はてなキーワード: 文化の日とは
エクセルでカレンダー表を自動作成するためにVBAでプログラム組んでる最中、ふと「祝日」って何なんだろう?と思って、結局法律なのかなぁと祝日法の条文読んでてワロタw
成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法 の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
山の日 八月十一日 山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
「どっちが育ちが良さそうに見えるか」でいったら完全に彼女の方だぞ。
やんごとなき方々は和食のマナーにも精通してて、きちんと和食のマナーも知っていて、バランスよく順番に食べることが最も良いことだ、ということはご存知だと思うが、
増田はその程度も知らないようなのになぜかカイガイガー的な発想のコース料理だけの事をいってるのか?
コース料理でも、目の前に出てきた物のなかで添え物とメインを完全に分けて食べる、なんて食べ方はしないと思うが。
その辺はマナー自体知らないけど、やんごとなき増田ならご存じですかね?メインの皿で肉だけ全部食べてから添え物食べるのが正しいのかね?そんなの見たこと無いけど。
しかも最近では一品ずつ順番に食べた上でご飯を最後に回した方が血糖値が上がりすぎず健康的であることも知られてきていて、彼女の方が医学的にも正しい。
うーん、これは一般的に確かに野菜などを先に食べると血糖値などが上がりにくかったり吸収の仕方も違う、言ったことがあるようですが、
基本、野菜などが先に出てきて順番に最後にメインを食べる、と言う洋食に比べ、
全てが一緒に出てくる文化の日本の方が血糖値に問題が無いのは何故でしょうかね?
内容自体が違うので何とも言えませんが、実際、分けて食べたほうが100%良い、というわけではありません。
数年後にはそのまま論説がひっくり返ってるかもしれない程度の「医学的」な話なのでそれでどうこう言っても仕方ないでしょう。
普通の人は、それがすき焼きでも寄せ鍋でも同じようなもんで、特に気にもとめないだろうが
ネトウヨは「なんでわざわざキムチ鍋?韓国のステマに違いない」とか思って、胸騒ぎを覚えるらしい。
日本人資本で経営されてる韓国料理屋、日本に何軒あると思ってんだよ。
ステマ・ごり押しさえなければKポップ市場もこんなに大きくならないはずと思ってるようだ。
普通の人はブームには仕掛け人がいてもおかしくないと考えるだろう。
かつ、ネトウヨのネガティブキャンペーンがけっこう強力だからKポップ市場がまだこの規模に留まっている、という可能性もありそうだ。
にしても、最近の若者は知ってるのかしらないけど、昔は韓国が日本文化に対して鎖国してたんだよね。
文化みたいに国境を越えるものを必死で食い止めようとする韓国が滑稽に見えてたもんだが、
いまは逆に日本人の一部が韓国文化の日本での流行を必死で食い止めようとしてる。
何のため?と思っちゃうんだな、俺は。
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome
上の2つのエントリーなどで、有名ブログ「中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。
少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから。
たったこれだけの「自分の感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは
しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)… だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。
と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉はけしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです。
しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリーの中国嫁けしからん!嫁は差別!精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。
さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります。広辞苑と新漢語林。要するに辞書です。
広辞苑によると、嫁は
(1) 息子の妻
(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。
(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略
とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、
とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。
妻: かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。
奥: 貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。
婦: 女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性、家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。
細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。
他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。
奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分の配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようです。しかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまいます。配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です。
こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人の配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。
もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。
さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉は差別的である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念が過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスのたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉にネガティブな意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。
しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブな意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです。
こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れのフェミニズムの教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070515-00000014-yom-pol
秋の祝日をまとめ、11月上旬に「大型連休」をつくる構想が15日、与党内に浮上した。旅行をしやすくすることで、観光業の振興や景気刺激につなげようという狙いだ。自民、公明両党間で夏の参院選の共通公約に盛り込むことも視野に、効果や問題点などに関して検討する。
構想は、10月第2月曜日の「体育の日」と11月23日の「勤労感謝の日」を、同3日の「文化の日」の前後に移動し、土日や振り替え休日を活用して長めの連休を取りやすくする内容。
これが実現したら「彼が確実に彼女さんのところに行っちゃう長期休暇」がまた一つ増えるのか…
お願いだからやめて欲しい。お願い。
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/gamescramble.aspx?n=MMITew000005012007&cp=2
を読んだ感想。
いろいろ思うところはあったのだが、特に下の記述に違和感を感じた。
一部だけ切り取って批判するのも問題があると思うので、記事の要旨を推測してみたら、こうなった。
「IT革命によって世界はフラットになった。その結果、ゲーム産業にとっても最大のコスト要因は人件費になった。英語圏は、スケールメリットがあり、情報量とアウトソーシングの面で有利である。(ので、日本人も英語圏へ飛び込もう!?)」
普通に考えて、現行の英語の教育システムには問題があると思うし、英語を学んでも損はないと思うが、日本人であることがハンディキャップになるというのはおかしな話だと思う(単にマスコミにありがちな煽りなのかも知れないが)。もう少し話を整理してみる必要があるような気がする。
例えば、日本の「アニメ」は、アジア各国にアウトソーシングしているが、英語で意思疎通しているんだろうか?IT関連は「日本語」で意思疎通しているようだが。大体、英語の非ネイティブスピーカー同士が英語で意思疎通すると、もともと日本語が持っていた微妙なニュアンスがフィルタリングされるのではないだろうか?
何が言いたいのかというと、意思疎通のツールとして英語を使うと、出来た作品も英語チックなものが出来上がるのではないかということだ。なぜならば、思考は言語によって規定され、言語によって文化が規定されるからだ。(もちろん、例えば、英語が「他言語を取り入れて」、英語としての新語を作ってしまう場合もあるが、その定義自体、英語圏の文化の影響を受ける(mangaとか))
つまり、日本人にとって、自分が日本人であることは最大の利点なのではないだろうか。
大体、フラット化した世界では、文化という不合理性(=偏り)が、有利に働く気がするのだが。わざわざ、日本人がネイティブスピーカーや語学の得意な民族などのような人たちと、英語圏という同じスタートラインで不利な戦いをする必要がどこにあるのだろうか?
結局、この記事の何が問題なのかというと、ローカル文化の日本の会社にグローバルな欧米英語圏の会社と同じ解決方法をとらせようということにあるのだと思う。繰り返すが、わざわざ相手が有利な立ち位置で戦う必要など微塵もないのだ。
言うまでもないが、日本の製品である「ニンテンドーDS」は世界中で売れている。
では、そこにリソースをつぎ込むのが当然の戦略ではないか。日本はローカル文化なのだから、資源は限られている。日本には全ゲーム産業を仕切る資源などないし、一部の勝ち組しかいないグローバルスタンダードで戦う必要性がどこまであるのか非常に疑問だ。
むしろ、日本に必要な戦略は、日本語圏の維持ないしは拡大を行い、最も質の高い消費者を持つ市場として安定させることだと思う。
当たり前だが、消費者の目が肥えているほど、求めるものがシビアになる。偽悪的に言い方をすれば、娯楽産業は、より高度な「インチキ」で消費者をだまさなければならない。そして、些細な材料から作られた高度なインチキは高い粗利を生む。それが文化力ということだと思う。
良く、DSは、任天堂のソフト(と一部のメーカー)しか売れていないといわれている。
しかし、ネットを徘徊していて気が付いたのだが、サードパーティの新作の洗練されたうさんくささというか、カオスっぷりがすごい。私はそれに非常に可能性を感じる。だから、日本のゲーム制作者には怪しげなソフトをたくさん作ってもらいたいし、それが日本のゲーム制作者とユーザーの幸せにつながるに違いないと思うのだ。
『くるくる◇プリンセス ??フィギュアできらきら☆氷のエンジェル??』
http://www.famitsu.com/game/coming/2006/12/27/104,1167202459,65080,0,0.html