はてなキーワード: 国民統合とは
女系天皇は前例がないとして反対する右翼、女性が天皇になることについて国民統合の象徴だとして賛成するリベラル(本当の左翼は天皇制は廃絶すべきだというのが筋であろう)も合意できる解決策が実はある。
それは、現天皇、秋篠宮、あるいは悠仁親王の精子を、公募し匿名で選んた第三者の女性の卵子に受精させ(匿名性は宮内庁が厳重に管理する)、それをたとえば愛子の子宮に移植する方法である。この場合愛子は代理母であって、皇籍離脱せずに天皇の母となる(天皇になっても良い。女性天皇は前例がある)。もちろん匿名の卵子提供女性は皇室に入ることは一切ない。これを男子が生まれるまで何回か繰り返し、悠仁親王のスペアを確保する。
小山田圭吾さんが辞任した。
東京オリンピック2020はオリンピックの成功というプロジェクトに向けて国民が団結して協力するという状況ではない。高度経済成長期だった1964年の東京オリンピックとは異なる。
価値観が多様化したとも言えるし、日本社会の階層化が進んだとも言えると思う。
少なくともみんなでオリンピックを盛り上げようという気持ちはない。
それどころか、国民は少なからずオリンピックに反感を抱いている。
言わばガソリンが気化して充満している状態なので、ちょっとした火の気で爆発する空気感があり、佐野健二郎、森元などが炎上してしまった。
障害者への強烈な虐待を雑誌で自慢するという特異な嗜好を持つ人間がパラリンピックの楽曲を登用するという決断は言わばガソリンが気化して充満している隣の部屋でファイアーダンスを行うようなもので、最初から炎上必至だった。
野球だと9回に抑えで出てきたクローザーが20点取られたような感じ。
組織委員会にはまだ隠しダマがあると思う。
「日本国憲法 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」
脈々とつながってる「あの家」の直系男子を天皇としているのは「皇室典範」であって、憲法上はあくまで「国民統合の象徴」として「総意に基づいている」のが天皇。
よって、国民の総意が元増田の意見になれば、後継ぎいなくなる問題とか皇室メンバー増え過ぎ問題とか怪しい家の男に嫁入りどうなん問題とか、全部解消する。
費用も安く済みそう。元首を選挙で選ぶ国は珍しくないし、いまの皇室は問題ないけど、一端フィリピンみたいなことになると、「そもそも血筋より重視すべきことがあるのでは?」とみんなが気付く可能性もある。そうなったら、真剣に検討してもいいかもしれん。
ドイツを称賛する人たちはさ、天皇一派はナチスみたいなもんだから全員死刑か投獄されて当たり前って思ってんのかな、こえーよ。
ドイツ人から見たらさ、ネオナチみたいに見えるんかね。ドイツ人はアジア蔑視が酷いからもともと日本人は嫌いなんだろうけど。
戦争責任は一部に全てをなすりつけるんじゃなくて日本国全体で負ってさ、責任の所在はあいまいなままグレーな感じで、東京裁判は国際的には受け入れつつまぁでもクソだよなってこともネットで調べりゃすぐわかる程度には国内に見解を残しつつ、白黒はっきりつけずにうやむやなのも一概に悪いことばかりではないか。
国民統合の象徴って意味わかんねーし、天皇に人権ないってやばくない?自衛隊っていう名前の国軍とかパチンコの景品交換所とかソープランドとか…
うーむ。やはり害が大きいな。
国民統合の象徴って人が必要なのはいいだろう。でも、それが天皇家男系男子のみってのは何なんだろう。歌舞伎役者くらいの縛りじゃダメなんかね。天皇家に生まれて生まれた時から英才教育を受ければ圧倒的に優位で実質世襲。でも法的には一応他の人でもOKみたいな。ダメか。余計荒れるか。
日本難しすぎだろ。
我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった。
そこに至るまでの間、共産主義・社会主義政党の批判のための批判に耐え、我が党は現実を直視し、日米安全保障条約を基本とする外交政策により永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を国民とともに発展させた。
日本の存在感が増すにつれ、国際化のなかで我々は多くのものを得た反面、独自の伝統・文化を失いつつある。長寿国という誇るべき成果の反面、経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。
我が国は、これ等の現実を明るく希望ある未来に変えるため、少子化対策とともに、教育の充実と科学技術開発に国民資源を注力することにより生産性を向上させ、長寿人口の活用と国民資質の向上、国際化への良き対応により、経済成長が達成でき、国民生活の充実が可能なことを世界に示さねばならない。
我々は、日本国及び国民統合の象徴である天皇陛下のもと、今日の平和な日本を築きあげてきた。我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。
家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち「日本らしい日本の確立」である。
我が党は平成21年総選挙の敗北の反省のうえに、立党以来護り続けてきた自由と民主の旗の下に、時代に適さぬもののみを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求め、国際的責務を果たす日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したいと思う。
我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。
また、日本の主権を危うくし、「日本らしい日本」を損なう政策に対し闘わねばならない。我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。”
何だかんだやってみてはいるものの、安倍麻生のぼんくら感は否めず国民が怒りつつあるのが今。
本来なら自民党内で自浄作用するはずだが、戦後レジームから脱却し新たな日本の基礎を作ることが最重要項目だから
成り上がり議員や長年続けてきた議員は意見するよりも、このままボンクラに突っ走ってもらいたいと考えている。
しかし、まぁそんなに上手く行ってないよね実際は。
権威をどう捉えるかって話だと思う
「国民統合の象徴としての天皇」が平成天皇の努力もあって割と広く受け入れられている今
伝統的な宮中祭祀による権威付けがどの程度効果を発揮するかっていうとちょっと疑問
「国民の安寧を神に祈ってくれる天皇」というのはそれほど多くの国民に訴求しないのではないかな
どちらかといえば災害時に寄り添ってくれたり心に響く言葉をテレビで語りかけてくれたりする事に
多くの人が惹きつけられて権威が形作られるのではないかなんて思うんです
祭祀の作法も明治維新とか大きな変革のタイミングで変化してるみたいだし変えていってもいいはずなんだけど
実際変える変えないの判断てだれがしてんだろ
宮内庁とかかな
タイ人の女子学生それを普通に買うのに、白人が好き好んで、より安い物を買い求め、食事を取っていくのを見ると、なぜか辛くなる。
少し通りを出れば、オッさんが一日中同じ場所で道路に座っている、スラムとはいえ、いざ格差というものに直面してしまうと、切ないものだ。
確かに日々、勤勉な人たちが富を得ていくのはいいとは思う。しかし、いかにも貧しい路上生活者たちがいるのにそのままというのはやはり違和感を感じてしまう。
もちろん、本人の努力不足で自己責任と言い切ることができるし、好き好んでやっているのかもしれない、そういう人にも寛容ということだけなのかもしれない。そういう社会なんだろう。
実際のタイがどうかはわからないのだが、少なくとも日本はそういった社会ではない。ホームレスはいるが、あってはならないという認識がある。
仕事がないのだろうか。確かに、食べ物の行商やタクシーは多すぎる。これは年収も低いだろうなと。しかも若い人まで。仕事にこだわりがないとは聞くけど、いかにも金持ってなさそうなおっさんやおばさんを見て、将来を憂えないのだろうか。
日本は人手不足だというのにな。不衛生になりやすく、どうでも良くなってしまうような気候も影響しているのかもしれないが、常夏なら寧ろ、管理しやすそうな気もするけどね。
ただ、国民性は温厚で大変よろしいと思う。詐欺も少なく、大半の人は親切だ。寺院や王室のモニュメントに近づくと自然と手を合わせるその様は美徳だと思う。感謝だとか、尊敬だとか、しばしば、日常生活から遠ざかりがちな温かい心を取り戻せる。彼らが手を合わせる姿はそうした心を大切にしていることを覗かせてくれる。
民族国家ならではなのかもしれないが、こうした国民統合の象徴を愛する行為はその国民が愛を感じやすくさせる効果があると思う。
民族というアイデンティティを消耗するのではなく、敬意を払うことで、ほんの少し、人は幸せを噛みしめるようになれるのだろう。反対意見もたくさんあるだろうから、心の中だけに留めることになってしまうだろうが、こうした、チャンスはフルに味わさせてし、幸せに生きたいものだと、私は思う。
ここに僕がどう受け止めたかを書く。
お気持ちをどう捉えるかは国民個々人に任せられたものであるからして、これは僕個人の受け止め方です。
あなたがたがどう思うかは分からないが、書かずにはいられないので書く。
「もう高齢だから引退したいよ」という話でもなければ「憲法があるから言いたいこと言えない」という話でもないので、陛下を尊敬する国民として重く受け止めたい。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160808/k10010626811000.html
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
ツイッターなどを見ていて、陛下のこのお気持ちの表明に対して「憲法があるから遠回しに表現したんだね」的にとらえている人が多いように思いますが、僕はその理解では陛下のお気持ちを半分しか分かっていないのではないかと思います。
陛下は以前から、そして今回のお気持ち表明で「象徴」や「天皇という立場」に強いこだわりを表明されています。
憲法があるから思っていることをストレートに表現できないのではありません。違います、たぶん。
このお気持ちの表明をよく読み返せば、陛下が「象徴天皇」であることを誇りに思われていることがわかるかと思います。
現状とこれからの問題点に対して「私はこうしたい」や「こう変えるべき」ということを言わず、憲法と民主主義(国民と国民の選んだ政治家)に委ねることこそ象徴天皇のあるべき姿であるという強い意思を感じました。
憲法があるから思っていることをストレートに表現できないのではありません。違います、たぶん。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
陛下は、ここで『天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』と仰られています。
ここは僕の解釈ですが、「直接的・短絡的な存在意義を問いにくい存在」である象徴天皇とは何のためにいるのか、自分に何ができるのかを陛下が自問し、求道者的・修行者的とでもいうべき数十年があったように感じました。
「日本国の天皇とは」ではなく「象徴である天皇の存在意義とは」を強く意識されてこられたのだと思います。
繰り返しになりますが、現状とこれからの問題点に対して「私はこうしたい」や「こう変えるべき」ということを仰らないのは、それが憲法で縛られているからでなく、自らが象徴であることを『天皇として~幸せなこと』と感じられているからであり、「象徴天皇の自覚を育て続けてきたから」という陛下のご意思であると僕は受け止めています。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。 また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。 しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
ここは重要な件です。
単にご公務を減らし、皇太子殿下や秋篠宮殿下に任せるのでは「行うべき仕事をしていない人が象徴というおかしな状態になる」、天皇の存在意義が問われると陛下はお考えであると僕は受け止めました。
僕個人は陛下がご公務を減らしても天皇としての存在意義は揺るがないと思いますが、陛下は上記のようにお考えなのではないでしょうか。
象徴天皇は、その歴史的権威だけではなく、憲法や法律によって成り立っています。
血筋でなるのではなく国民に存在を認められるからこそ象徴でい続けられる、陛下はそこまでお考えなのではないでしょうか。
代理やご公務の削減をしているのでは、「行うべき仕事をしていない人が象徴」では国民の理解と敬愛を得られるはずがないという強いご意思を感じます。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。 更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。 その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。 こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
ツイッターなどで「我々国民の負担を考えてくれる陛下マジ陛下」的な受け取り方をした人が多いようで、僕もそう思いました。
これは僕の勝手な推測ではありますが、陛下はご自身の力が及ぶうちに皇太子ご夫妻へバトンを渡してサポートしたいとお考えなのではないか、ということです。
残念なことに、世の中には皇太子ご家族を悪くいう国民がいます(国民が良し悪しを評価するのではなくサポートするべきではないのかと思いますが…)。
陛下とともに歩んでこられた皇后美智子さまも60年台から90年台にかけてバッシングをうけたことがあります(wikipedaあたりを読んでください)。
両陛下と秋篠宮殿下や皇室全体で皇太子ご夫妻の即位後をサポートしていくことで次世代と継承をより良いものにできるとお考えなのではないかと、勝手ながら僕はそのように感じ取りました。
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。 そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
陛下はご自身が『象徴天皇』≒『権能を持たないEMPEROR』であることを誇りに思われているのだな、と感じる件です。
あくまでも、お気持ちを我々と我々の選んだ政治家に委ねられているのですから。
国民の理解を得られることを、切に願っています。
天皇陛下がですよ、大君・大王でありEMPERORたる陛下がですよ、『国民の理解』を、『切に願って』いるんですよ。
何度も言いますが、陛下は「こうしたい」とも「こうしたらいいんじゃないかな」とも仰っていません。
ただ、お気持ちをお話になられ、それが我々と我々の選んだ政治家がどうするかに委ねていらっしゃるのです。
実際のところ、真新しい内容は何もない。
国事行為が満足にできなくなるのが理由というのも、この話題が出た頃からニュースで言われていた。
直接意向を示すことはできないので、理解を求めるというスタンスだったのも、大方の予想通りだった。
現行憲法に定められている通り、天皇とは日本国の象徴、国民統合の象徴である。
しかし同時に、陛下は平成という時代の象徴で、いずれ来る崩御によって平成という時代が終わる。
それに比べれば、国事行為が減るなど些細なことで(なんなら摂政にやってもらえばいい!)、
退位という形で平成に終わってもらっては困るという考えすら、心のどこかにあった。
けれども、そういう考えで、将来の国民の支持が得られるだろうか。
今後、「ただ君臨するだけ」という状況が続くことがあれば、さらにその声は増していくだろう。
仮に、共産党が政権を取ることがあれば(今は彼ら自身すら、現実的とは思っていないだろうが)、
彼らはすぐさま廃位に向けて動き出すことだろう。
葬場殿の儀というのは、どうも皇室の私的な行事ではなくて、国として見ても公的な行事のようですね。国事行為である大喪の礼、そして皇室の行事である葬場殿の儀、これを一連の行為として時間的にも連続性を持たせて場所も同じところで行うというのは、テレビに映し出されるのを見ている国民からもあるいは諸外国の代表からも当然一つのものとして映るわけです。かつて吉田総理の葬儀が国葬として行われた際に、カトリック教会で個人の宗教によって私的に葬儀を行って、そして一週間後に東京の武道館で宗教色を排除して国葬が行われています。
今度、こういう天皇の葬儀についても、憲法の政教分離を厳密に貫くべきでありますから、そういうような配慮をどうしてなさらなかったんですか。
○国務大臣(小渕恵三君) 吉田元首相の例をお挙げになられましたが、立派な方だと尊敬はいたしておりますが、天皇陛下におかれては憲法第一条に規定をされた我が国の象徴、国民統合の象徴でございますので、同じような考え方に存するものではない、このように考えております。
○吉川春子君 そうしますと、宗教色を排してやるというようなことではなくて全部一つとして、それは天皇の葬儀として連続して行われて、宗教色の盛り込まれているものも交互にあるわけですけれどもそういうものでやっても天皇の場合は差し支えないんだ、これが政府のお考えですか。
○国務大臣(小渕恵三君) 国民の間にいろんな御意見のあることも政府としては承知をしなければならない立場でございますので、種々検討いたしました結果、大喪の礼の御式は国の儀式として行われ、葬場殿の儀は皇室の行事として行われるもので、両儀は法的に明確に区別されるのみならず、実際上も大喪の礼御式においては開式を告げること、祭官は退席すること、鳥居は撤去すること、大真榊は撤去すること等とされており、両儀ははっきり区別をされた形で行われるということで大喪の礼委員会で決定いたした次第でございます。
○吉川春子君 大喪の礼もそれから葬場殿の儀も儀式の内容というのは旧皇室喪儀令で定められているものとほとんど違わないわけですね。こういうものを部分的に取り出してここだけは国事行為だといっても、憲法の政教分離の規定はクリアできないと思うんです。憲法二十条というのはまさにそういう儀式を行うこと自体を禁止しているわけです。
政府は、大喪の礼のみではなくて葬場殿の儀にも出席を要請して、節目節目には一同に起立を求める方針だと、こういうふうに言われています。これは宗教行事への参加ではないですか。
そこには、先ほども話がありましたけれども、神道の象徴である鳥居が建てられている。大真榊が置かれる。
広辞苑によると、鳥居というのは神域、神の領域を示すものであると言われています。これをくぐることは神社への崇敬の念を示すことになるわけです。榊は神のよりしろとして枝に白幣をつけて神霊の象徴として祭礼が行われるわけですね。
こういうような宗教儀式に総理が出席されるというのは、これはまさに憲法違反じゃないですか。
○政府委員(味村治君) 国事行為として行われます大喪の礼は、ただいま官房長官が申されましたとおり、皇室行事であります葬場殿の儀とははっきり区別をされているわけでございます。
国事行為たる大喪の礼は、祭官は退席し、鳥居を撤去し、大真榊は撤去されておりまして宗教色はないわけでございまして、国事行為たる大喪の礼が宗教儀式に該当ししたがって憲法二十条第三項によって国またはその機関が行うことを禁止されている宗教的活動に該当するという疑いは全くございません。まずそのことを申し上げておきます。
その前に葬場殿の儀が行われるわけでございまして、これは皇室の行事として行われるわけでございます。これにつきましてはいろいろ宗教的な色彩があるということは否定ができないわけでございます。しかしながら、そこに総理が総理たる資格で御出席になりましても、それは先ほど飯田委員との論議の中で申し上げたのと似たようなことになるわけでございますが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であられます亡き昭和天皇に対する哀悼の意を表し、また、御遺族と申し上げるのは失礼かと思うんですが、御遺族であられます現天皇に対してお悔やみの意をあらわす、こういう意味でそういういろんな儀礼を尽くすというような意味で出席されるわけでございまして、特定の宗教を助長するとか援助するとかそういうようなことで出席されるわけでないということは、これは明らかなわけでございますから、したがって、内閣総理大臣が総理大臣としての資格で皇室行事たる葬場殿の儀に御出席になってもそれは憲法二十条三項の禁止する宗教的活動には該当しない、このように理解をしているわけでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/114/1020/11402141020003c.html
○参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社、神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います。
