知らないあいだに8kg痩せていた。
単に金がなく飯が食えない日が続いていただけで特にダイエットはしていない。
お菓子を食べたりカップ麺を食べたりとにかく健康に悪いことばかりしたから単に糖尿病なのかもしれない。肌荒れがひたすら酷い。
それはさておき、8kgも痩せたら当然気づくものだと思っていたのだけれど、全く気付かなかったので驚いた。
ちょっと痩せたかな、とは思っていた。きつかったズボンが普通に入るようになったから。でもせいぜい3kg、多くとも5kgは減っていないだろうと思っていた。
というかむしろ太ったんじゃないかすら思っていた。お菓子ばっかり食べて運動も全くしていなかったから。ズボンの方が伸びたのかもしれないし。
気持ちは分かる。私も既婚男性40歳結婚9年め。結婚してから、というよりはここ2,3年かな。まだ嫁さんとのsexはあるのだけれど。
英雄、色を好むと申しますからな。ある程度成功してくると他の女性に目が行ってしまう、という事では?浮気するほどじゃないが...
ブコメより
社会的互助って奴がそーゆー単相の一対一だけで成立してるわけじゃないことぐらい分かれや お前は性格やルックスが悪いんじゃない、アタマが悪い
正論だけど的を外している。
元増田はその社会的互助の輪から自分が締め出されているように感じている、というより、信じている。
その確信の下、功利的に考えれば、自分への見返りの無い社会的互助に献身することを拒否するのは、合理的だ。
こんなやつでも、出生前は散々優しくされただろうに。
これ字面どおりに受け取るなら、元増田の母親が実際に社会的互助の恩恵を受けたかどうかはわからない、と答えうる。
が、このブコメの指摘するところはもっと深く、元増田も社会的互助の恩恵を受けているはずなのにそれに気付けないだけ、という点だろう。
電車というシステムひとつとっても、譲り合い等の社会的互助が働いているからこそ、円滑に動いているところがある。
もし皆が社会的互助を拒否したら、駅は今よりももっとずっと諍いの絶えない場所となっていることだろう。
元増田は、電車を利用するに際して、しょーもないケンカに巻き込まれずに済んでる、という点では、社会的互助の恩恵を受けてる、と言える。
世の中は割と、その場に居合わせた人間の善意だけでうまくいっている場面が多々ある。
が、元増田にはこう言っても信じないだろう。
自分の置かれている境遇が最悪だと信じ込んでいる者に「もっと酷くなる可能性を考えたら、今はまだマシ」という指摘は、何ら救いにはならないから。
金銭的であれ、制度的であれ、政治・社会が彼らの境遇を改善しようという態度を明らかにすることによってのみ、彼ら彼女らの不満や不安を解消できる。
君とはどっか行ったりデートしたりするのが目的で、セックスが目的にはなってないから」
「あ、友達以上恋人未満ってやつ?」
「そうだね〜」
「うーーーん、無い。言葉でこう!ってのは無い。」
「あー、めんどくさくないかどうかとか?」
「それも、ある!」
「ははは、私、めんどくさいこといわないもんねぇ」
「ねぇ、好き」
「んー」
「好き?」
「…好きだよ!」
「うそ」
「うそじゃないよ」
「貴方は、皆のことが好きだもんね」
「あはは」
「大好き」
「ん」
「あはは」
「私、彼氏出来るかな」
「出来るんじゃない?」
「あのさぁ…、私に彼氏できたら、寂しくないの?」
「あはは」
何て言われたか覚えてないや
好きすぎてしんどいーとか付き合いたいーーーとか、それすら超えちゃった
思いっきり告白して思いっきり振られてるのに、何故かずーっと続くの
悪い夢かな、こんなに幸せなのにね
本当はもう二度と会わないべきなんだろうけど、やっぱり会うと楽しくて楽で好きなんだよねえ
私の気持ち全部分かっていて、こんなことするんだもんね、本当に酷い人だ
そんな彼を好きな私は真の大バカ者だ
どこからやり直せばいいかな
今回は、論理関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
うーん……魚がそれを疑似餌だと分かっていようがいまいが、釣り人にとってはどちらでもいいことなんじゃないかな。
「下手糞な釣り方だなあ」、「出来の悪い餌だなあ」と魚が言ったとしても、そんなことを釣り人に言っている時点で竿にかかっているわけで。
その魚は釣られていないつもりなのだろうけれど。
釣り人にとって一番嫌なことは魚に餌だと指摘されることじゃなくて、竿にかかりもしないことだと思うぞ。
自分と馬が合わずに付き合い無くなったり数回しか会わなかった人と、
今も付き合いが続いていたり何度も会うようになった人。
ふと考えてみたら前者の大半は中・高卒、一部だけ専門・短大卒で職場も転々として長続きしない感じで、
後者は殆どがそれなり以上の四大卒・院卒でそれなりのポジションの人が多いってことに気付いた。
馬が合わなくなったのもバレバレのウソでドタキャンやらこちらが損するだけの予定変更を繰り返したり、
人によってあからさまに態度変えたりとか最低限の礼節に欠けてるパターンが多くて、
そういうのやめてねってやんわりと伝えるけど大体が逆ギレかあとで陰口叩かれる感じ。
(その大半がサバサバ系とかデキる人間を自称してて、相変わらず何かの集まりやらSNSで人生論講釈したり、
未だに何年も前にやんわり指摘したことについて都合いいように捻じ曲げて被害者として陰口叩いてるらしいけども)
