はてなキーワード: バカンスとは
日本に帰りたい。日本食が食べたい。日本で働くより給料いいかもしれないけど、手取りにしたら変わらないし、有給取得率100%だし週単位でバカンス行けるけど、行きたいところもないし、この国の娯楽ときたらつば飛ばしながら必死になって政治討論するか、クラブでキチ〇イみたいなことするかの二択だから有給あってもどうしようもないし
この国のキモさが年々受け入れられない。碌に文化はないくせになぜか日本のことを見下して上から目線で批判。ここに住んでる邦人もそんなんばっか。ここで洗脳されて意識高くなっちゃって日本にマウントとって、「日本は遅れてる」みたいなこと言って、日本ではみんな何も気にせずここの国の人よりよほど幸せそうに暮らしてるのに。そもそも海外住むとか誰でもできることでイキってる時点でどんだけ自慢することない人生?と思ってそっちの方が哀れになる。
前回日本に帰ったときびっくりしたわ。街があまりに綺麗で、街を行く人が幸せそうで。朝から酔っ払ってる人間もいない、麻薬の臭いもしない、ホームレスの臭いもしない。そもそもホームレスを見かけない。日本より優れてるみたいな顔してるこの国は電車に乗る度に乞食が回って来てしつこく金せびってくるのに。みんなギスギスしてるし街中でいきなり殴り合い始まったりするし、暗いし、臭いし、不潔だし。パリでイキってるあのおっさんとか、どんな脳ミソしてたらヨーロッパからイキれるんだろ。パリとか地下鉄の通路に人糞落ちてるような未開っぷりなのに。
それでも日本の方が自殺率高いから日本人の方が不幸なのかな。そうは思えない。こんな気持ちでこの国にとどまるのもこの国に失礼だし、もう帰ろう。外国から日本に引き揚げた人たちってどういうタイミングで?どうやって引き上げてるんだろう?はぁ。
ボロブドゥール。俺はそう口ずさんだ。小気味いい感覚が口元を吹き抜ける。
ボロブドゥール。清涼剤のような言葉。ボロとブで生じた違和感をドゥールで開放する快感。
ボロブドゥール。ドゥールだけではこうはいかない。ボロブのおかげでドゥールが映える。
ボロブドゥール。なんて清々しいんだろう。心の中の雲が消え、一気に快晴になる
ボロブドゥール。ジャワ島の香りがする。遺跡のストゥーパ(仏塔)が目に浮かぶ。
いや、ちょっとまて。ストゥーパだと?ストゥーパ。こいつも悪くない。
ボロブドゥールのストゥーパ。たまにストゥーパを挟み、またボロブドゥールに戻る。
ボロブドゥール。みんなも口ずさんでほしい。
※追記)もちろん、ボロブドゥールじゃなくたってかまわない。
ブエノスアイレスでもマチュピチュでもマルクス・アウレリウス・アントニヌスでもいい。
自分だけのボロブドゥールを見つけて欲しい。
それではよい旅を。
かなり嫌な鳥→カナリヤ
「な」に含まれる+α
本物の磨崖
あるじもうけ/アルジャジーラ
当たらずとも/アルカトラズ/虻蜂取らず
南南問題に憤る人「なんなん?」
お叱り平野
イエニチェリ/いでにけり
やばいやいば
鰹のたたき台
叩き上げの鰹
似姿の姿煮
ピピンの苦心
アクオス↔︎トジルメス
金継ぎをしすぎて金だけになった純金の皿
スキアッチャータ/付き合っちゃった
ええいままよ↔︎こんにちはパパだよ
村一番のホラ吹き
ナチスの人ら
グージュの伝言
遠くから撮った近影
思想膿漏
馬の足袋→タービー
托卵のかっこうの的
デジタルタトゥーの女
こまめに小豆を摂る
死ぬこと以外かすり傷↔︎かすり傷以外なら死
島耕作↔︎陸開墾
無策の生きた化石→案も無いと
君がため 春の野に出て ハルツーム
robust/老婆
乱雑な茶→胡乱茶
下北沢↔︎上南沼
ハリ◦ウッド→ニードル◦キ
サマルカンドで冷める感動
チャッカマン↔︎火付け女
早合点に含まれるやがて
tyrant/thailand
しのぶれど色にイェニチェリわが恋は
ブレブレのブレーン→ブレブレーン
肺リスク脳リターン
鳩を売ってる鉄道員
死人にクチナシ
どもるドヴォルザーク→ドモルザーク
覆水という名字なので盆に帰らない人
ジャイアンのいおり→ジャイ庵
石の上にも桃栗三年
宇多田ヒカルがクィア的であるというのは、コアなファンやクィアのファンの間ではかなり昔からの共通認識でありました。
もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカルの歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものがほとんどです。ですから、当事者の人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信や疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルのクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品だからこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情そのものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています。
一方で、宇多田ヒカルが自身の内面を初めて強く出して制作したと語るアルバム『ULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁にクィア的な表現の歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。
([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)
引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情の対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます。
「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイカレトノケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から、親友である女友達が彼氏と同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます。
宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉は同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。
宇多田ヒカルのオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイの男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます。
「けんかはやだよ くま くま くま」
「冬は眠いよ くま くま くま」
どうでしょうか?
ドラマ『ラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなものを歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさらに意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。
「人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷な現実が二人を引き裂けば」といったバースはどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛的視点と同性愛的視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?
宇多田ヒカルと椎名林檎のデュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向をオープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。
もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります。椎名林檎のパートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。
この歌詞でバカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアであると想像するでしょうか?
個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます。
一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます。
宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。
「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」
「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」
など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉で構成されている歌詞だと感じられます。
この楽曲が最初に発表されたのはNHKのSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカルの上記の発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。
「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」
「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」
この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛・結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります。
先に、宇多田ヒカルは大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもあります。しかしながら、宇多田ヒカルの歌詞が全般的にクィア的であると当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるとしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップスの歌詞における「あなたと私」という主題の問題や、女性シンガーが歌詞でつかう「僕」という一人称の問題など、ポップスの歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするときに問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカルの歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたものが通底している作家の楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。
よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われます。エヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身の性質や考えがそのまま反映されてでてきたものでしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます。宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛がベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います。庵野秀明と宇多田ヒカルの作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます。
このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルとクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。
どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?
時間的余裕ってすごい差だと思うよ。
日本人的まじめさってのがあるのかもしれないけれど。
増田たちは別荘で朝から晩までボケーっと寝ているってできるか?本当にできるか?本当の本当にできるか?
欧米人と結婚したエッセイスト曰く、彼らはバカンスに出かけて、朝から晩までずーっと日向ぼっこができるらしい。
バカンスに一緒に行ったエッセイストはたまっていた本を読むとかちょっと書き物をするとかで退屈を紛らわせても暇すぎて困ったらしい。
...このまじめさがあって、そのエネルギーを消耗する先がないんだ、そりゃワクチン接種という"イベント"には喜んで参加するでしょ。
あと、人は優先度に応じて物事を処理するから、仕事、子育て、介護などいろんなものを抱えている世代はそれに忙殺されて、かかってもそんなに死ぬ確率が高いわけではない病気のワクチン接種にはあまり積極的になれないかもしれないと思った。
...とはいえ、老人より低い確率とはいえ重症化するんだけどさ。
善人ぶる気はない。買春する私は最低最悪の人間できっと地獄に落ちるだろう。
しかし、これは下衆なりの心のモヤモヤ(偽善なのだろうが)を吐き出すために書く。
推敲はしない。
コロナなど全くない数年前に
昼から酒を飲んで夜は繁華街に繰り出し、ゴーゴーバーや出会い系バーで女性を物色し、
みんなで思い思いの女の子をホテルに持って返ってバカ騒ぎ、最後はそれぞれの部屋でお楽しみを…
タイの女の子はおおむね可愛く、優しく、そして安い。いくらなんでも未成年女性には近づかない。
出会い待ちのたくさんの女性と、女性を物色して回遊するたくさんの男たちで本当にごった返す出会い系バーで、
自分好みのドンピシャの細くて目が大きくて髪の長い美しい女性がいた。
すぐに声をかけて提示された金額で即決し「ロング」で持ち帰った。
簡単にいうと、ショートは泊まりなしで行為のみ、ロングは泊まりありだ。
我々は悪友と女の子たちで大酒を飲んでバカ騒ぎするのでロングである必要があった。
彼女が(失礼を承知で言うが)意外にもこの類の女性としては珍しく、実は頭が良く気が使えて常識を備えた女性であることがわかった。
昼は雑貨店で働き、海外旅行に行くお金を貯めるために出会い系バーに立っているのだという。
民泊の別荘だったので我々以外人はいない。大広間でさんざん飲んだあと、
他の部屋の分も合わせて、彼女の案内で24時間スーパーまで二人で買いに行った。
普通に雑談しているなかで「実は私はタイ人ではなくミャンマー人なのだ」と彼女はすまなそうに言った。
タイにはそれなりの人数のミャンマー人がいることをそこで初めて知った。
「君がミャンマー人だからってなんの問題があるの?」と答えた。
タイで暮らすミャンマー人の日々の気持ちや生活の様子はうまく想像できなかった。
二人でスーパーでタオル他、必要そうなものを二人で仲良く話しながら買い出ししていると、
でも、話はそれでほぼ終わりで、
「ロング」の女の子は、朝起きたらすでに帰っていたりするが、
彼女は疲れていたのか起きてもまだいた。
着替えながら「今度日本に旅行に行くから連絡していいか」と言われLINEを交換して
彼女は部屋を出ていった。
数ヶ月後に「日本に来てる。会えるか?」とLINEが来たが仕事が多忙を極めて会えなかった。
それで連絡は途絶えた。
最悪を承知で書くが、別の国の紛争が完全な他人事でない気持ちになるのは初めてだ。
巻き込まれてないとは思うのだが