はてなキーワード: 紐帯とは
私が純真すぎるのかもしれませんが、最近聞いた話が軽くショックでした。
ニコニコ動画などにあがっているMADと呼ばれるもののうち、結構な割合で業界側の人が作っているものがある、ということでした。
そういう形で人気の動画が生まれて話題になると、売り上げに影響するのだそうです。
最近はニコニコをあまり見なくなりましたが、それでも「世の中には無駄な時間を割いて面白い物を作ってくれる人がいるなあ」と
喜んで見ていた時期もあったので、めちゃくちゃびっくりしてしまいました。
いまは何が人気なんだろうと思って、サイトに行ってみると、ああたしかにこれは流行りを作ろうとしているんだなあっていう動画が散見されました。
はてな界隈では最近タイトルにPRを入れるかどうがで議論が起きてましたけど、それに通ずるところがあります。
でも、業界人が作っててもある意味ただのファンアートだし。(権利侵害はさておき。。)利益を求めて動画作って人気になるなら、それはそれで凄い。
嫌儲ではないはずなんだけど、もやっとしています。好きで作っている人のなかに、目的と動機が違っているものが入っている。
【追記】
>さらにいえば、宣伝用に関係者がMAD作るから嫌悪感っていうのは
>アマチュアが趣味で作りました、金儲けは一切考えていませんと本人が言ってるわけでもないんだから
>ただの潔癖症
アニメ業界は斜陽だーってずっと言われていて、今もボロボロになりながら作っている人が居るわけですから、
暇のある人が少しでも宣伝するためにMAD作っているっていうのは、応援したいところもあるわけです
趣味でやってる人たちばかりだったと思っていたけれど、そういう作品が好きっていう気持ちだけで回っている場なんてなくて、
本当はそれぞれがそれぞれの動機でやっているだけ、それが一つの紐帯みたいに見えていただけ
そんなことに気づいて、私はあまりに純朴でしたというお話です。。
ステマじゃん?って人もいます。どうなんですかね。人気の動画にならなければそんなに影響あることでもないでしょうけど、
ステマって言葉自体ちょっと定義が分かりません。お金もらって宣伝してたらステマにあたるけど、ただ無償で作ってたらステマにあたりますか?
旧陸軍の、殊に青年将校の精神性が強く残っているのはミャンマーである、と説いていた教授なら知っている。ってか師事していた時の余談で出てきたんであるが
*まあ、こんなところで言っても信じられないだろうが、至極真っ当な(左派から見れば、リアリストであるがゆえに軍国主義者と罵られるだろうが)先生です
曰く、見よ血縁でも地縁でもないにも関わらず存在する鉄の紐帯を、農村に対する厚遇を、裏切り者や内ゲバがの少なさを、さらに(比較すれば、ではあるが)蓄財も少ないではないか、と。あれこそがある意味で旧軍の青年将校が求めた道であったと。
んなわけあるかい、と思ったが問題はあるにせよ割にすんなり民政移管に政権交代を許したことは、何かしら特殊なものを感じる。そもそもああいう体制で、保証があるとはいえタン・シェがちゃんと身を引いたというのは確かに驚異的な話ではある。
なお、軍の行進様式は旧軍に似ている。これは曰く「泥田の中を歩くためのモノである」という。確かに稲作国家ではあるが・・・。
個体としてのおじさんは別に興味ないけれど、群体としてのおじさんにたまらなく惹かれてしまう。おじさんコンプレックスではなく、おじさんCOMPLEXコンプレックスをひそやかに抱えている。
『水曜どうでしょう』、『相棒』の5課、『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』クルー、『シンゴジラ』の閣僚(余貴美子は広義のおじさんだと思う)、・・・、挙げればきりがないが、「わぁ~、やってる。たのしそう、よくわかんないけど楽しそう」という感情が湧き上がってWhat a lovely day!ってなってる。