この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元を排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております。日本の元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民の象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治の権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人は元号だけは朝廷の公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます。国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合の象徴というような意義も感ぜられるのでございます。英国におきましては、公文書にエドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます。法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制と本質的には同様のものであろうと思われるのであります。英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主の年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います。外交文書には現在でも公式にキリスト紀元が用いられております。キリスト紀元を採用せねばならんからといつて必ずしも日本式の元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます。
我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法が外交文書で用いられようと、学校の教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合にキリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございます。キリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離の憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います。政教分離の米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチス、ドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者の指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります。元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本の国民感情を考えますと、決してドイツやソ連と同様には行かないと思うのであります。ドイツやソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化の伝統がありましたので、国民はキリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教に特殊な関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民の圧倒的多数が神道と仏教に属しております。キリスト教徒は全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家が特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情の問題と申すべきでございましようが、政教分離の憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます。
今日では国家の公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒、キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家がキリスト紀元一本で行くことになりますと、神道や仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題が新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております。過去の東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化の伝統が浅く、神道や仏教徒の多い日本の世論としては当然のことであろうと存じます。元号とキリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題や議論は多いここと存じますが、私は全国の神社、神道人を代表する宗教人の立場といたしまして、神道人も仏教徒もキリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます。日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合の象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html