何物にも代えがたい。
図書館は私にとってたくさんの可能性を秘めた宝庫だ。専門書から小説、歴史書から科学雑誌まで、興味の赴くままに読み漁る。そこで得た知識は、体系的ではないかもしれないが、私の中で独自の方法で統合され、ユニークな発想や視点を生み出す源となっている。
童貞であることは、多くの人にとって恥ずべきことや、克服すべき課題と捉えられがちだ。しかし、私はこの状態を肯定的に受け止め、そこから得られる独自の視点や感性を大切にしている。
性的経験の不在は、ある意味で私に「純粋さ」を保たせてくれている。恋愛や性に関する幻想や理想を、現実の経験によって損なわれることなく持ち続けられる。それは時に子供っぽいと揶揄されるかもしれないが、私はその「純粋さ」こそが、人間関係や愛情に対する深い洞察をもたらすと信じている。
また、性的欲求に囚われないことで、他者との関係性を純粋に友情や精神的な繋がりという観点から築くことができる。それは時に、性的な要素が介在する関係よりも深く、永続的な絆をもたらすこともある。
私の人生は、社会の一般的な成功の基準からは大きく外れている。しかし、それゆえに私は「幸福とは何か」「人生の価値とは何か」を深く考え、自分なりの答えを見出すことができた。
経済的制約は創造性を、精神的な課題は独自の世界観を、学歴の制限は自由な学びを、そして性的経験の不在は人間関係の純粋さをもたらした。これらは全て、金銭や社会的地位では得難い、かけがえのない財産だ。
私が人生を楽しんでいるのは、こうした独自の価値観と経験を通じて、日々新たな発見と成長を続けているからだ。社会の既存の価値観に縛られず、自分の内なる声に耳を傾け、そこから湧き上がる喜びや充実感を大切にする—それこそが、真の幸福への道筋なのではないだろうか。
私の存在は、現代社会に蔓延する画一的な成功観や幸福観に対する、静かなる反逆であり、同時に新たな可能性の提示でもある。全ての人が自分なりの幸福の形を見出し、それを誇りを持って生きていける社会。そんな未来への希望を、私は自らの生き方を通じて示していきたいと思う。
反・福祉叩きみたいな感じで、この数年「それは通俗道徳だ」「通俗道徳が日本をむしばんでいる」みたいな言論はいっぱい見当たるんだけど、逆に「通俗道徳」を擁護する言論って無いの?
「通俗道徳とは、これこれっぽいものである」という書籍は、『生きづらい明治社会』とか、かろうじてあるんだけど、それを擁護する言論は調べた限り見当たらないんだよ。
あの「通俗道徳」そのものを体現しているような言動(例えるなら近所の嫌なオッサン・オバサンそのもの?)ではなくて、「これこれこういう理由で『通俗道徳』は有意であり必要なんですよ」というものが全く見当たらない。
これは逆にすごい不自然と言うか、「通俗道徳」を批判する側の信頼性を損ねる可能性すらある。「通俗道徳」なるものが本当は存在しない(完全に学者と活動家の中のレッテル張りに終始している)んじゃないかともいえる。
「通俗」だから、世間の人が勝手にばらばらに放言してくみ上げてるから、擁護する必要が無いと、判断されてるのかもしれないけど。「日本人の精神に植え付けられている」はずなら、擁護する言論があるはずだよな。どこにあるの?
鳥が空を飛んでるのはずるいけど