もちろん今付き合いある人だってウソの理由で予定変えてたり陰口も叩いてるかもしれないけど、
そんなバレバレじゃないし予定に穴開けた分の補償は何かしらするし、そもそもよっぽどのことがなきゃドタキャンはしないし、
陰口だって相手の耳に入る可能性がある範囲では叩かないだろうしね。
常識力というかコモンセンス的なものは育ちとか周囲の環境の方が与える影響は大きいんだろうけど、
やっぱ傾向としてそれなりのとこに進学する知識を養える環境にいた人のが育ちが良いってのはまあ今更な話か。
やっぱり努力はしておかないとあとで死ぬほどみじめになるからね。もう惨めで悲惨な状態かもしれないけど今日からやろうよ。ムリしなくてもいいから、すこしずつやってみようよ、ハードルを下げて。結局最終的にはやるだけやってああ、くいは無い、といいながらも一般庶民として生きるわけだけども、やれることをやっていないと今を生きるの楽しくないだろうに。壮大な暇つぶしともいえるこの人生を自分なりに意味のあるものにしようとするならば、やっぱりできないことができるようになって進んでいくこと、それは決して人と比較してということではなく
とはいえ、やりたくないことを無理にやっても続かないしそもそもやる意味や価値がないからやらないんでしょう。だからやりたいことをやってください。やりたくないことをやろうとしているのであればじっくりと検討してください、本当にやる意味あるのか?とね。失敗してもボロボロになってもいい、進めているのだからムダじゃないし
前に進んでいる今、今日一日、この一時間、この瞬間に大きな意味と価値があって積みあがった結果自体には何にも意味がないのかもしれないね
ネットを巡回しているとよくメンタルの不調を訴えタイトルのようなことがよくつぶやかれる。ダイレクトではないにせよ、頻繁に見かける。まあ、死ぬまでいかなくても非常にネガティブでドローントしている。ブログを書いている人たちのうちほぼ全ての人たちがメンタルに問題を抱えているように見受けられる。
自分はブログを書かないものの、たまにそうなるのだがそのときにどう考えているかを分析してみた。まずは自分の理想と刷る姿と今の現状との比較を無意識にして、そのギャップに苦しんでいることがあげられると思う。
よりよく生きたいという強い欲求の裏返しが「死にたい」という言葉に表れているのだかららなんとも皮肉なものだ。こうありたい、でもダメだから死にたい。うまくいかないから死にたい。完璧主義であったり神経質な人がはいりがちな鬱の状態はこういうことになりがちだと良く聞く。まあそうでない人でも死にたいと思ってしまうことはあるのかもしれないけれども。
どいうことはだ。こうありたいという考えがなくなればよいわけだ。そうでなくても生きていける。うまくいいかなくても生きていける。
そもそもそうでないといけない理由は何だろうか?厳しい毒親の刷り込みだろうか?理想的で観念的になって妄想の世界で生きているだけの話なのではないだろうか。
だめな自分を受け入れてだめでもよいから今を生きて、ほんの少しの進化と休息を繰り返す、
それでいいのではないか。いったんは諦めるところから全てが始まるのだと思うよ、焦らなくていいよ
とはいえ、努力してだめでした、というのと努力もしないで後悔するのとでは全く事情が異なる
諦めて小さな努力を毎日重ねて、それでありのままの結果を受け入れていたってふつうのどうしようもないありふれた人だって受け入れる、それでいいんじゃないかな
つづき。つまるところ換言すれば承認欲求とのつきあい方ともいえよう。おおきく注目され拡散されることで脳内麻薬が分泌されるわけだが、ここいらにとらわれて書きたいものが書けなくなるのは本末転倒で本来の目的から大きくはずれることになる
こんぽんのもんだいとしては良い記事を書いて超スピードでそれなりの人数拡散したとしても必ずしもトップページにたどり着けるわけではないという問題がある、厳密にはたどり着けるものとたどり着けないものがいるということで、これはやっぱりどうにもこうにもすさまじいストレスがかかる。これは機構の問題なのでどうしようもないわけだが精神衛生上非常によろしくない
これに尽きる
ぶっちゃけ思うが最近収入格差が尋常じゃ無いよな?天と地ほどある
親が金持ちのヤツはまともに大学まで行けていい企業に就職しいい女を手に入れ家庭を持てる
更に金持ちの親を持つヤツは家庭の他に別のいい女を囲い楽しんでいる
しかし親がそうでも無いヤツは高卒、適当な専門卒でバイトか派遣
なんでこんな社会になったんだ
好きなことを書きていきたいという欲求がありながらも読者を過剰に意識することでそれが制限されてしまうのは悲しいことだ
何故ブログを書くのか?まずはビジョンを整理するのが大事だと思う 僕がブログを始めたきっかけは自分の成長のためで自分の課題悩み書物から学んだことや過去の経験の整理やらいろいろあるけれども、言語化して文章化することで記憶と記録に残しその過程で思考を整理する
書いている過程で新たな発見が沸いてくるわけでそれが自分にとって新たな一歩に繋がる。書く過程。これが一番大きいのかもしれない。はてブやFeedlyやPVが欲しくないと言えば嘘になるがそこに照準を定めて書くのは本末転倒というか貴重な人生がムダになる それらは後からついてくるものでありそこを獲得するために労力を費やすのは本末転倒になってしまうなぁ