一方で、「ん?こういうの好きなんやろ?どや?」みたいな姿勢が透けて見えるものは嫌いなのかもしれない。テレ東の『バイプレイヤーズ』は狙いすぎてて無理だった。あと、はてな村はおじさんコミュニティだと思うけど全然興味ない。きもい。
私a.k.aおじコン的には、上司部下や仕事相手など個人的紐帯によらないドライな関係性の中に、ゆらゆらと見える友情や信頼に対して萌えているのだと思う。立派な社会人であるおじさんへの尊敬と、ホモソーシャルへの憧憬。同好の士がいたらおすすめのおじさんコンテンツを教えてください。
未熟未形成な自我のセキュリティホールが生むただの承認欲求処理。
人間を道具として使用した精神的自慰行為であり人間関係における迷惑行為。
生涯においてつがいと非常に強い紐帯を結ぶことで知られる雁の仲間において、
「つがい」を失った年配の雌の雁が同様の行動をしたことが観察されてるね。
その雌は、相手とまともにつがいを結ぼうとする若い雄と次々と「偽りのつがい」を
結んで取っ替え引っ替えして、あたかも性的なからかいをする妖婦のようだったと
その観察をした動物行動学者は記述している。その雌が最終的にどうなったかが
知りたければ、その学者の本を読むといいよ。
本当は好きではないのにアニメや声優やゲームでキャッキャしてるフリをしている人はけっこういたのではないか。
現実においても自分の精神にアドレスが記入され、オタクというレッテルを貼り、それをアイデンティティにできたから。
二次元文化は、世の中に夢中になれるものがなくて、誰ともつながれない僕らの最後の居場所だった。
本当に好きな”真のオタク”の周りで、必死に付け焼き刃の知識をつけながら分かった風な顔して頷くしかない。
リア充のまわりに必死にしがみついてる、擬態した偽リア充を”キョロ充”と呼んだけど、同じように僕らは”キョロオタ”だった。
僕らキョロオタはお互いに心の目配せをしていた。
「わかっているよ、君も同じだろ」。
でも、この10年くらいで、二次元はライト層を大量に呼び込むようになった。
ライト層は、ものすごく器用に二次元を楽しむ。二次元で本当に素直に笑える。
人にも公言できる。アニメのグッズを身に着けて、堂々と町を歩ける。
彼らはなんて楽しそうなんだろう。
そのことに気付かされた時にお祭りは終わった。
祭りの隅っこではにかみながらお互いを確かめあえた仲間たちは人混みに攫われて消えた。
今の僕に居場所はない。
僕が勝手にそう思っていただけで、居場所なんて最初からなかったのかもしれない。
二次元がテレビで取り上げられ、市民権を得ていく光景をどこか誇らしく思っていた00年代が懐かしい。
自分が世界に承認されたように錯覚できたあの頃に、僕と世の中をつなぐ紐帯は擦り切れ始めていたのだなあ。
今はもう二次元に興味がない。
それは僕にとって世の中にも興味を失っていることを意味している。
ドラえもんじゃないけれど、僕は世界から1センチだけ浮いている。
つなぎとめる何かが欲しい。でもそれはまだ見つからない。
恋人でもいれば違ったのかな、と思うこともあるけれど、すぐにそれを打ち消す。
二次元への態度と同じように、僕は猛烈に燃え上がることが出来ず、恋に恋することしかできないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130223193210を読んでも、この人が死刑に「賛成する理由」はさっぱり分からない。
そんなオレが、死刑賛成派の考える「死刑の合理性(あるいは正しさ)」とはどのようなものか?について考えてみた。
→ 確かに、死刑が執行されれば「再犯率」はゼロだ。だがこれは、「死刑が生んでいる犯罪」をカウント対象としていない。死刑の根底に「目的があれば殺人は許容される」という思想がある以上は、死刑が間接的に殺人者を生み、「別の人間による殺人など凶悪犯罪の再生産」を生んでいる可能性を明確に否定できない。
