「勅裁」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 勅裁とは

2021-06-29

anond:20210628194034

ちょく‐さい【勅裁

天子による裁決。 勅断。 2 明治憲法下で、天皇が他の機関参与を待たず、直接に裁決したこと




直接と書かない雑な日本語センスの持ち主が読む繊細なバース

2021-06-28

宇多田ヒカル同性愛ぽい歌一覧

宇多田ヒカルクィアであるというのは、コアなファンクィアファンの間ではかなり昔から共通認識でありました。

もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカル歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものほとんどです。ですから当事者人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品からこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情のものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています

一方で、宇多田ヒカル自身内面を初めて強く出して制作したと語るアルバムULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁クィア的な表現歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。

([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)

Making Love [ULTRA BLUE](2006)

引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます

「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイレトケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から親友である女友達彼氏同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます

Passion [ULTRA BLUE](2005)

「昔からの決まり事を/たまに疑いたくなるよ」

わたしたちに出来なかったことを/とても懐かしく思うよ」

宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。

ぼくはくま [HEART STATION](2006)

宇多田ヒカルオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイ男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます

「けんかはやだよ くま くま くま」

「冬は眠いよ くま くま くま」

ぼくはくま 九九 くま/ママ くま くま」

どうでしょうか?

Prisoner of Love [HEART STATION](2008)

ドラマラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなもの歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさら意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。

人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷現実が二人を引き裂けば」といったバースどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛視点同性愛視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?

時間だけのバカンス [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル椎名林檎デュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向オープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。

もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります椎名林檎パートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。

この歌詞バカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアである想像するでしょうか?

個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます

一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます

ともだち [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。

「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」

「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」

など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉構成されている歌詞だと感じられます

この楽曲最初に発表されたのはNHKSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカル上記発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。

Time (2020)

「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」

「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」

この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります

先に、宇多田ヒカル大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもありますしかしながら、宇多田ヒカル歌詞全般的クィアである当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップス歌詞における「あなたと私」という主題問題や、女性シンガー歌詞でつかう「僕」という一人称問題など、ポップス歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするとき問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカル歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたもの通底している作家楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。

よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われますエヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身性質や考えがそのまま反映されてでてきたものしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛ベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います庵野秀明宇多田ヒカル作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます

このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。

どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん