はてなキーワード: 精神活動とは
大病院はよっぽど強いコネや紹介がないと、一般人にはつらいと思う。予約も取りにくいし、待たされる時間も開業医とくらべものにならないくらい長い。半面、診察はものすごく短い。
まあ、元の人の追記を見ると、この人はどこの病院へ行っても担当医師とタッグを組んで精神疾患に立ち向かう関係は作れそうにないとも思う。
言葉が届かないことを承知で書くと、まずは3か月くらい手近な精神科医の言うことを全部うのみにして疑問を持たずに愚直に指示に従うのがおすすめ。そして思考のよどみが消えてきたら医者を変えるとか、カウンセリングなりの長時間話を聞いてくれる人のところへ行くのが良いと思う。思考がよどんでるときは精神科医の良し悪しを正しく判断したり、カウンセラーを探すような精神活動は相当大変だし、思考がよどんでること自体にも気づかないので。
なんか同性愛は自由な人間の精神活動のうちで、全く負い目も感じる必要はないし、なんなら異性愛より性欲抜きな分尊いみたいな。まだ色々判断つかない子供とかにも、全然みんな異性でも同性でもどっちでも愛しなよみたいな。今はそういう時代だよみたいな。あるじゃん。
否定するってほどのモンじゃないんだけどさ。なんかそこまで行って、大丈夫なんかなみたいな。
いやもう、ホントに別に恋愛感情とかどうしようもないし、好きにしてくれって感じなんだけど。
でもこう、前の世代達もやっぱ子供作って、社会をなんだかんだ持続発展させてきて。そういう社会の恩恵の中で、自分は先の世代はもう考えないで自分の恋愛に生きますって。
いや何度も言うけどホントにそれでも良いんだけど、それで周りに申し訳なさは持って生きるとかになるのか、あるいは申し訳なさなんて感じる必要はない!という強い主張とか覚悟とかを持つところまで行くとか。そこまで考えてるんかなみたいなのが。
あと、ホントによくわかってない子供達にも同性愛尊いよみんなやっちゃっていいよで良いのかみたいな。教育とはなんぞや、自由とはなんぞやみたいな。
なのではないか仮説
二次元美少女とは純粋な芸術であり、彼女達のような存在と青春を過ごしたいと願うこと、そして最高の仲間と青春を過ごすなかで人として成長することこそ人間の本質である。
18歳以上を登場人物としながら高校生の恋愛を描くという矛盾は、純粋に芸術を描くためなら他の事は放っておけという純文学精神の現れだ。
CROSS†CHANNELはその中でも最高に純文学だ。
思春期の揺れ動く少年少女の心を描くと共に、現代人が抱える社会適応の難しさとそこから来る複雑怪奇な心の有り様を描いている。
社会に適応できない事に悩み、社会を避けようとし、だけども社会と共に歩もうとする二律背反が織りなす、掴みどころのない心の機微こそ現代人の精神活動においてとりわけ芸術性を宿す部分だと私は考える。
そして、その悩みの果にある答をCROSS†CHANNELは描く。
人間を必要としながらも、人間と関わらない生き方を求める姿は、インターネット社会の果てにある一つの答えのように私は思う。
ラストで絵が書き出される、主人公なりの、作者なりの答、それに対する各登場人物なりの色とりどりの反応。
そして、受け手もまた1人1人がそれをハッピーエンドと捉えるか、バッドエンドと捉えるかを迫られる。
答を用意しながら、その答に対する答を読者に投げる事で、この作品は読み手がこの作品に心揺さぶられるうちに何を思ったかを浮き彫りにして物語を終える。
純文学が、その芸術性により、人の心を揺さぶり、人間の感情の持つ複雑な味わいを想起させる存在ならば、CROSS†CHANNELこそが最高の純文学だというこの仮説も、ただの妄言以上の意味を持ちうるのではないだろうか。
以上、CROSS†CHANNELの「生きている人いますか」の言葉が無ければ今頃この世界から居なくなっていたかも知れない男より。
ミキミキと桜庭があのラストを肯定してくれたから、そのシナリオをロミオが描いてくれたから、今の自分は自分の存在を許す事が出来ている。
少なくとも、フィクション作品の中で自分の人生に最も大きな影響を与えたのはCROSS†CHANNELだ。
あの作品があり、あのラストを同じくハッピーエンドだと感じた誰かがいる事を知ったから俺は今生きている。
1人だけど1人じゃなくて、1人だからこそ1人じゃない(同じく1人を求める誰かがこの世界にいるのだから!)ことに気づけたから俺は俺を肯定出来るようになれた。
帰省する度に思う。
僕の家は今は割と上手くいってるけど、昔はそうでもなかった。
つらかった。その結果、僕はAC気味か、ACって感じに育った。
大分マシになったけど。ぼくも家も。
そんなとき僕は自室に籠もる。26になっても変わらない。
問題が起こりやすいのは、家事の分担。父親は基本なにもやらないやつだった。今は昔に比べたらすごくやるようになったけど(それに伴い僕の症状も軽くなっていった)。
食器洗いの度に、母親の機嫌が悪くなる。文句が出る。父親は無視を決め込む。
僕はそうなって夫婦間の空気が悪くなるたび、そして悪くなる前に、母親の食器の手伝いをしにいった。
これが本当に良くなかった。
親の夫婦間の問題なんて、子どもが取り持つもんじゃない。僕の精神はそういう取り持つことの負担によってかなり削られた。
家の手伝いをしたあとは何も出来なくてずっと寝てた。
それだけが原因じゃないけど、そういうことにも起因して、僕は10代の後半から20代の前半までニートだった。
家に置いてくれてるだけでもありがかったなって、今だったら普段は思えるけどね。
で、今はそれから一念発起して、家を飛び出して、就職して、精神的にも大分かなり安定したんだけど。
それでも家に帰ってきて、そしてたまに夫婦間の仲がごちゃつくと、
26歳にもなって情けない。けれど、僕の心を守るにはそうするしかない。
気持ちの整理がそれだけじゃつかなくなると、インターネットに匿名で書き込んだりする。
たぶんこれはもう変わらないだろう。父親がもっと母親のフォローできるようになればいい、すればいいと僕は思ってる。
言い忘れたけど、母親も母親で、(普段はとてもすごい良い母親なんだけど)、文句の言い方が、直接父親に向けてじゃなくて僕を使って間接的に言ってくるんだな。
思い出すだけで泣けてくるんだけど。けして悪気があるわけじゃなくて、母親も辛くてそうしちゃうんだけど。
でも僕にとっては毒親の行動なんだな。
「僕を使って間接的に」ってうまく言えないんだけど、父親には直接言えないけど僕になら言えるし、僕に言ったら手伝ってもらえるし、
みたいな。このことについて考えると本当に頭がぐちゃぐちゃになって上手く言えないんだけど、要するに本当に頭がぐちゃぐちゃになるような不満の言い方なんだ。
それで僕の精神は1万時間は削られた、と言いたいぐらい。感情的には。
普段は本当に良い母親で、毎朝早起きして朝食つくって、共働きなのに昼食も夕食も作ってその上掃除洗濯家事全般。本当にすごい。
でも、彼女の負担と夫婦の関係を僕が背負ってたつほど、僕の心は強くないんだ。
夫婦間の問題に僕は手を貸さない。だからこうして、僕は自室に籠もる。
将来結婚したら、(もし誰かと結婚できるようなことがあれば)、僕は奥さんの手伝いをたくさんしたいと思う。
けんかしても、子どもにはその仲を取り持たせるようなことはさせない。
奥さんができたら、母親にはしてあげれない代わりに、奥さんの手伝いをしたい。
って、本当はここで終わりたいんだけど、もう1つ。
彼女できない。できたとしてもすぐ別れてしまう。付き合ってからも、付き合う前も僕は重い男になってしまう。
僕はそれが誠実だと思ってるからなおさらたちが悪い(のかな。)。
できるといいなぁ。
幸い、両親は今言ったような意味ではあれだけど、でも教育については惜しみなく僕に投資してくれた。
何年もほとんど精神活動が遅滞してしまうような状況を過ごしても、そこから這い上がれるぐらいの投資はしていてくれた。
(念のため、両親が「投資」という言葉を使ってたわけではない。)
つまり、僕には何らかの力がある。僕には何もないと否定しようにも、実績を鑑みて、僕に力がないとは言えない。些細な力だけど、無いよりはある。
で、これが何のはなしかって。性格的に彼女出来ないかもしれないけど、能力的にはかっとばせる余地があると思うから、
そっちで頑張ろうと思う。僕の人格は、変えられるかもしれないけど、そっちに力つかうなら僕の能力に一括でぶっ込みたいと思う。
その結果、そんな感じの僕に惚れてくれる人がでてきたらもうけもの。
だめでも、世の中のためになることができればいい。
昔、心療内科の先生に言われた。君には一種の狂気じみた力がある。女じゃなくて、仕事とか芸術とか、力を注ぎ込めばすごいことができる。って。
猫の友情についてのお話しを2編させていただきたいと思います。
飼い主のいない猫の暮らしはその日を生き抜くための食料を探し、
狩りをし、縄張りに異変がないか偵察して回り、外敵から身を隠し、
時に雨風に体力を奪われる。そんな風に生きるだけで精一杯です。
一方、飼い主がいる猫ではどうかというと、雨風をしのげる家に暮らし
暑さ寒さだけでなく外敵からも守られ、きれいな水を飲み衛生的で栄養のある食事をし、
昼間は時折遊びながら主に眠り、夜間は時折眠りながら主に遊ぶ。
病気の時には、猫にとっては不本意かもしれませんが医療も受けられる。
なぜ、いきなりこんな話をしているかと申しますと、両者の間では
一方はもっぱら生命維持活動の為だけに精神が使われているのに対し、
もう一方は人間が生命を保証しているために精神活動に余裕があると申しましょうか
潜在的に備わっていた精神的な能力を発揮できる条件が満たされている。
だから、今まで常識だと思われていた猫の行動から少しばかりはみ出した
事もできるようになる。そんな風に考えたらおかしいでしょうか?
もう20年位昔の事です。
茶トラの雄猫(名前を仮にトラとしましょう・去勢済・8才)と一緒に郊外の
一軒家を借りて暮らしていました。
その頃の私はまだ猫の飼養方法について無知だった為に、トラは家と外とを
自由に行き来することをゆるされていました。トラが自由に外出できるように
ある日のこと。猫ドアをバタンと音をさせてトラが外出から帰ってきました。
そして驚くことに、続いて見知らぬ猫が猫ドアをくぐって入ってきたのです。
その見知らぬ猫がトラに続いて入ってきたタイミングから考えて、
どうもトラがその猫を招き入れたとしか考えられません。
トラの様子を見ても、よそ者が自分のテリトリーに侵入したにもかかわらず
平然としています。
見知らぬ猫はトラのドライフードを食べたそうにしていましたが、残念ながら
人間である私のことを恐れて、しばらく逡巡したのち外へ出て行ってしまいました。
このことをどう考えたらいいのでしょうか。
あるいは、トラが友達を私に紹介しようと連れてきた?
そもそも、猫と猫とが初めて友情を確認しあうときにはどのような
コミュニケーションを行なうのでしょう。不思議な出来事でした。
私が住んでいた家の隣にアパートがありました。
白黒のはちわれ(1~2才位)とミケ(生後半年位)の2頭です。
うちのトラとはあまり仲はよろしくなかったのですが、
よくうちの庭へ遊びに来ていました。
うちの庭には梅の木が植えてあったのですが、ある日猫の鳴き声がするので、
外を見てみると隣のミケが梅の木の上で鳴いていました。
どうやら、木登りをして遊んでいたのが降りられなくなってしまったようです。
そして、梅の木の根元には隣のはちわれが、私をにらみつけるように見上げて
座っていました。ミケを私から守るため逃げることなくそこにいるのです。
飼い主である隣のアパートの女性に、ミケが木から下りられなくなっていることを
知らせ、救助してもらいました。
血は全くつながっていないとのことでした。
友情というよりは、はちわれとミケは一緒に暮らしているので家族愛のような
ものでつながっているのかもしれないですね。
すべての人間が等速度で精神的・肉体的に成長するって科学で証明されてるの?
肉体の成長に関して言えば、どちらかと言えば等速度に成長しないという立場の方が有力みたいだし、
精神活動が肉体の成長と強い結びつきがあることを考えれば、精神能力だって等速度では成長しないんじゃない?
いわゆる「発達障害」だって、色んなパターンがあるから一概には言えないけど、
「年齢相応に成長しない」という原義で考えれば、それはようするに成長速度の個人差を病気や障害と言い換えただけなのは。
近代、特に学校教育が人間をベルトコンベアを流れる自動車のごとく、
等速度で組み立てられる製品のような感覚で捉えるようになった結果、
そうした成長モデルから逸脱した人々を「不良品」を障害者扱いしてるだけでしょう?
比較的古い心理学の本とか、浅い内容の自己啓発本なんか読んでいると、
「○○くらいの歳に××の経験(例えば、挫折とか恋愛とか)をしなかった人間はダメになる」みたいなことが
平気で書かれていたりするんだけど、そういう成長の絶対条件みたいなものがあるんだったら、
社会の側がそういう経験を用意してあげなきゃ、人材育成の点で非効率過ぎるでしょ。
わざわざ手をこまねいてダメ人間を量産してどうするんだよ、って話。
(ただ、未開社会では必ず非常に困難な通過儀礼を用意しているから、近代以前には全く無策ではなかったのかもしれないけど)
そういう物事は自然なかたちで経験しなきゃいけない、みたいなことを言う人もいるけど、
だったら「ダメ人間」になるのは、そうした経験に恵まれなかった不可抗力って言い訳を認めることになる。
でも、そういう言い訳を認めるために、理想的な成長過程を規定しているわけじゃないんでしょう?
確かに深刻なストレスが原因になるにしても、それはまず運動不足や栄養不足から、
腸内環境の悪化を通じて脳の機能不全が生じ、最終的に精神活動の不調が現れるのです。
もはや精神医学の本場米国では、カウンセリングはおろか、向精神薬ですら時代遅れで
ひたすらエクササイズか、食事(サプリ)療法、プロバイオティクス礼賛の傾向がある。
日本ではダイエットかオサレとしてジョギングを楽しむ人が多いけど、そもそも米国ではエリート達が
高ストレス環境における精神安定の効果を求めて走りだしたのが流行のきっかけだったりする。
フロイト系統の精神分析の手法を用いる精神科医がたくさん残存しており、
トラウマ探しと称して、患者に新興宗教まがいの洗脳を行ってる個人クリニックも少なくない。
また、鬱病の原因として、もはや時代遅れの「セロトニン(=モノアミン)仮説」が大手を振るい、
半ば神話化しており、この不毛な状況が改善されるまで少なくとも10年くらいはかかるんだろうと思います。
事実、精神を病んでいる人の腸内環境を調べると、かなりの割合で悪玉菌の巣窟となっていることが多いらしく、
逆に抗生物質とプロバイオティクス食品で腸内環境を改善してやったら、難治性の鬱病がウソのように改善した
という報告がたくさん上がっている。
現代の人間と、原始人やら虫やらとの違いは「精神活動」だよね。
何のために生きるだとか人生とは何ぞやだとか、そういう事柄は全部「精神活動」の結果やりとりされているもので、そしてこれは人間という種族の持つ最大の特徴なわけだ。
で、その特徴の結果として、全ての生命が持つ「肉体としての人生」に加え、人間は「精神としての人生」も持つようになってしまった。
この二つをごっちゃにする、あるいは「精神としての人生」の存在に気付かないと、縄文時代の人生と現代の人生が同じとか、豪邸で美女はべらせるのとアパートでせんべい布団は大差ない、なんていう混乱を来すことになる。
そっちは「肉体としての人生」の話じゃなく、「精神としての人生」の話なんだよ。
私も短く。
>「規制されるべき」という考え(つまり精神活動)が規制を生んでいる
生んだのは誰?
○そういう決まりをつくったえらい人
○そういうものだと判断した人
どっちかであるか、どっちでもないかもしんない。
とりあえず今お話しているところでは「規制が存在する状況の話」だよね。
でも、肉体的構造について差がある故にその状況を分けるという規制があることが前提の話だよね。男湯女湯。
男女が入り混じるべきではないという構造が完成されている湯の分けは、身体的特徴以外に何で分けられているのかなと。
子供だったら女子でも男湯はいるぜとかそういう領域の話ではないよねと思って。
>男女の肉体構造を平滑にしなくても、人々が「男湯と女湯は分けるべき」と思わなくなるだけで、男湯女湯の区別は解消される
わたしも、バイオロジカル的に「生態的に性差がなくなれば」みたいな風な事いったみたいで変になっちゃったかも。
「そんな機能や構造の差、人間には差ではない」とか「そういう構造の部分差を今問う場面じゃない」となることが平滑な局面かなと。
まとめて
が
「規制の基準を身体的特徴にしなくなる」
だけで混浴は達成するとおもうし
の状況はあとからついてくるとおもうし、逆にその状況から身体的特徴を規制対象にしなくなるかもしれないかも。
「女子の裸みたいって思ってる人がいるから、混浴にならない」ってこと言いたかっただけで
「異性の裸なんてみたいとか思わないのに、なんで風呂は無意味にコストの高い分断をしてるんだ」とか言うのなら
黙ってみてたかもって。
あのな。
俺にとって言いたい放題言うっていう行為を充足させる場が増田だってだけだ。
増田で口汚く他人を煽ってるなんてのはむしろ精神の健全さだよ、現実でやらないならな。
俺だってこの会話の仕方を現実でやらかしたら職を失うってのはわかってる。
そこで社会と折り合えるわけだ。誰しも常に社会的にコレクトな行動を取るわけじゃない。
まぁ、自覚の有無だな。俺は今、自覚的に口汚い会話をしている。
あんたがヤベーのは、他人を障碍者認定するっていう一般社会でやったら
間違いなくヤベーことをやりながら、俺の振る舞いを批判してるっていう自覚の無さだ。
あんたの発言だって社会人として十分やばいからな。理解してるか?
つーわけで、一応俺はあんたを心配してる。
人生は上手くいってるか?周囲とは上手く折り合えてるか?収入は得られているか?
おまえさんがマトモかそうじゃないかを決めるのはこれだ。
別に、器質的に(まぁ、人格障害が器質性か精神性かははっきりしてねーが)
境界知能だろうが人格障害だろうが、これさえ大丈夫なら問題は無いんだよ。
とつのこと
ひさびさに増田をのぞいたら、面白そうなエントリーが上がっていた。
これは…
はてな民には、Web系、プログラマーが多いらしいから、さぞかしみなさん、丁寧に教えてあげるだろうなと思ってみてみたら…
http://anond.hatelabo.jp/20140203071353
興味がないのにプログラミングできるわけないじゃん
目標?興味?
プログラムを書け。
好きとか嫌いとかはいい。プログラムを書くんだ。全く未知のものに対して目標をたてても、どうしようもない。ましてや興味なんて、ちょっとした挫折で簡単に削がれる。
だから何も考えなくていい。書け。書け・書け・書け。
言語も対象もなんだっていい。テトリスだってブロック崩しだって電卓だってエディタだって。思いついたもんをただ作ればいいんだ。
安心しろ。世界のプログラマーの98%はメインで使ってる言語でエディタを実装することさえできない。
ただ文字を入力してそれが表示されて、スクロールできて、選択できて、削除できて、検索できて、ファイルに保存できる、そんな機能をプログラムにまとめることさえできない。
プログラムを書いてどんな意味があるだとか、どんなプログラムを誰に向けて作りたいとか、作るべきかとか、そういうのはあとからついてくるもんだ。
保証する。プログラミングは世界の他のどんな職業にも決して劣らない素晴らしい精神活動だ。
俺はプログラムが書けるようになって、嬉しくなかったことはない。