→ これに対して「死刑がない場合に増える犯罪をお前はカウントしてないではないか」という反論が想定されるが、過去、死刑を廃止した国で、死刑を廃止したことで犯罪が増加したというデータはない。一方「死刑になりたくて無差別殺人をやった」とうそぶく殺人者は多い。たとえば下記。
2013.2.21 産経新聞より
「死刑になりたい。生きるのがいやになった」。死刑が執行された金川(かながわ)真大(まさひろ)死刑囚(29)は1審判決前の平成21年6月、水戸拘置支所(水戸市)で産経新聞の取材に応じ、早く死刑に処されたいという心中を吐露。「自殺はどんな方法であれ、自分の体に痛みを加える。そんな勇気がなかったので殺人をした」と話し、最後まで反省の言葉はなかった。…
2「コスト」
→ 無期懲役で囚人を何年も養うためにお金をつかっていられない。死刑にすれば金がかからない、と思っている人は多い。しかし、「死刑 コスト」で検索をかけてみれば分かるが、死刑制度があるせいで社会に多大なコストがかかっているという面もある。「コストが高い」ことを理由の一つとして死刑制度を廃止する国や地方もある。
米国では、死刑復活が認められた1976年以降、今年9月末までに計1228人が処刑された。先進国の中では最も多い数だ。それでも、死刑をめぐる論戦は、司法や立法の場で続いている。
その中で、最近新たに浮かび上がってきた論点が「コスト」だ。死刑を維持した方がコストがかかる、というのだ。
米国の50州のうち、死刑があるのは35州。76年以降、2州が廃止した。2007年に廃止したニュージャージー州では、コスト論が決め手の一つになった。…
3「無期懲役なんて10年程度で出てくる甘い刑罰。それ以上の極刑を望むのが市民感情」
→ これは明確に虚構。無期懲役について調べれば分かるが、日本の「無期懲役」は、海外の「終身刑」とほぼ同じ基準で運用されている。「懲役200年」とか、ばかげた数字を付けないだけで、単に「いつ出られる」とも出られないとも本人には示さず、しかし、いつまでたっても仮釈放が認められない囚人は存在する。
参考:http://www.excite.co.jp/News/bit/00091211882686.html?_p=all
4「復讐」
→ これは、唯一「感情的には」理解できる。あくまで「被害者と感情的に強い紐帯で結ばれた人間」が抱く感情として、「復讐」は、古今東西を通じての極めて強い人間的感情だからだ。理性を社会の基盤としてない時代や社会の下で「死刑廃止」を主張し実現するのは無理だろう、とは自分でも思う。だが、近代以降の社会において、なお、このような強い「感情」を社会の運営の基盤に置くのは危険過ぎる。「感情」を無視して社会が運営できるとは思わないが、「感情」を理性によって克服しようと努めてきたのが、過去100年の世界の歴史であり、現代社会は、そのことを無視して後戻りする状況にはない。
→ もちろん、「日本社会は、現実問題として理性を基盤とした社会ではないから、死刑存置はやむを得ない」という主張には、それなりの説得力がある。だが、それはあくまで「現実論」であり妥協であって、思想として死刑制度に賛成するか否かということとは別のことだ。この点に基づく死刑賛成派は、自分が「死刑のある社会が理想的で素晴らしい、望まれる社会」だと考えているのか、それとも「今の日本の社会の下では死刑存置はやむを得ない」と考えているだけでその先にある「死刑制度自体が是か非か」について考えることは停止しているのか、再度自問すべきではないか?
なお、元増田が書いている「国家による殺人」に関することは、サラッと流せる話ではない。国家に自国民を殺す権利はあるのか?について、元増田はどの程度、思考を巡らした上で書いているのか?
では、犯罪者は「犯罪者」だから殺していいのか? では、「犯罪者か否か」は誰が決めるのか。国家だ。つまり国家にとって死刑制度は「殺したい国民を殺せる」手段だということになる。
元増田は「国家は国民が運営してるんだから、いいじゃん」と思っているのだろう。つまり「国家が国民のためにならないことをするわけないよ」と思っているのだろう。平和な考えで、大変結構だ。しかし残念な思い込みでもあると申し上げておこう。
申し訳ないが、オレは単なる「システム」に、そこまで全幅の信頼はおけない。システムはただの「道具」に過ぎない。それを使う人間によって、善なる結果も悪なる結果も引き起こす。従って、システムは、多少危うい人間がそれを握ってもヒドイ結果は引き起こさないように設計する必要があるのだ。元増田が、いかなる政治思想を支持しているかは知らないが、自分から見て全く反対の政治思想が流行し彼らが政権を握ったとき、自分が「粛正」される側に回らない自信は本当にあるのか? それとも「常に強者にすり寄る」主義であるか。それでも、コウモリ的存在は、いつなんどき「裏切り者」として粛正されるか分からないわけだが。
以上の観点から、オレは「可能な限り近い将来に死刑は廃止すべきだし、そのために、一日も早く日本社会が感情よりも理性で運営される社会となるよう、関係者は努力すべきだ」と思っている。
すごくよくわかる。
否定ばかりされてると、消耗してしまう。自分では悪いことをしてるつもりがないのに否定されるなら、なおさら。それに加えて、自分でも自分を否定していくようになると、地獄だよね。自分が生きていることに価値を感じないのに、それでも毎日生きないといけないなんて辛い。それでも精神のバランスを取るために、「どうでもいいんだ」と感受性を麻痺させざるをえない面もあると思う。
でも、世の中みんなが芸能人や恋愛やテレビ番組にもともと興味があるから、それらについて話しているとは限らないと思う。個人差はあるけど(そもそも、「自分が関心ない話題を振られる、だから何? 楽しんでるフリしてテキトーに合わせちゃう」というのが苦にならない人もいる)。
「普通」っていう枠におさまることを重要視する人々にとって、テレビなどのメディアが提示する「恋愛は楽しいからどんどんするべきだよー」とか、「こういうアイドルが流行りだから知っておくべきだよー」というメッセージは、普通に生きるための道標なんじゃないかな。だから、そういう話題になりがちだし、無意識のうちに相手にも、そのメッセージを押し付けてしまう。本当は、そういうメッセージを他人にぶつけて傷付けていいなんて正当性はないと思う。まあ、単純に、当たり障りのない話題だからついつい振っちゃうこともあると思うけど。
特に大学では、同じ学年でも年齢が違う、出身地が違う、と共同体的な個人間の紐帯が弱まるぶん、普通であることで人とのつながりを維持しようとする働きが強くなるような気がする。そうでなくても、「普通」に属して安心していたいという感情は、程度の差こそあれ多くの人が持つと思う。
で、みんな集団から浮かないように、心から納得してアイドルの話とかしていられたらいいんだけど、そうじゃないから元増田に対する風当たりが強くなるのではないかな。
高橋源一郎さんが書いてましたけど、「誰にも言えない私の秘密」というお題で作文を書いてもらったところ、学生さんたちの40%が「友だちのふりをしているけれど、ほんとは好きじゃない」が「絶対に口にできない秘密」だったそうです。あら~。
このツイートを読んで、思ったんだけど、テレビ番組とかお笑い芸人とか、そういう話題にノリノリになって話してるように傍目には見えても、「実はあんまり興味ない。でも周囲から浮かないためにはこういう内容を話すべき」と勝手に義務感を感じて自分でも知らないうちにフラストレーションを抱える人も結構いるのでは。そういう人にとって、元増田のように「その話題、どうでもいい」と意思表示する人の存在は、「みんな実はこういう話題に興味がないけど、義務感から話をあわせている」と気づかせる危険人物となりうる。その結果、無意識下で「俺だって浮かないように周囲の話題に乗ってんのに何KYなことぬかしてんだ」という苛立ちが生まれ、アドバイスをかましてきたり、批判をしてきたりする人々が現れることもあると思う。アドバイスする本人は親切心からのアドバイスだと信じていてもね。
つまり、「人間は普通であるべきだ」と強く思いこんでいる、そういう人たちにとって、「普通じゃなくてもいいんじゃない?」って提案してくる人は己の根本を揺るがす脅威になりうる。
何を言いたいのかというと、「こういう話題に乗らない君っておかしいよ」って指摘してくる人たちも、積極的な興味があって芸能人とか好きなタイプについて話してるとは必ずしも言えない、場合によっては嫌悪感を感じてるんじゃないかなーということ。だから、そういう話題に興味が持てないからといって、負い目とかコンプレックスを感じる必要はないと思う。そう思うと、ほんのちょっと気が楽にならないかな。自分に対して否定的になると、よけいな感情によって円滑なコミュニケーションを取りづらくなるし、相手と自分を比較してしまって人といるのが辛くなる。だから、自己卑下につながるような種は除いたほうがいいと思う。その点、対人関係を絶っていない元増田はすごいよ。
「本当に心を許せる人と出会い、関係をつくるにはどうしたらいいか?」という点については、ブコメまとめの方が親身になってくださっているので、興味という面から書いてみた。全体的に推測の域を出ないので、あくまでも「いくつかある見方のうちのひとつ」ということで。直接話聞いてくれる人ほしいなー、という時は大学の学生相談室という手もあるよ。
インテグレーテッドのかたがたや、出生を理由にいわれなき差別を受けてきたかたがたもマイノリティ
アメリカではマイノリティの連帯が進んだ結果、我が世の春を謳歌してきたWASP男性が特権階級の地位からついに転落した
どんなアファーマティブ・アクションの救済も受けられない、ある意味で最低の地位に置かれたね
そして今までマイノリティにしてきた仕打ちを身をもって受けることになった
あなたはそれを怖がっているんだね
日本人で日本民族で男だというだけで優遇され威張り散らしてきたあなたは、マイノリティの紐帯に制裁を受けるのが怖いんだ
面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの。
「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」
http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html
元記事では「ブタがいた教室」
(http://goo.gl/DV423)(Wikipedia)
という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタを飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。
とくに考えてみなくとも、この教育方法が愛玩動物と家畜を意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場や屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務からも解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまり、ブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。
農家で働く人々のなかには、家畜を愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらくいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎の環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつの社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつの労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域で人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。
この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペットを家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だから、ブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物を教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである。
「生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ(屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育の権力と子供の阿りにあまりに幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必要は一切ないのだから。感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的な意味から屠殺を要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。
こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理が子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。
つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペットを屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童の感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命の価値とは、その動物が与えられている人間の愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である。
屠殺に賛成する児童にしても、その意見の後ろ盾となっているのはそのブタが屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義でしかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。
こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童にペットと家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜とペットの存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタは家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為を考察する可能性から遠く離れることになる。
結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜の意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学や職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯に繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。
「アンチ」呼ばわりね。
むしろ今頃気づいたのかよアホかよって言うレベル。
曲がりなりにも作品批評や批判をして
単なる作品批評に対して人格攻撃と受け取る、みたいな反応は少ない。
自分は2chやふたばでアニメ・漫画のスレッドに参加することが多いけど
穏やかな口調での部分的な批判にすら「アンチは出て行け!」と大騒ぎする人の多いこと。
たとえば「今週の作画ちょっと荒れてたね」とか「あの設定と今週の内容は矛盾してない?」ぐらいでも
もう大噴火して怒り狂う人がいるんだよね。それなりの数。というかそれが多数派。
どう見ても作品自体を否定してるんじゃなくても
「アンチ」として扱おう、排除しよう、と強情になるし、
だいたい仮にそのアニメの「アンチ」だとしてもそこまで感情的に対応するのはおかしい。
彼等の特徴は実は2つあって
「批判=作品否定と読み替える」の他に
「作品否定=それを見ている自分達への人格否定と捉える」が備わっている。本気で。
しばらく見ていて彼等の気持ちを理解したんだけど
「すごいイイよね」「みんながイイって思ってるよね」という確認、
だから極端な話、
「語り乙!」とか「批評家乙!」とか言われてる。3行以上はアウト。
推奨されるのはより動物的な、「萌えーーーー!」みたいな、群れ動物の鳴き声みたいなレス。
考えてレスする奴は全部ウザい、っていうのが当今のネットオタクコミュニティの正義。
逆にはてなとか評論クラスタは考えすぎて頭パンパンみたいな人が多いんだけどw
ちょうどいい塩梅の場所が絶無だなw